『スペイン通史』より レコンキスタ(国土再征服戦争)
レコンキスタの開始--「コバドンガの戦い」の勝利
イスラム勢力の侵入期に一度も占領されなかった唯一の地帯は、半島北西部の北バスクから狭くて貧しいアストゥリアスにかけてのカンタブリア山岳地帯であった。この地に避難したアストゥリアス人やカンタブリア人たちは、七一八年、西ゴートの貴族の末裔と称するペラヨを国王に選び、西ゴート王国の継承国家としてアストゥリアス王国を建国した。その後彼らは七二二年頃、カンタブリア山脈北側のカンガス≒デーオニスから数キロ離れたコバドンガでイスラム軍と初めて対峙した。標高二五七メートルの山岳地帯であった。装備も少なく、粗末なペラヨ軍は、洞窟を要塞として守りを固め、侵攻してくるイスラム軍を待ち伏せ、見事撃退してしまった。この戦いに、ペラヨ軍はわずか三百人、対するイスラム軍が途轍もない兵力だったといわれている。これこそ「建国神話」的な逸話にはよくある話だがペラヨ軍からすれば多勢に無勢だったことは間違いなかったろう。
コバドンガはキリスト教徒の「レコンキスタ」の発祥の地とされている。アストゥリアス王国はイスラム圏から来た多くの避難者や西ゴート人住民たちを受け入れ、半島におけるキリスト教信仰の擁護者の役割を果たした。こうした一連の動きとともに、国王ペラョは西ゴート王国の正統な継承者であることを公言し、レコンキスタの根幹である「西ゴートースペイン」の復興という理念を確認させた。ペラョの後継者である息子フアフィラは即位して二年後にクマに襲われて死んでしまう。それからほぼ半世紀後になるが、アルフォンソニ世は、自軍を北西部のガリシア地方に展開し、イスラム軍を放逐し、さらに南の国境線をドゥエロ川まで広げた。
伝承によると、八一四年、半島の北西部ガリシア地方で、聖ヤコブの墓が見つかったという。イリア司教区内で、毎夜不思議な光が輝き、そこにしばしば天使が現われるとの報告を受けたテオドミーロ司教はみずからその地に行き、草深い所に埋まっている大理石の聖ヤコブの墓を発見した。それを聞き付けたアルフォンソニ世は直ちに聖ヤコブの名にちなんだサンティアゴ教会を献堂し、司教区をイリアからコンポステ土フに移した。これが聖ヤコブ伝説の縁起であるが、やがて聖ヤコブは、対イスラム戦争におけるキリスト教徒軍の守護聖人とみなされるようになり、レコンキスタに十字軍の精神が付与された。だが、「サンティヤゴーマタモーロス(モーロ人殺しの聖ヤコブ)」という膚懲本位の言葉も生まれた。後にサンティアゴ・デ・コンポステーラは、カトリック三大巡礼地のIつとなるのだが、聖人伝説の縁起は何処もこのようなものなのかもしれない。八六六年、首都オビエドで即位したアルフォンソ三世は、今までアンダルスとの境界地帯だったドゥエロ川流域やその他の無人地帯に着実に植民し、南の国境線をさらに南に下げることになり、版図を拡げた。しかし、アルフォンソ三世はアストゥリアス王国の領土を息子たちに分割相続させた。そして国王の死後、長男ガルシアはレオン王、次男オルドーニョはガリシア王、三男フルエラはアストゥリアス王にそれぞれ登位する。
初期のレコンキスタ
