哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

中国国家主席という集団運動

2008年11月30日 | x9私はここにいる

たとえば話し手が、携帯電話で「今、迎賓館前が交通止めなの。胡錦濤主席がここにいるからなのね。しかたないから遠回りしていくわ。十分くらい遅れると思うけど」と言っている場面。この話し手は、四谷の迎賓館の前でタクシーの窓から整列した機動隊を見ているが、中国国家主席本人の姿を直接見ているわけではない。それどころか、新聞でその国家元首の顔写真を見たような記憶もあるが、それさえも確かではないくらい、その人物を知らない。それでも、彼女は主席がここにいる、と思っている。携帯電話の聞き手のほうは、新橋駅前で待ち合わせていて、もちろん、今迎賓館の中にいる中国国家主席の姿は見えるはずはない。それでも、この会話をすることで、聞き手の脳内では、話し手との仮想運動の共鳴が起こり、「胡錦濤主席がそこにいる」という集団運動を、はっきりと仮想体験している。

ちなみに言語を使う場合、運動共鳴を起こす群集団といっても、通常、話し手と聞き手の二人だけで構成される。仮想運動の共鳴を起こす神経機構は(拙稿の見解では)群棲霊長類の群運動に由来するところから、拙稿ではこのような二人の人間どうしの会話の場合も集団運動と呼ぶことにする。(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

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「ここにいる」の身体共鳴反応

2008年11月29日 | x9私はここにいる

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話し手と聞き手の二人でつくる集団は、続いて、「ここにいる」という述語の内容である仮想運動(「いる」という運動)に共鳴する。「ここにいる」という語はどう使われるか? 

「○○はここにいる」と言うとき、話し手は○○という人物を、今、目の前に見ている。あるいは、目をつぶっていたり、顔をそらしていたりして、実際は見えていないかもしれないが、それでも、見ているかのようにその姿を想像しながら言っている。話し手の身体は、今まさに○○を実際に見ている場合と同じように反応している。

聞き手のほうは、○○を実際に見ている場合もあれば、遠くにいて見ていない場合もある。聞き手が今見ていないとしても、振り返ったり、移動してある場所に行ったりすれば、○○を見ることができる。あるいは、あたかもそうできるかのように想像している。こうして、聞き手の身体もまた、話し手の身体と共鳴して、同じように、今まさに○○を実際に見ているかのように反応する。

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自分自身に憑依する

2008年11月28日 | x9私はここにいる

二人の人間が会話する場合、言葉を交わすことによって話し手と聞き手は、ともに、(拙稿の見解では)主語が表わすものに憑依する(憑依:拙稿の造語→拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」。これは話し手と聞き手、二人の脳内の神経活動が共鳴する現象といえます。共同してそれを行うということでは集団活動といえる。つまり、話し手と聞き手は、憑依という仮想運動に共鳴することで、文の内容に対応する運動―感覚神経活動を集団(ここでは話し手と聞き手で構成する二人だけの集団)として仮想体験する(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

文「私はここにいる」の主語は「私」なので、話し手と一致する。この場合、話し手と聞き手の二人は、集団運動として(あらためて)話し手に憑依する。つまり聞き手は話し手に憑依し、話し手は自分自身に憑依する。重要なことは、この場合、話し手は聞き手と無関係に単独で憑依運動を起こすのではないことです。話し手は、無意識のうちに、聞き手と一緒になって、二人で一個の集団としての運動共鳴を起こす(つまり群行動で使う集団的運動共鳴の神経機構を使っている)。その集団的共鳴運動として、一人の人物(この場合は話し手自身)に憑依することになる。

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いろいろな存在とその世界

2008年11月27日 | x9私はここにいる

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私はここにいるから、あなたたちが見つけようとすれば見つかるはずだ。ただし、あなたたちが見つけないとしても、私がここにいることは確かだからあなたたちとは関係なく私がここにいるのだ、と、この言葉は言っています。

「私はここにいる」 この文は、私が私の状態を語っている。つまり、話し手が話し手自身に関して語っている。しかも話し手を原点として周りの世界を見渡しながら語っている。話し手は、まるで、自分だけの世界について自己中心的に語っているかのようです。しかし、だれがどのような言葉を語るとしても、言葉を語る以上、語られるその世界は話し手だけの世界ではない。かならず、聞き手がいる。

独り言だろうと、言葉を話す限り、自分という聞き手に向かってしゃべる。言葉というものは(拙稿の見解では)話し手と聞き手の両方が共有する世界についてだけ語ることができる。一人だけのための言葉というものはない。それなのに、この文は、話し手が自分ひとりの世界についてだけを語っているつもりになって語る。あるいは、そうであるように聞こえる。聞き手を無視しているかのように聞こえる。そこに、違和感が現れる。

「私はここにいる」というこの文は、実際、話し手、聞き手、話し手から見た世界、聞き手から見た世界、客観的な世界、といういろいろな存在とその世界、そしてそれらの相互関係が同時に表れてくる問題を作り出す。その、興味深いけれどもいささか複雑な構造を、よく調べてみる必要がありそうです。

拝読ブログ:本当ですか

拝読ブログ:街へいこうよケダモノの森!!!!

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私はここにいるわよ

2008年11月25日 | x9私はここにいる

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私はここにいる

この言葉がふつうに使われる場面を考えて見ましょう。迷子になった子供が泣きながら叫ぶ。「お母さん、どこ?」母親が後ろのほうから「私はここにいるわよ」と答える。

こういう場面での言葉の意味は明らかです。話し手(この場合、母親)は自分が発言している場所はどこかという情報を聞き手に伝えたい。つまり、話し手がいる場所を知らせたい。聞き手は、声を聞くことでその場所が分かる。この場合、「私はここにいる」という代わりに、「この発言の話し手は、聞き手の後方十メートルの地点にいる」と言い換えても、情報としては同じことになる。この場合、実際はむしろ簡単に、「はーい」とか、何でもいいから声を上げればよいのでしょう。声色でお母さんと分かる。それでも、情報としては同じことになります。

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