たとえば話し手が、携帯電話で「今、迎賓館前が交通止めなの。胡錦濤主席がここにいるからなのね。しかたないから遠回りしていくわ。十分くらい遅れると思うけど」と言っている場面。この話し手は、四谷の迎賓館の前でタクシーの窓から整列した機動隊を見ているが、中国国家主席本人の姿を直接見ているわけではない。それどころか、新聞でその国家元首の顔写真を見たような記憶もあるが、それさえも確かではないくらい、その人物を知らない。それでも、彼女は主席がここにいる、と思っている。携帯電話の聞き手のほうは、新橋駅前で待ち合わせていて、もちろん、今迎賓館の中にいる中国国家主席の姿は見えるはずはない。それでも、この会話をすることで、聞き手の脳内では、話し手との仮想運動の共鳴が起こり、「胡錦濤主席がそこにいる」という集団運動を、はっきりと仮想体験している。
ちなみに言語を使う場合、運動共鳴を起こす群集団といっても、通常、話し手と聞き手の二人だけで構成される。仮想運動の共鳴を起こす神経機構は(拙稿の見解では)群棲霊長類の群運動に由来するところから、拙稿ではこのような二人の人間どうしの会話の場合も集団運動と呼ぶことにする。(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
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