「自分」つまり「私」、もまた同じ。
人間は目で見たり耳で聞いたりして他人の人体の動きを感じると、自動的に次に続くその人の動きを予測することができます。敏感に他人の内部で動く運動形成を自動的に予測することで、それに反応して自分の運動を形成していきます。もともと人間の脳は、無意識のうちに、他人が感じることは自分が感じることと感じ、自分が感じることは他人も感じることと感じるようにできています。赤ちゃんは、成長する過程で、目に映るひとつひとつの人体を識別していきますが、目に見えて動いている人体の中で、一番、中心に近い所に、ひとつだけ、自分の身体感覚と運動感覚にぴったり対応する人体があることに気づいてきます。
赤ちゃんが成長するにつれて、自然にこの中心にある人体の感覚の経験を記憶として蓄積していけるようになります。まずこの目に見える手足とそれにつながる肉体に触感、運動感覚、内部感覚をうまくつなげて感じることができるようになります。その経験を学習して、物質世界に感じられるその(中心的な)人体に自分がこれからする運動とこれから受けるはずの感覚を予測して投射するようになります。それでその人体の運転方法を習得するわけです。
逆に運転可能なことが分かったその人体の経験を自分という概念として捉えていくわけですね。そして幼児になると、その自分の人体を他人の目で見ることを想像してその他人が感じるだろうその人体のイメージに(外から中へ)乗り移って、それを内側から運転している気持ちになってきます。ドラマやゲームのキャラクターに乗り移るのと同じ脳の機能です。
人間はこのようにして、物質で構成されるこの世界の中にあるひとつの人体、自分と呼ぶその人体、に(外から中へ)乗り移ってそれを運転して(自動車よりはむずかしいらしい。免許を取るくらいまでに二年はかかる)毎日を暮らしています。当然、乗り移ったその人体も他の人体と同じように持っているはずと感じられる「心」を他人の視点に立って観察して、それを自分の心、と思うようになります。筆者の見解では、このような脳の機構は生まれつき人間に備わっているものです。自我に対するこのような見方は、最近の心理学ではかなり多く提案されています(たとえば二〇〇二年 ティモシー・ウィルソン『我々自身、他人』)。
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