未唯への手紙
未唯への手紙
レコンキスタ(国土再征服戦争)
『スペイン通史』より レコンキスタ(国土再征服戦争)
レコンキスタの開始--「コバドンガの戦い」の勝利
イスラム勢力の侵入期に一度も占領されなかった唯一の地帯は、半島北西部の北バスクから狭くて貧しいアストゥリアスにかけてのカンタブリア山岳地帯であった。この地に避難したアストゥリアス人やカンタブリア人たちは、七一八年、西ゴートの貴族の末裔と称するペラヨを国王に選び、西ゴート王国の継承国家としてアストゥリアス王国を建国した。その後彼らは七二二年頃、カンタブリア山脈北側のカンガス≒デーオニスから数キロ離れたコバドンガでイスラム軍と初めて対峙した。標高二五七メートルの山岳地帯であった。装備も少なく、粗末なペラヨ軍は、洞窟を要塞として守りを固め、侵攻してくるイスラム軍を待ち伏せ、見事撃退してしまった。この戦いに、ペラヨ軍はわずか三百人、対するイスラム軍が途轍もない兵力だったといわれている。これこそ「建国神話」的な逸話にはよくある話だがペラヨ軍からすれば多勢に無勢だったことは間違いなかったろう。
コバドンガはキリスト教徒の「レコンキスタ」の発祥の地とされている。アストゥリアス王国はイスラム圏から来た多くの避難者や西ゴート人住民たちを受け入れ、半島におけるキリスト教信仰の擁護者の役割を果たした。こうした一連の動きとともに、国王ペラョは西ゴート王国の正統な継承者であることを公言し、レコンキスタの根幹である「西ゴートースペイン」の復興という理念を確認させた。ペラョの後継者である息子フアフィラは即位して二年後にクマに襲われて死んでしまう。それからほぼ半世紀後になるが、アルフォンソニ世は、自軍を北西部のガリシア地方に展開し、イスラム軍を放逐し、さらに南の国境線をドゥエロ川まで広げた。
伝承によると、八一四年、半島の北西部ガリシア地方で、聖ヤコブの墓が見つかったという。イリア司教区内で、毎夜不思議な光が輝き、そこにしばしば天使が現われるとの報告を受けたテオドミーロ司教はみずからその地に行き、草深い所に埋まっている大理石の聖ヤコブの墓を発見した。それを聞き付けたアルフォンソニ世は直ちに聖ヤコブの名にちなんだサンティアゴ教会を献堂し、司教区をイリアからコンポステ土フに移した。これが聖ヤコブ伝説の縁起であるが、やがて聖ヤコブは、対イスラム戦争におけるキリスト教徒軍の守護聖人とみなされるようになり、レコンキスタに十字軍の精神が付与された。だが、「サンティヤゴーマタモーロス(モーロ人殺しの聖ヤコブ)」という膚懲本位の言葉も生まれた。後にサンティアゴ・デ・コンポステーラは、カトリック三大巡礼地のIつとなるのだが、聖人伝説の縁起は何処もこのようなものなのかもしれない。八六六年、首都オビエドで即位したアルフォンソ三世は、今までアンダルスとの境界地帯だったドゥエロ川流域やその他の無人地帯に着実に植民し、南の国境線をさらに南に下げることになり、版図を拡げた。しかし、アルフォンソ三世はアストゥリアス王国の領土を息子たちに分割相続させた。そして国王の死後、長男ガルシアはレオン王、次男オルドーニョはガリシア王、三男フルエラはアストゥリアス王にそれぞれ登位する。
初期のレコンキスタ
八世紀から一一世紀前半までの、キリスト教スペインの基礎となる諸国家は、アストゥリアス王国、レオン王国(九一〇年)、カスティーリャ伯領(九三三年)、ナバラ王国(八二〇年頃)、アラゴン王国(一〇三五年)、バルセロナ伯領(八○一年)、ガリシア王国(九一〇年)であった。これらは、国とか伯領といった名称を掲げているが、アンダルスと比較するなら、おしなべて小国であり、国としての基本的な行政組織や法体系や軍事機構なども備わっておらず、言ってみれば、初代国王ペラヨを例に挙げるまでもなく、身元や血筋が明確ではないが、西ゴート時代の貴族や豪族の末裔と僣称し、戦術や武術に長けていた軍事エリートがその国の王や統治者に納まっていたようだ。従って、こうした国では、王や統治者の後継をめぐって、国内の覇権をめぐって、隣接する国との領土をめぐって、新しく誕生した国に対する軍事干渉をめぐって絶えず武力紛争、政治闘争などの内紛を繰り返していたために、実質的には対イスラム戦争どころではなかった。というより、アンダルスの軍事的優位が持続していたのだった。
「大レコンキスタ」
一二三二年、ムハンマド一世の支配するナスル朝グラナダ王国が誕生する。これ以降、キリスト教徒諸国軍は、コルドバ(三六年)、ハエン(四六年)、セビーリャ(四八年)、カディス(六三年)などを次々と占領し、アンダルスの中で唯一残ったのは、グラナダ王国であった。
