哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

自分=他人=運動回路の共鳴

2007年03月31日 | 4世界という錯覚を共有する動物

Hatena34 なぜでしょうか?  

それは、世界をこう感じるような、脳がそのように働くような人類が生き残ってきたからです。

世界をこう感じてこう動くことで行動を計画し準備するような脳を持った人類は、仲間とお互いに有益な錯覚を共有し、その錯覚に伴う感情を共有して、それを言葉で表わし、うまく協力できるようになりました。その結果、猛獣から身を守り、肉や果実などカロリーの高い栄養を採集できて、子供を産み、効率よく育てられました。それで今、そういう脳を作り出すDNA配列(ゲノム)を持った人類が生き残って、どんどん増えているわけです。

群行動が発達した霊長類から進化した人間は、他の人間の身体の動きを見聞きするとその運動に対応する自分の脳の運動形成神経回路が、自動的に共鳴して活動します(筆者は、これを運動形成神経回路の共鳴と呼ぶことにしています)。つまり人間は自動的に(無意識に)、脳の中で、いま見えている他人、あるいは想像している他人の運動(視線、表情、発声なども運動)をなぞってしまうのです。

拝読ブログ:新生児の共鳴動作

拝読ブログ:捨てる、そして拾わない

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私という記号

2007年03月30日 | 4世界という錯覚を共有する動物

自分とは何か? これは、哲学の大難問である、ということになっています。しかし、話し手が「私」という言葉を使うとき、それは聞き手の前でしゃべっているその人物を話題にして語っている、ということを表わす記号に過ぎない。なにも神秘的なものはありません。それなのに、人間は、自分というものが大問題であるかのように感じる。自分というものが存在することを神秘だと感じる。そのことこそ不思議ではありませんか? 

自分が存在することが不思議。言い換えれば、世界が存在することが不思議。自分がいなくなっても世界が存在するらしいことが不思議。世界があってもなくても自分が存在するらしいことが不思議。これらは危険な疑問です。うっかりその沼に足を踏み入れると、抜けられない神秘の淵に陥る。古来、哲学は次々とここに落ち込んでいきました。それなのに、人間はなぜ哲学をするのか?

拝読ウェブサイト:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン青色本

拝読ブログ:タミフルについて知りたいこと

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自我は神秘?

2007年03月29日 | 4世界という錯覚を共有する動物

「自分のことは自分が一番よく分かっている」と私たちはよく言います。慣用句になっています。しかし、これは本当でしょうか? 錯覚ではないでしょうか。人間は、本当に、他人の気持ちよりも自分の気持ちのほうが、よく分かるのでしょうか? 胸に手を当てて考えてみましょう。その胸から下しか見えないこの身体。鏡を見れば、いつもこちらを見ている見慣れた顔。写真だとだれだか分からないこともある。人が見たらそういうふうに見えるらしい自分。それのことをどのくらい分かっていますか? 過去のエピソードからその人物の性質が推測できます。でも、それは他人の話でも同じようなものでしょう。同じ程度に詳しく知っていれば、自分も他人も同じくらい分かる。そのくらいしか自分のことも分からないのではないですか?

え? やはり他人のことは分かる気がしない? それは、他人に関心がないからですよ。自分に関してと同じくらい、その人に関心を集中して、過去のエピソードをすべて知り、いまの眉の動きも、お腹の力の入れ具合も全部観察してみましょう。どうですか? 自分と同じ程度に気持ちが分かるでしょう? 逆に言えば、自分のことだってその程度にしか分からないはずです。

つまり、私たちはだれもが、実は自分も自分以外のどの人間も、その中身が同じように分かる。同じくらい分かる。そして、自分とその他の人間が、この世界をどう感じているかも分かります。それは、みんながこのように感じていると感じられるからですね。それは、自分もその他の人間も、だれもまったく同じようにこの世界を感じていることを、私たちは物心がつく前から、無意識のうちに知っているからです。そして、そのだれもが感じているお互いの、一人一人の人間の心がよく分かります。それで世界の存在感、つまり、だれもみんなが共通に感じているらしいこの物質世界とすべての人間の心が、現実に、しっかりと存在していると感じられるわけです。さらに自分の五感が投射されているこのひとつの人体、それを通じてしか世界を感じることができないらしいこの自分という存在を、その存在するらしい世界の中に再発見して、そのことを神秘だ、大事だ、とも思うわけです。

