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「満洲国」建国のスローガン「五族協和」と「王道楽土」

『戦争の谺』より 「八紘一宇」論 世界統一のための最終戦争(石原莞爾) 宮澤賢治と「満洲国」

「満洲国」建国の二大スローガンが、「五族協和」と「王道楽土」であったことは、すでに述べた。「王道(楽土)」は、「覇道」、すなわち武力による征服、支配の政治を意味する言葉に対峙するもので、皇帝(王権)の仁政のもと、万民が幸福に暮らす国家の理想的姿を意味している。「満洲国」は、王道楽土を目指し、それを建国の本義とするという表現がなされたのである。「満洲国軍政部」の作成したポスターに、「大満洲帝国萬歳」と書かれたものがあり、そこに「王道之光普照全球」という文字が書かれている。日本と「満洲国」を含む北半球の地球が描かれていた。「大満洲帝国萬歳」というポスターには、中国服を着た少女が、バラやボタンやユリの花束を抱いたものもある。

また、五人の民族衣装を着た子供たちが五色に塗りわけられた風船(地球と考えてもよい)を支えたものがあり、そこには「國運飛騰」の文字かおる(図6)。一人の子供の手には五色旗(満洲国の国旗)があり、五色は赤、青、白、黒、黄色で、満洲国を構成する「五族」、すなわち満洲族、漢民族、日本人、朝鮮人、モンゴル人を意味する(ただし、色と民族を正式に対応させることはしていない。これは東西南北と中央を表す五行思想に基づいている)。

「満洲国自治指導部」が作成した「王道政治! 我椚的光明来了(私たちの光明が来た)」というポスターは、女神が雲の上に乗り、鳩がその周りを飛び回っている絵柄である。日本からの移民や旅行者のために、「鮮満案内所」が作った「見よ! 楽土新満洲」というポスターには、馬に引かせたプラウ(馬撃)による農耕の絵があり、広々とした満洲の農地を強調している。「満洲国国務院国都建設局」では、「天は開け地は開く 来れ! 国都大新京へ」の文字とともに、首都新京の鳥瞰図の上半分を五色旗がはためているポスターを作った。「満洲国協和会」のポスターでは、皇帝溥儀の肖像写真を人々が囲み、その両脇に「擁護我椚的満洲国」と「尊敬我椚的五色旗」の文字が正月飾りの春聯のように書かれている。

「満洲国」はこうしたポスターやビラを作り、「王道楽土」と「五族協和」を宣伝しようとしたのだが、「五族協和」というスローガン自体が、孫文が臨時大統領となった中華民国の主張した「五族共和」の剽窃であり、流用だった。この場合の「五族」は、漢族、満洲族、蒙古族、回族(ウイグル族などのイスラム系民族)、チベット(西蔵)族を意味し、国旗も五色旗だった。この五色旗は、「満洲国」のものとは違って、横に帯状に赤、黄色、青、白、黒が等間隔に並ぶもので、「満洲国」の黄色の地色に、左上の隅に四分の一の分だけ赤、青、白、黒が並ぶものとは違っていた。もちろん、これは「満洲国」は、黄色の地(大地=満人)の上に、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人が〝協和〟して存在するという含意だった。

しかし、中華民国が、やがて「五族共和」のスローガンを棄てて、「青天白日旗」を掲げることになることからわかるように、孫文、袁世凱、蒋介石の「中華民国」は、「五族共和」ではなく、漢民族中心の国家建設を急ぐことになる。そもそも孫文たちの中華民国の思想には、彼らにとって異民族である満洲族の樹てた「清」を滅ぼし、漢民族による政治支配を再興しようというJ倣満興漢〃の実現という意味もなかったわけではないのだ。中華民国の理念を受け継ぐ中華人民共和国が、ウイグル(維吾爾)、チベット(西蔵)、モンゴル(内蒙古)の民族の独立を許さず、中央(漢民族)支配を貫いているのも、「五族共和」思想の否定という意味合いをもっている。

「王道楽土」が、画餅でしかなかったように、「五族協和」も、理念倒れのものにすぎなかった。石原莞爾や板垣征四郎、本庄繁らの日本軍(関東軍)の軍人たちは、「満洲国」を作り上げたのだが、初代の「国務院総理」に張景恵を持ってきたように、名目上は満洲人をその体制の卜。プに就けた。だが、実質的な権力は次長、次官というナンバー・ツーの日本人の手にあった。日本軍による「内面指導」が、「満洲国」の最高決定を拘束するものであり、皇帝溥儀といえども、日本人のあやつり人形、すなわち傀儡にほかならなかった。

五族が対等の存在として協力し合い、和合するのではなく、明らかに日本人を指導民族、上層階級として、-その下に各民族が序列的に並ぶものでしかなかった。「満洲国」で日本語や作文教育に従事した児童文学者の石森延男に『咲きだす少年群』(新潮社、一九三九)という、「満洲国」を舞台とした少年小説がある。そこにこんな一節がある。主人公の少年の姉に対して、その婚約者がいっている言葉である。

「ぢや、大丈夫なんだ。さっき、みんな話してゐたぢやないか。日本語を上手に、正しくっかへるといふことが、大陸に住む日本人の第一の心がけだと思ぶんだ。そして、もう一つ、その言葉をつかふときは、きっと相手の異国人をかはいがらなくちやいけないことだ。支那人が、あんなに間違った民族に陥ってしまったことは、諸外国から、叩きのめされてしまったから、いはばひねくれてしまったんだ。子供のひねくれるのなら、まだ直しやうもあるが、あの古い老大国が、いぢけてしまったんだから、始末がわるい。これを、もとどほり、至純なすなほな民族性にとりもどすのは、一体、誰がやる。誰がやるのです。世界中の誰が一体やるのです。日本人より他に誰もゐないぢやないか」

中国人ならば「余計なお世話」といいたいところだが、こうした選民意識(優等民族意識)を、在満の日本人たちは、大人も子供も一般的にもっていたのである。「五族協和」の掛け声も、それを実現しようとする官製の民間団体(変な言い方だが)の満洲協和会も、二つ屋根の下〃に住む、同じ〝家族、兄弟〟(八紘一宇、民族協和)とは、到底思えない上下関係や格差がそこには厳然として存在していたのである。

建国大学第二期生である森崎湊が、入学、入寮してはやばやと建国大学に幻滅していった理由は、こうした理念・理想としての「民族協和(五族協和)」と、現実の「満洲国」の体制・社会との落差であり、背反であった(拙著『満州崩壊』第Ⅲ章「満州離散」文藷春秋、一九九七参照)。ことあるごとに対立、対決する日系と満系の学生たち、優越した指導民族としての日本人という夜郎自大なイデオロギーを旧套墨守する教授陣や軍人たち。治安維持法によって、「反満抗日運動」に加わったとされる満系学生(中国人学生)は、逮捕され、拷問され、無期懲役や懲役十年以上の重刑に処せられている(獄死した学生もいる)。同床異夢の「満洲国」のなかの。五族〃たち。二十歳にもならない、純真な森崎湊のような青年が、そこに虚偽と欺隔と偽りとを感じたとしても、それは当然のことだった。「民族協和」の夢は、瑳映し、挫折し、そして破綻したのである。
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コメント
 
 
 
Unknown (Unknown)
2023-02-03 14:02:14
結果、今の中国を見てみろよ。オメーの偏ったアホ思想が、どれだけ無能なのか良く分かるだろ
 
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