これまで離合集散を繰り返してきたキリスト教徒諸国は、この陣営で覇権を確実なものにしていたカスティーリャ王国、地中海一帯に勢力を拡大していたアラゴン連合王国(アラゴン、カタルーニャ、バレンシア)、フランスとアラゴン王国に挟まれたナバラ王国の三か国となった。この陣営にも、一丸となってレコンキスタを推進するにはさまざまな社会的な問題を抱えていた。一三一〇年から四六年まで続いた不作による餓死者の大量発生、それに四八年の東部海岸へのペストの上陸によって、カタルーニャでは、推定であるが、全人口の三五~四〇%、カスティーリャでは一五~二〇%死んでしまう。これは途轍もない人口減少であり、経済は回復不可能な状態に陥ってしまった。こうした社会的な大災害が勃発すると、決まってスケープゴートを見つけ出すのである。「神殺しの下手人であるユダヤ人」だ。この年、バルセロナのユダヤ人居住区が襲撃され、これがカタルーニャ一帯に広がった。
さらにキリスト教徒陣営において、王位継承戦争、国境争議、貴族間の権力闘争などが多発し、すでに一一四三年にカスティーリャから分離独立したポルトガルがこうした紛争に積極的に関与することもあり、いわば内戦状態となることもあった。イサベル女王とフェルナンド国王の両王家統一
それが一大転機となることが起こった。ァラゴン連合国王ファンニ世は、長男で王位継承者であるフェルナンドとカスティーリャのイサベル王女とを結婚をさせようとしたのは、フランスがピレネー山脈を越えてカスティーリャに攻め込んでくるのを危惧していたからだった。一四六九年。一八歳のイサベル王女と一七歳のフェルナンド王太子が結婚する。さらに、七四年のイサベル一世の即位、七九年のフェルナンドニ世の登位により、カスティーリャ王国(人口約四五〇万人、領土三九万平方キロ)とアラゴン連合王国(人口九〇万人、領土一一万平方キロ)の同君連合国家がついに実現する。これによって二人の国王による共同統治が始まる。だが、両国の連合は国力からしても著しいアンバランスであり、事実、グラナダ戦争も主力軍はカスティーリャ軍であり、アラゴン連合王国は南進する構えを見せているフランスに対する国防上の軍隊を配置し、グラナダ戦争には補助金を提供するくらいであった。これでも一五世紀後半から政略結婚も含めて推し進められてきた王権強化政策の到達点であった。とはいっても、の二つの国には、それぞれ独自の議会、国内法、行政機構、軍機構、関税、租税システムを維持しており、言ってみれば、「王家の統一」にすぎず、厳密な意昧での、「王国の統一」ではなかった。それにしても、この共同統治はきわめて迅速であった。
答えは外にはない
個の意思決定に必要なのは完全な情報共有。勝手な思い込みでも脅しでもない。存在をかけて決める、未来からの視線できめる。 #情報共有が前提
存在をかけいるときは他者には関与しない。未来に怯えない。 #未来に怯えない
本来の教育はそのためにある。それを育成するコミュニティ。今の日本の「常識」では不可能。 #日本の「常識」
リアルな世界はとても貧弱。 #リアルな世界
答えはどこにある。外にはない。人との接点にはない。内と宇宙にある。となるとNPOなどの存在理由がなくなる。 #答えは外にはない
ファーストペンギンはおとなしい。えらぶらない。みんなのためにやめろと言ってものは偉ぶる。うまくいけばよかったじゃないか、失敗すれば言った通りになった。組織の人間はろくなもんじゃない。 #生田絵梨花は正義
過激派イスラム対女性解放
『女たちの中東 ロジャヴァの革命』より 女性の革命
過激派イスラム対女性解放
過激派イスラムの軍隊がロジャヴァと南部クルディスタンを攻撃した時、女性もまた攻撃された。女性虐殺である。都市を占領したジハーディストはそのことをモスクから拡声器で知らせた、と人権活動家アキシン・アメードが報告している。イスラム国が誘拐した女性はイスラム国メンバーに「与えられる」か、あるいは商品のように市場で「売られた」。屈服を拒否し、乳房を切られ、手足を切断された女性もいると目撃者は報告した。
イスラム国は、自分たちのイデオロギーを受け入れない女性を、たとえ少女でもレイプすることをハラール(許可された)とみなした。二〇一四年六月T八日、モスルでイラクとシリアのイスラム国(ISIS)のマフティ(イスラム教法典教職者)は以下のように布告した。「マリーク(イスラム・スンナ派の学派)のために働く兵士と政治家の妻と娘は、メンバーのためのハラールである」。レイプと性暴力は、女性への絶対的な軽蔑と女性の身体的・人格的な高潔さへの蔑視を表現する、意図的かつ永続的な戦争状態下の道具である。レイプは、その女性の男性の家族成員が女性を守るという家父長的な義務を果たせなかったということを証明することになるようだ。なぜなら、ほとんどの中東の社会ではレイプは家族の「名誉」(ナムス)を破壊し、レイプされた女性は恥ずべきものと見倣される。レイプの脅威は、復讐を挑発し、移住を強制するという目的を持つ戦争の意図的な道具である。