拝読ブログ:思い出したこと

拝読ブログ:止まった時間。

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運動形成回路の共鳴が自我を作る

2007年03月28日 | 4世界という錯覚を共有する動物

「自分」つまり「私」、もまた同じ。

人間は目で見たり耳で聞いたりして他人の人体の動きを感じると、自動的に次に続くその人の動きを予測することができます。敏感に他人の内部で動く運動形成を自動的に予測することで、それに反応して自分の運動を形成していきます。もともと人間の脳は、無意識のうちに、他人が感じることは自分が感じることと感じ、自分が感じることは他人も感じることと感じるようにできています。赤ちゃんは、成長する過程で、目に映るひとつひとつの人体を識別していきますが、目に見えて動いている人体の中で、一番、中心に近い所に、ひとつだけ、自分の身体感覚と運動感覚にぴったり対応する人体があることに気づいてきます。

赤ちゃんが成長するにつれて、自然にこの中心にある人体の感覚の経験を記憶として蓄積していけるようになります。まずこの目に見える手足とそれにつながる肉体に触感、運動感覚、内部感覚をうまくつなげて感じることができるようになります。その経験を学習して、物質世界に感じられるその(中心的な)人体に自分がこれからする運動とこれから受けるはずの感覚を予測して投射するようになります。それでその人体の運転方法を習得するわけです。

逆に運転可能なことが分かったその人体の経験を自分という概念として捉えていくわけですね。そして幼児になると、その自分の人体を他人の目で見ることを想像してその他人が感じるだろうその人体のイメージに(外から中へ)乗り移って、それを内側から運転している気持ちになってきます。ドラマやゲームのキャラクターに乗り移るのと同じ脳の機能です。

人間はこのようにして、物質で構成されるこの世界の中にあるひとつの人体、自分と呼ぶその人体、に(外から中へ)乗り移ってそれを運転して(自動車よりはむずかしいらしい。免許を取るくらいまでに二年はかかる)毎日を暮らしています。当然、乗り移ったその人体も他の人体と同じように持っているはずと感じられる「心」を他人の視点に立って観察して、それを自分の心、と思うようになります。筆者の見解では、このような脳の機構は生まれつき人間に備わっているものです。自我に対するこのような見方は、最近の心理学ではかなり多く提案されています(たとえば二〇〇二年 ティモシー・ウィルソン我々自身、他人』)。

拝読ブログ:自我の目覚

拝読ブログ:ごはんが・・・・

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脳と心は別物

2007年03月27日 | 4世界という錯覚を共有する動物

実写映画の人物は人間の俳優さんが演技しているわけですが、最近のアニメはコンピュータで描かれています。現在の技術では、人間の漫画家が描いた基本図をコンピュータにインプットするわけですが、そのうち、白紙からコンピュータがアニメをつくることができるようになるでしょう。そうなった場合、アニメの観客が画面から感じているヒーローまたはヒロインの身体の動きや表情は、コンピュータが作ったものといってよいことになりますね。それがうまく描かれていれば、心の動きに見えます。さらにもっと未来技術を期待すれば、三次元の実物大の人間そっくりの立体像をコンピュータで動かして、心を感じさせることもできそうです。つまり、どこまでも心に似ているものを、コンピュータで作り出せる可能性がある。もっと言えば、そのコンピュータのハードウェアだって、半導体素子でなくてもよい。量子コンピュータ、バイオコンピュータ、ニューロコンピュータでもよい。神経細胞を素子として作ったそれが人間の脳とちっとも違わないとしてもおかしくないわけです。それを私たちが観察する場合、本物の人間の心とどう違うのか? 観察者にとっては、それは心を持った人間そのものではないか?(こういう考え方は現代哲学にもある。たとえば一九九五年 ネッド・ブロック脳のソフトウェアとしての心

こういうよくできた作り物。あるいはそれと区別がつかないほどそっくりな本物の人間。それらを観察する人間は、どちらにも同じように、無意識のうちに自動的に心を感じてしまいます。それが心の意味であり、この世にはそれ以上に本物の心などという神秘的なものがあるわけではありません。

バラは美しい。だが、バラの中に美しさがあるのではない。それを見る私たちの中にその美しさはあるのです。人は心があるように見える。けれども、その人を解剖してみても、脳の磁気共鳴画像を作ってみても、心が見えるわけではありません。脳科学の対象である脳と、ふつうの人が心といっているものとは別のものです。その人の中にあるように見える心はその人の身体の中にではなく、その人を見ている私たちの中にあります。

拝読ブログ:Naturalization of Qualia

拝読ブログ:脳は空より広いか 「私」という現象を考える

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