そのあたりが西洋哲学の始まりです。宗教を普及し人民を統治するために、言語技術者たちは哲学によって教育され、聖職者になり、役人になり、学者になり、教育者になり、社会の指導階級になって法律や制度を作っていきました。その人たちは「命」、「心」、「自分」、「利害得失」というようなものの存在感をしっかり感じることができました。自分の意思、自分の人生、というものをしっかりと見据えてそれらを間違いない論理で組み上げ、自分の社会的役割を意識し、ステータスを意識し、冷静に利害得失を計算し、自信をもって着々と仕事をこなす模範的な人々だったのです。
そういう人たちの仕事の一つとして科学が立ち上がり、目に見えて手で触れる物質についての理論体系を作ることに成功しました。これは大成功でした。西洋人たちは科学を応用して、極度にエネルギー効率がよい、大きくて複雑で、あるいは極度に精密な、各種の機械装置を作り、地球を周回し、世界中にキリスト教やスペイン語や英語や銃火器や伝染病を広めました。
哲学者たちは、科学の大成功を羨みました。ところが哲学は、科学のように、明らかなところだけを語ってすますわけにはいきません。人々は哲学に、人間の経験する深遠な神秘を説明する理論を期待しているのです。その期待に応えてこそ、哲学はもっとも高尚な学問としての地位を確保できるわけです。最高の言語技術者である哲学者たちに、それが期待されるのです。人々は天才的な頭脳を持った哲学者が現れて、この世の深遠な真理を解明してくれることを期待するのです。
しかしそれは結局、無理なことを期待しているわけです。人間が自分の感じるものの全体を理解するための理論を言葉で語ろうとすると、天才であろうとなかろうと、結局は間違いを語るしかなくなるのです。
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