アーシャ・アブドュラによると、二〇一三年夏にヘセケ地方でイスラム国は、「多数のアルメニア人女性を誘拐し、レイプし、虐殺した。この地域では、クルド人、アラブ人、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒、スンニ派、アラウィー派が互いに皆和やかに暮らしていた。平和に共存していることそれ自体が、過激派イスラム集団の攻撃目的だった。この集団は今日、クルド人を攻撃しているが、目的は人々の共存を撲滅することだ。とりわけクルド人女性が目をつけられている。なぜなら、自分たちだけでなく、すべてのシリア人女性を守ろうと、戦闘において積極的に一翼を担っているからだ」。
二〇一四年八月、イスラム国はヤズディ教徒とキリスト教徒の村落と都市を襲い、七〇〇〇人以上の女性を捕らえた。女性たちは繰り返しレイプされ、財産として奴隷市場で売られた。戦利品としてジハーディストに与えられたり結婚を強制されたりした。子どもたちも性奴隷として売られた。奴隷とされた女性は携帯電話を持つよう強要され、女性たちは自分の家族に電話し、残虐行為のことを話した。自分たちが囚われているところに爆弾を落とすように軍隊に話してほしいと家族に懇願する者もいた。何度もレイプされるよりも死ぬことを望んだからだった。「私は今日三〇回レイプされた。昼食の時でさえも。トイレにも行けない。爆弾を落としてください。私はなんとしても自殺するつもりだ」とある若い女性は言った。
クルド人女性運動は資本主義的家父長制を「レイプ文化」と特徴づけた。イスラム国はこの究極の搾取文化のもっとも極端な形の一つである。著作家のディラー・ディリクは、次のように書いている。「イスラム国の多くの方法と機構は、二〇一四年の世界の各地を統治する支配的な国民国家を志向する、資本主義的・家父長制的な世界秩序の模倣である。多くの点でイスラム国は進歩的といわれる世界の至るところでの女性に対する暴力の非常に極端な型である」。
以下は、トルクメン人の村落で、二〇一四年六月二六日にイラクとシリアのイスラム国が布告したいくつかの法である。
・女性は顔を完全にヴェールで覆わなければならない。
・女性は男性の付き添いがなければ家を離れてはならない。
・女性は男性の付き添いがあっても市場に行ってはならない。
・家族に二人の娘がいれば一人はイスラム国に引き渡さなければならない。「夫」が戦線で死んだ女性は、イスラム国戦闘員に「与えられる」。
・夫のいない家で女性が三ヵ月以上暮らしていれば、イスラム国戦闘員が選んだ男と結婚しなければならない。
ロジャヴァの女性中心社会は、したがってイスラム国へのアンチテーゼである。ロジャヴァで政治的に活動している女性たちは私たちに、女性がどこでも組織を作り、イスラム主義者による恐怖から自らを守り、女性の新しい役割のために戦うことを望んでいると語った。
展望
ロジャヴアの全女性が女性組織に参加しているわけではない。多くの地域では女性は夫や家族に経済的に依存したままである。多くの女性は、自らの運命を決める能力や心構えを未だ持つに至っていない。女子学生は、初めは熱心に関わろうとするが、個人としての夢を叶えるのができずに失望して諦める。戦争状態のために、多くの願望は断念されねばならなかった。かつての政権のもとで特権を持っていた男女は、革命前の時代に戻りたいと切望している。自己統治のシステムには非常に多くの仕事が求められ、しかも無給である。独裁とバース党主義の六〇年間のあとで、多くの人々は新しい国家がやっと再び現れ、私生活に引きこもれると期待している。しかし民主主義的自治には多くのやるべきことが要請される。
依然として女性たちは、女性解放への歩みを進めている。もっとも重要なことは組織を作ることである。女性が組織を作れば、もう一つの生活をどうイメージしたらよいかが自分にもお互いにも明確となる。そして女性たちがこのイメージを実践するために組織の力を用いれば、将来の構造的な抑圧に反対できるテコを持つことになる。さらにイルハム・アーメドが指摘するように、少なからぬ犠牲者を出しているからには、女性たちは後退することはないであろう。
ロジャヴアでの革命は、国家・権力・暴力を超えた女性解放の社会というアブドュラ・オジャランのパラダイムを、クルド人コミュニティが実感できるものとした。ケルンで開かれた女性評議会で、ある活動家は次のように言っている。「三〇年開私はクルディスタン労働者党の運動の中にいて、オジャランの本はすべて読みました。しかし、心の深いところでは私はいつも『私たちはクルド人国家を目指して闘うべきだ』と考えていました。ロジャヴァ革命とアラブ人やアラム人との女性コミューンを知って初めて、国家なき女性中心社会を想像することの意義を本当に理解しました」。
