私たちは、頭では真実は多数決ではない、と思いながら、身体は多数決で認知される物事を真実だと感じてしまう。そういう身体になっているのでしょう。それで、たいていはうまく生きていかれます。過去の人類は、そうして生き残り、そう感じる身体を持つ子孫を増やしたのでしょう。
そうであれば、真実は多数決できまる、として、結果は間違うことはない。そう言い切るのは不愉快であるけれども、実際的である。皆が真実と思っていることは真実なのだろう。それを真実と思っておこう、として私たちは実生活を送ることができます。
私たちは、頭では真実は多数決ではない、と思いながら、身体は多数決で認知される物事を真実だと感じてしまう。そういう身体になっているのでしょう。それで、たいていはうまく生きていかれます。過去の人類は、そうして生き残り、そう感じる身体を持つ子孫を増やしたのでしょう。
そうであれば、真実は多数決できまる、として、結果は間違うことはない。そう言い切るのは不愉快であるけれども、実際的である。皆が真実と思っていることは真実なのだろう。それを真実と思っておこう、として私たちは実生活を送ることができます。
人間は頭と身体の感じるところが一致するとは限らない。むしろ、たいていは一致しない。認知科学で心的機能のモジュラー構造 といいます。左脳と右脳は違う真実を感じている、とか、「大丈夫」と言いながら涙が出ている、とか、口で言っていることと目の表情が違う、とかよくいわれます。
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頭ではそれが真実だと思うが、身体はそれが真実だとは思えない。というような言い方があります。頭では、自民党が真実を言っていると思うが、身体では民主党が真実を言っている、と感じる。あるいは逆。というような言い方はよく聞きますね。
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それは形の上で多数決をとることに近い。過半数の多数決というよりも、四分の三、あるいは五分の四の多数決、あるいは、ほとんど全員という場合はどうでしょうか?実際、百分の九十八の多数が真実だと思っていると感じられる場合、それが真実ではないと判断することは、だれにとってもなかなかむずかしいと思われます。
そうであるけれども、私たちは真実が多数決で決まると思うと不快を感じる。そういうことでしょう。
拝読ブログ:私たちには「真理」そのものは与えられていない、あるのは客観的事実への「確信」のみ。 「真実・真理とは何か」と漠然と問うても不毛な議論しか生まれない。: 四畳半大学 宮国研究室 (現象学)
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最後は、自分でそれがたしかに真実だと感じられる、ということで納得できる。つまり、私の身体がそれを直感で真実として受け取っている、ということであり、そしてさらに重要なことは、仲間がほとんど皆、身体の直感でそれを真実として受け取っているということがはっきり感じられる、ということが重要です。
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