八世紀から一一世紀前半までの、キリスト教スペインの基礎となる諸国家は、アストゥリアス王国、レオン王国(九一〇年)、カスティーリャ伯領(九三三年)、ナバラ王国(八二〇年頃)、アラゴン王国(一〇三五年)、バルセロナ伯領(八○一年)、ガリシア王国(九一〇年)であった。これらは、国とか伯領といった名称を掲げているが、アンダルスと比較するなら、おしなべて小国であり、国としての基本的な行政組織や法体系や軍事機構なども備わっておらず、言ってみれば、初代国王ペラヨを例に挙げるまでもなく、身元や血筋が明確ではないが、西ゴート時代の貴族や豪族の末裔と僣称し、戦術や武術に長けていた軍事エリートがその国の王や統治者に納まっていたようだ。従って、こうした国では、王や統治者の後継をめぐって、国内の覇権をめぐって、隣接する国との領土をめぐって、新しく誕生した国に対する軍事干渉をめぐって絶えず武力紛争、政治闘争などの内紛を繰り返していたために、実質的には対イスラム戦争どころではなかった。というより、アンダルスの軍事的優位が持続していたのだった。
「大レコンキスタ」
一二三二年、ムハンマド一世の支配するナスル朝グラナダ王国が誕生する。これ以降、キリスト教徒諸国軍は、コルドバ(三六年)、ハエン(四六年)、セビーリャ(四八年)、カディス(六三年)などを次々と占領し、アンダルスの中で唯一残ったのは、グラナダ王国であった。
これまで離合集散を繰り返してきたキリスト教徒諸国は、この陣営で覇権を確実なものにしていたカスティーリャ王国、地中海一帯に勢力を拡大していたアラゴン連合王国(アラゴン、カタルーニャ、バレンシア)、フランスとアラゴン王国に挟まれたナバラ王国の三か国となった。この陣営にも、一丸となってレコンキスタを推進するにはさまざまな社会的な問題を抱えていた。一三一〇年から四六年まで続いた不作による餓死者の大量発生、それに四八年の東部海岸へのペストの上陸によって、カタルーニャでは、推定であるが、全人口の三五~四〇%、カスティーリャでは一五~二〇%死んでしまう。これは途轍もない人口減少であり、経済は回復不可能な状態に陥ってしまった。こうした社会的な大災害が勃発すると、決まってスケープゴートを見つけ出すのである。「神殺しの下手人であるユダヤ人」だ。この年、バルセロナのユダヤ人居住区が襲撃され、これがカタルーニャ一帯に広がった。
さらにキリスト教徒陣営において、王位継承戦争、国境争議、貴族間の権力闘争などが多発し、すでに一一四三年にカスティーリャから分離独立したポルトガルがこうした紛争に積極的に関与することもあり、いわば内戦状態となることもあった。イサベル女王とフェルナンド国王の両王家統一
それが一大転機となることが起こった。ァラゴン連合国王ファンニ世は、長男で王位継承者であるフェルナンドとカスティーリャのイサベル王女とを結婚をさせようとしたのは、フランスがピレネー山脈を越えてカスティーリャに攻め込んでくるのを危惧していたからだった。一四六九年。一八歳のイサベル王女と一七歳のフェルナンド王太子が結婚する。さらに、七四年のイサベル一世の即位、七九年のフェルナンドニ世の登位により、カスティーリャ王国(人口約四五〇万人、領土三九万平方キロ)とアラゴン連合王国(人口九〇万人、領土一一万平方キロ)の同君連合国家がついに実現する。これによって二人の国王による共同統治が始まる。だが、両国の連合は国力からしても著しいアンバランスであり、事実、グラナダ戦争も主力軍はカスティーリャ軍であり、アラゴン連合王国は南進する構えを見せているフランスに対する国防上の軍隊を配置し、グラナダ戦争には補助金を提供するくらいであった。これでも一五世紀後半から政略結婚も含めて推し進められてきた王権強化政策の到達点であった。とはいっても、の二つの国には、それぞれ独自の議会、国内法、行政機構、軍機構、関税、租税システムを維持しており、言ってみれば、「王家の統一」にすぎず、厳密な意昧での、「王国の統一」ではなかった。それにしても、この共同統治はきわめて迅速であった。
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