女性活動家の指導によるロジャヴァ革命は、全中東での新しい女性のイメージに変化を引き起こしている。シェンガルのヤズディ教徒とアラブ人女性はすでにこのモデルにしたがって組織化を始めている。ヨーロッパでもこの展開状況は大きな感激を引き起こした。ロジャヴァのアカデミーのシステムを見習って、ドイツのフェミニストはこの教育活動を知ろうとし始めている。
ロジャヴァのクルド人女性運動は、組織的にはクルディスタン女性評議会(KJK)のシステムの一部ではないが、イデオロギー的には関係していて、その目的を共有している。この目的には以下のものがある。「クルディスタンで始まった女性革命を成就し、この革命を中東全体に拡大し、世界的規模での女性革命に尽力すること」。これは決して小さな革命ではない。さかのぼると一九九三年に、クルド人女性たちが女性の軍隊の創設を決めた時、こうしたことができると信じたのは実際ほんの数人だった。今日、女性軍は正規軍としてイスラム国との戦いを成功裡に進めている。
ローマ属州ヒスハニア
『スペイン通史』より カルタゴとローマ
ローマ属州ヒスハニア
ローマ軍は、イベリア半島全域の制圧に、実に二百年もの歳月を費やした。大規模な軍事活動を各地で展開したものの、強硬な抵抗に遭遇し、苦戦を強いられた。歴史の残るほど激しいものを挙げるなら、例えば、ルシタニア人の叛乱(前一五五~前こ二六)とケルトーィベリア人の第一次抵抗(前一五三年)、ケルト・イベリア人の第二次抵抗(前一四三~前一三三)などである。
なかでも、最後に挙げたケルト・イベリア族の第二次抵抗は、「ヌマンティアの戦争」とも言われている。ローマ軍に対する抵抗戦の象徴というべきドゥエロ川上流の自然の要塞の町ヌマンティア(ソリア郊外の、現ヌマンシア)の戦いにおいて、総勢六万人のローマ軍将兵、七か所の包囲基地、百キロの塁壁を築いてこの町を兵糧攻めしたが、この町の八千人弱の住民が執拗、果敢な抵抗を繰り広げたため、ローマ軍は「ローマの恥」と言われるほどの苦戦を強いられ、この町を攻略するのに一〇年もかかった。ローマ軍の重包囲作戦で飢餓に追い込まれ余儀なくローマ軍の軍門に下るが、その際多くの住民は自害し、残りの者は奴隷として売られた。この町の息の根を止めたのは、第三次ポエニ戦争においてカルタゴを徹底的に壊滅させたローマ軍の将軍スキピオ(小)であった。
ヌマンティアの攻囲戦は、スペイン人の愛国心を鼓舞する出来事として後世まで語り継がれている。例えば、セルバンテスは戯曲『ヌマンシアの包囲』を書いた。また、二〇世紀の「二七年の世代」の詩人の一人、ラファエル・アルベルティは、スペイン内戦期にフランコ叛乱軍に包囲され、それに勇敢に抵抗するマドリードを舞台にした同名の戯曲(初演一九三七年)を書いた。ヌマンティアの戦闘以降、ケルト・イベリア人の抵抗は続いたが、前二九年に勃発したカンタブリア戦争の敗北(前一九年)で、彼らの多くの者はヌマンティアの敗北と同様に、生きて絹枝の恥ずかしめを受けるよりも自決を選んだ。こうして彼らの抵抗も次第に下火になり、ローマの支配がイベリア半島全域におよぶようになる。
パクス・ロマーナ
ローマの共和制支持者による独裁者カエサルの暗殺(前四四年)とその後の内乱による秩序の回復に尽力した、カエサルの養子オクタウィアヌスは、元老院より「アウグストゥス」の称号を授与され、帝政を始めることになる。つまり彼は、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなり、養父カエサルの開拓した道を切り開くべく、ヒスパニア征服作戦に着手する。
アウグストゥスは、対ローマの最後の武力抵抗である、カンタブリア戦争(前二六~一九)に陣頭指揮を執り、戦いの途中で、身の危険を感じてか、臣下の将軍に指揮を任せ、前二五年にローマに戻り、皇帝として凱旋式を執り行う。また彼は、従来の属州を再編し、ヒスパニア・ウルテリオル州を二分してヒスパニア・バエティカ州とヒスパニア・ルシタニア州に、それにヒスハニア・タラコネンシス州の三属州に分割統治し、イベリア半島をローマ帝国の属州ヒスパニアとして機能するようにした。
当初、ローマの狙いは、イベリア半島の資源を確保することだったが、アウグストゥスがヒスハニア全土の平定を達成して以来、半島のローマ化を企て、ローマの経済機構、法体系、行政機構、文化、貨幣制度、そしてキリスト教などを持ち込んだのだった。
半島でのローマ帝国の最も繁栄した期間は、アウグストゥスから始まり、「ローマ五賢帝」(九六~一八〇)までの期間である。国境が強固で、内政もよく行われ、各属州には、多くの都市が建設され、この二百年の黄金時代は、「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」と言われている。この時期には、すでにヒスパニアから、ローマ本国人より優れた逸材、それも皇帝を輩出するようになっていた。
この「ローマ五賢帝」の中に名を連ねる二名の皇帝はともに、セビーリャから北西九キロの、グアダルキビール川を見下ろす丘に、前二〇六年に植民市として築かれたイタリカ(現サンティポンセ)出身者であった。トラヤヌス帝は、九七年にネルウァ帝の養子になり、翌年養父の死去にともない皇帝に即位する。彼は初めての「養子皇帝」であった。まず彼は、元老院と協調して国内政治を安定させ、先代の皇帝ネルウァが始めた寡婦や孤児の扶助を継続し、公的な教育機関を創設し、商業や交通の充実を計った。外交的には積極的で、二つの対外戦争に勝利を収め、ローマ帝国最大の版図を実現した。
もう一人の、ハドリアヌス帝は、トラヤヌス帝が重病にかかったときに、養子になった。養父トラヤヌス帝が実践的な「ローマ人」だったのに反して、彼は「小ギリシア人」と言われただけあって、ギリシア的学芸を重視し、先代の外征政策を放棄して、帝国の維持と繁栄のみに尽くした。二三年頃、属州ブリタニア北部を訪れ九時、現在のスコットランドに移住していたケルト系カレドニア人の侵入を阻止するために、全長二石キロの堅固な石造りの防壁の建設を命じた。「ハドリアヌスの防壁」である。
1個の細胞と1人の人間が生命と地球を救える
『がん哲学のレッスン』より がん細胞の不思議
本題です。がんはどんな病気で、どうして起こるのでしょうか。それを知るために、がん細胞とはどんなものなのか説明します。
まずは理科のおさらいです。人の体は、約60兆個の細胞からなり、一つ一つの細胞の中に核が入っています。核の中には46本の染色体があり、その染色体をほどいていくと、ひも状のらせん構造をしたDNAが現れます。DNAのうち、遺伝情報を伝える部分を遺伝子、と呼びます。
がんは、この遺伝子の変異から起こる病気です。
遺伝子は、塩基の組み合わせで遺伝情報を伝えます。塩基には4種類あり、うち3種類の組み合わせで様々なアミノ酸を作ります。そのアミノ酸をさらに組み合わせて、細胞をはじめとする様々なたんぱく質ができます。
この遺伝子に突然変異が起こり、余計な塩基が挿入したり、本来の塩基が欠失したりして塩基配列が変わると、それに伴ってアミノ酸も変わり、たんぱく質も変異するのです。これが、細胞のがん化への一歩です。
1個の細胞を地球の大きさに例えると、染色体が国の大きさで、遺伝子は町の大きさ、塩基が人間1人の大きさ、ということになります。たった1個の塩基で細胞はがん化する。とすると、1人の人間が地球をがん化させる恐れがある。逆に言えば、遺伝子治療で1個の塩基を治せば細胞を救うことができますから、1人の人間で地球を救える、とも連想できます。
1人の人間の力をあなどるな、仲聞かいようがいまいが関係ない。1人で何かをやろうと思えば地球は動く--。これが、正常細胞からがん細胞、がん細胞から人間社会を考える連想です。
細胞が突然変異するメカニズムは、アダムとイブの話にも例えることができます。
聖書の「創世記」によると、エデンの園にいたアダムとイブは、ヘビの誘惑に負け、生命の木の実でなく、食べるなかれと言われていた善悪の知識の木の実を食べたために、エデンの園を追放されました。アダムとイブは、ヘビの誘惑に対して、イエス、ノーでなく、神の言葉に付加と削除をつけた形で応じたので、ヘビに付け込まれた。そのことが追放につながったと言えます。
突然変異も、遺伝子の塩基配列の一部に挿入や欠失があると起こります。発がんプロセスのスタートが創世記の物語と符合していることに驚きます。
がんを治すには、ヘビの頭をかかとでつぶす、ということになります。それは、がん細胞を外から刺激する分子を発見してがん細胞をたたく、ということです。発見すれば、がんの治る時代が到来します。しかし、人類はまだ、その分子をどこにも発見できていません。
正常細胞ががん化するのは、細胞を増殖させる役割の「がん遺伝子」か、細胞増殖を止める役割の「がん抑制遺伝子」が突然変異で傷つくのが原因です。もうひとつ、DNAの修復酵素など遺伝子そのものの異常でがん化するケースもあります。
普段はアクセルとブレーキの機能がうまく共生して機能していますが、「がん遺伝子」が傷つくとアクセルの踏み過ぎになり、「がん抑制遺伝子」が傷つくと、ブレーキ故障の状態になる。または、DNAの整備不良によって車が暴走する。これが、がん細胞が増殖するイメージです。
人の自律神経にも、機能を活性化させる「交感神経」と、抑制する「副交感神経」があってバランスを取っているように、遺伝子も「がん遺伝子」と「がん抑制遺伝子」という相異なる作用を兼ね備えているのです。生命現象が相反するふたつを共存させることで健全さを保っていることは、大変示唆に富みます。
「家」とは何か
「家」って、なんなのか? 仮想的な「家」になぜ頼る? 個が頼りないから? 「家」は中間の存在にはなり得ない。 「家」と家族、家庭は直線では繋がらない。全く、別物。「家」って、帰る場所? 出ていく場所? 寝る場所? 在宅勤務と言うことは「家」は会社。つまり、社会。どこに境があるのか。 #「家」とは何か
今回の事態は、私に考えるヒントを与えるのに大袈裟すぎるかも。3.11、9.11でも思ったこと。 #考えるヒント
「家」は個を囲うもの。起きて半畳、寝て一畳。点に対しての近傍でもない。ましてや家庭でもない。家族という重たいもの、制約でもない。 #「家」は個を囲う
そんなわけのわからないところで生きている。存在ありきだから。答えが先にある。存在しなければ始まらないというだけ。答えだけで済ましてしまうものがほとんど。 #存在ありき
答えから問うことができるのは数学・哲学のみ。「家」って何ですか? #答えから問う
SARSの時に全国拠点間のテレビ会議を図ろうとした。その時に比べて、環境は様変わりしている。店単位だったけど、今なら個人単位にできる。仕事そのものを変えられる。難しいのは「仕事」の定義。集まって、時間を過ごすことから変わっていけるか? ひらめくのは瞬間。多くの偶然から見出だすもの。ペニシリンのように。名古屋の人間には不可能でしょう。 #SARSで考えたこと
家族を含めた、他社との関係、そして、国家を含めた個と全体との関係に結論を出していく。 #個と全体との関係
ウイルスは元々、DNAに組み込まれていたという感覚。そのつもりで検査すると見えてくる。ガン細胞のように。池田晶子さんの言葉「ガンで死ぬのではない。生まれたから死ぬのだ」。机で書きながらガンでなくなった。 #池田晶子の死
孤立は正義。自宅待機、在宅勤務、退職後の生活。つるんでなんか要られない。自分の中の正義をどこにおくのか。 #孤立は正義
答えのなかにいながら、問いを出すことの難しさ。カントの問い。ハイデガーの問い。そして、生田絵梨花の問い。 #生田絵梨花は正義
生田絵梨花は答えのない問いをしてくる。飛鳥は解ってどうするのかと無視する。生田絵梨花は未来から答えを求めようとする。その為に今、何をする。今を思い切り、表現する。その場を奪うことはでない。 #生田絵梨花は正義
ツイッターで重信メイからStayHomeのメッセージが来た。Homeって、stayするところなんだ。イメージ的にはGoHomeだけど。 #StayHomeとGoHome
インターネットで他人を血祭りにあげる人々
『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』より インターネットで他人を血祭りにあげる人々
2013年12月、ある女性が書いたツイートが、世界的に大炎上する事件があった。
IACというネットサービス企業でPRのシニア・ディレクターという要職に就いていたジャスティン・サッコは、当時30歳で、洗練された金髪美人だった。ニューヨークから南アフリカヘの長旅の途中、乗り換えのロソドン・ヒースロー空港で次のようなツイードをして、飛行機に乗り込んだ。
「アフリカに向かっているところ。エイズにかからないといいけど。冗談よ~。私、白人だもん」
ぱっと見ると、人種差別丸出しのひどいフィートだ。けれども、ジャスティン本人は、アメリカのスタンドアップコメディアンがよく使う自嘲のテクニックで「愚かな白人の発想」をあざ笑ったつもりだったのだ。
エイズが黒人やゲイがかかる病気だと思い込んでいる差別的な白人はまだまだ多く、「アフリカは怖いから行かない」と真面目な顔で言う人がいる。それを前提にしたジョークなのだが、ツイッターの場では危険だ。慣れている人なら「これぱ絶対に誤解を招く」とわかる。ただ、当時の彼女のツイッターのフォロワーはたったの170人だ。通常なら、身近な知り合いに「これはやめたほうがいいよ」と忠告されてツイードを消し、たいしたダメージもなく終わる話だ。
ところが問題は、ロンドンからケープタウンのフライトが11時間という長時間だったことだ。ジャスティンが機上で何も知らずに眠っているうちに、地上のネットの世界ではいろいろな化学反応が起きていた。
まず、知り合いからEメールでこのフィートを知ったジャーナリストがシリコンバレーのゴシップを載せる情報サイトバレー・ヮグに記事を書き、それをフィートした。それを読んでリツイート(読んだ人が自分のフォロヮーにシェアすること。PT)したのはフォロワーが多いテックジャーナリストたちだった。
そのうち「こんなジャスティン・サッコがどうやってPRの仕事を得られたわけ?! 彼女の人種差別と無知のレベルはフォックスニュース並だわ。エイズは誰だってかかるのに!」といった非難のツイートが生まれ、それに刺激されて怒りのバリエーションも増えていった。
次に登場したのが、その炎上を娯楽として喜ぶ人たちだ。
「飛行機が着陸して電話のメッセージをチエックするときのジャスティン・サッコの顔を見てみたい。クリスマスのプレゼントにほしいのはそれだけさ」
「しめしめ、ジャスティン・サッコというビッチが解雇されるのをリアルタイムで見られるぞ。それも、本人が知る前にな」
という悪意に満ちたツイートもあふれた。
私もこの事件を覚えているが、最初は「PR専門家にしてはツイートへの考慮が足りない」と呆れて憤り、「企業はもっとソーシャルメディアの使い方を社員に教育するべきじゃないだろうか?」と思った。だが、すでに何度も謝罪しているジャスティンに対する度を超した悪意を目にするうちに居心地が悪くなったことは事実だ。
ネッ卜で「正義の味方」になるのは簡単だ。叩きやすい人を見つけて、正義の名のもとに制裁を与えればいいのだから。匿名のままでいれば、自分が公で処刑されるリスクを冒さずに攻撃できる。これほど彭憤晴らしになる娯楽はないだろう。
ハイデガー ドイツ学生団への呼びかけ
『ハイデガーの超政治』より 学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」
以上でハイデガーが「自己主張」において、学問の本質をどのように規定したかについて概観した。彼はそれを民族の精神的世界の開示と捉えるのである。これは結局、存在者全体を主題化する形而上学以外の何ものでもない。彼は大学の教師たちがこうした学問の本質を体現し、そのことに基づいて学生を指導することを要求したのだった。彼によると、ドイツ学生団に必要とされるのはこのような指導者である。
ところでハイデガーが「自己主張」で提示する学問論的立場は、今も指摘したように、ナチズムの人種主義との対立をはらんでいた。大学において、こうした人種主義に立脚した強制的同質化を主導していたのがドイツ学生団であった。つまり「自己主張」はドイツ学生団との緊張関係のもと、それを「精神的な」方向へと導くことを目指していた。こうして「自己主張」は学問の本質についてひととおり論じたあと、今度はドイツ学生団への呼びかけに議論の重心を移していく。
ドイツ学生団は元来、ドイツの各大学の学生自治会の連合として組織されたものである。しかしドイツ学生団はナチスの政権獲得以前にすでに「ナチス学生同盟」によって支配されていた。ナチスはドイツ社会の他のどの領域よりも早く、大学において成功を収めていたのである。そしてドイツ学生団はナチスの政権掌握後、まだナチスが具体的な大学政策をもたない状況に乗じて、大学の国民社会主義的な強制的同質化を主導し、大学運営にも直接的な影響力を及ぼすようになっていた。大学の教授たちは自分たちの伝統的な権威を掘り崩す学生団に苦々しい思いを抱きながら、その急進化に対する対応に苦慮していたのである。
ハイデガーはこうした状況のなかで学長に就任した。先はども述べたとおり、彼は一方でドイツ学生団の人種主義を否定する立場を取っていた。しかし他方で、彼はドイツ学生団が学問の本質に目覚め、白身の大学改革構想を支持する力になることを期待していた。彼は同僚の教授たちが旧来の体制に固執する抵抗勢力になることは最初から織り込んでいた。したがってハイデガーの大学改革の基本的な戦略は、学生たちの変革への衝迫を正しい方向へと向け変えて、それを自身の改革の駆動力にするといったものだった。
ハイデガーはこのような学生たちへの期待を背景に、「自己主張」ではドイツ学生団の大学改革への意欲を肯定して次のように述べている。「ドイツの運命をその極限的な苦難の中で持ちこたえるというドイツ学生団の決然たる覚悟に、大学の本質への意志は由来する」。ただし、この意志は何ら制約を受けないものではなく、学生の本質を目指すものでなければならない。「この意志はドイツ学生団が新学生法をとおして自己の本質の法に服従し、そのことによってこの本質を真っ先に確定するとき、真なる意志なのだ」。ここで言及されている新しい「学生法」は、プロイセンの諸大学では五月一日に祝典において告知されていた。しかしフライブルク大学では、その告知は学長の就任式典と統合されることになっていた。学生団に課された三つの奉仕--労働奉仕、国防奉仕、知の奉仕
具体的にドイツ学生団は新学生法をとおして、いかなる制約に服するべきだと言うのだろうか。ハイデガーは「自己主張」において、ドイツ学生団が果たすべき三つの奉仕について語っている。すなわち「労働奉仕」、「国防奉仕(滅多ふ日緊)」、「知の奉仕」である。最初の労働奉仕と国防奉仕は、ドイツ学生団が一九二〇年代からその導入を強く求めていたものであり、まさに新たな学生法で学生の義務として規定されたものだった。一九三三年七月にはドイツ学生団の強いイニシアティブにより、大学に入学して四学期目までのすべての男子学生に対して、講義のない期間に一〇週間の労働奉仕が義稗づけられた。また国防奉仕はベルサイユ条約により義務兵役が禁じられているなかで、軍事教練の代替として位置づけられていた「国防スポーツ」への参加を意味していた。
これに対して、知の奉仕はハイデガー独自のものである。先はども述べたように、ドイツ学生団は大学における労働奉仕と国防奉仕の制度化を強く迫っていたが、この要求は多分にドイツ学生団の反知性主義的な姿勢を背景としていた。つまりドイツの学生には干からびた知など必要ない、労働奉仕や国防奉仕こそが大切なのだ、といったように、労働奉仕や国防奉仕の重視は、知や学問の軽視と結びついていた。
ハイデガーはすでに一九三三年五月の段階で、ドイツ学生団について次のような「批判的見解」を記している。「学生団は統一的で、精神的-国防的-労働奉仕的な教育を望んでおらず、軍事的な突撃隊-養成を、同じく反復訓練的な労働奉仕と余裕のない専門主義(『先端』業績)の実施とあわせて望んでいる」。ここではドイツ学生団が要求している突撃隊による軍事教練、労働奉仕、専門主義的教育が有機的な統一を欠いていることが批判的に捉えられている。この引用ではドイツ学生団が専門主義的教育を望んでいることが指摘されているが、ドイツ学生団の反知性主義は旧来の教養主義を干からびた知性として軽蔑し、手っ取り早く「役に立つ」知識を要求するという形でも現れていた。学問は国家、民族に有用なものであるべきだという彼らの「政治的学問」の主張も今述べたような姿勢と結びついていたのである。
もっともこうしたドイツ学生団の反知性主義的な態度は、大学の旧来の体制を否定する点においては、ハイデガーの立場と重なるところもあった。しかし彼はもちろん知を全面的に否定するわけではなく、これまでの学問のあり方を問題視し、それを新たな知によって置き換えることを目指していた。こうしてハイデガーは「自己主張」では知の奉仕を重視し、労働奉仕と国防奉仕も究極的にはこの知の奉仕のうちに統合するような形で再定義することを試みるのである。
ハイデガーは「自己主張」で、以上の三つの奉仕の必然性をドイツ学生団の三つの拘束から導き出している。彼が最初に挙げているのは「民族共同体への拘束」である。これは「民族のあらゆる身分や成員の労苦、希望、能力をともに担い、また行動しつつ分かち合うことを義務づける」ものである。この拘束は労働奉仕によって学生に植えつけられる。また二番目の拘束は「他の諸民族のただなかにおける国民の名誉と運命への拘束」である。これは[知と能力により裏打ちされ、規律によって引き締められた、献身への徹底した準備態勢を要求する」。この拘束は国防奉仕として学生に浸透させられる。
生ちゃん初日おめでとう
確率的におかしな事ばかり。確率の専門家は出てこない。人的な要素が隠されている。 #確率的な見方
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帝劇ソワレは潰されたけど、日生マチスは始まった。オリンピックよりはるかに重要。民主主義にとっても。生ちゃん初日おめでとう。 #生田絵梨花は正義
図書館に本を返しに行ったのに、15冊借りてきてしまった。借金地獄みたい。バスだと持ち帰るのが大変。よく、30冊も借りていたな。これの倍の重さ。本の重みを感じる、今日この頃。 #本の重み
豊田市図書館の15冊
019.53『人生の1冊の絵本』
361.47『現代日本人の意識構造』
491.65『がん哲学のレッスン』教室で〈いのち〉と向きあう
322.28『イスラーム法と家庭』19世紀イラン在地社会における家・相続・女性
361.64『ロスジェネのすべて』格差、貧困、「戦争論」
335.5『未来の多国籍企業』市場の変化から戦略の革新、そして理論の進化
410.4『1日1ページ数学の教養365』日めくり感覚で数学の世界を楽しめる!
596『これがほんとの料理のきほん』
134.96『ハイデガーの超-政治』ナチズムとの対決/存在/技術・国家への問い
332.06『スミス・マルクス・ケインズ』よみがえる危機の処方箋
302.53『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』
209『暗記がいらない世界史の教科書』本当の教養を身につける
236『スペイン通史 シリーズ』コンパクトヒストリア
911.56『コーヒーカップの耳』阪神沿線 喫茶店「輸」入情話
302.27『女たちの中東』ロジャヴァの革命
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