『トウガラシの歴史』より 世界への伝播 コロンブス交換
1493年、新世界へ2度目の上陸を果たしたクリストファー・コロンブスは、先住民の辛い食べ物が未知の食材で味付けされていることに気がついた。そして、秘書のディエゴ・アルバレス・チャンカを通じてその発見を熱を込めてスペインに報告し、トウガラシによってかなりの利益を得ることができると入念に書き留めている。コロンブスは、毎年トウガラシをカラペル船(敏捷な小型の帆船)約50隻分積みこめると豪語した(1年に200~250トンという計算になる)。
チャンカはコロンブスの航海で医者としての役割も果たしていたが、トウガラシを医療目的で使用することに大きな関心をもっていた。男たちは船倉にトウガラシを積んでスペインに帰国した(あとでわかったことだが、数千人の奴隷も積んでいた。国王フェルナンド2世とイザベル1世から先住民を人道的に扱うよう警告を受けていたのだが)。こうして「コロンブス交換」[大航海時代にアメリカ大陸とヨーロッパの間で行なわれた広範囲な文化や物の交換]が始まり、その結果新世界と旧世界の間に、大量の植物、動物、さらにはさまざまな科学技術、伝染病までもが行き交うことになった。
最初コロンブスの乗組員たちは、トウガラシの食材としての潜在力を見過ごしていたようだ。その理由のひとつに、アメリカ先住民がリュウゼツランの芋虫、オタマジャクシ、タランチュラなどの数々の「不浄の」食べ物を食したため、繊細なヨーロッパ的感性をもつスペイン人がはなはだしく気分を害したことがある。
また、初めて見るおいしそうな果物を口にしたらとんでもない期待外れに終わったという苦い経験の影響もあった。マンチュールの木の黄緑色の果実を食べた者の「顔がはれあがって真っ赤になり、やがて激しく痛みだして気が狂いそうになった」ようすをチャンスは報告している。
トウガラシが旧世界にもたらされると--幸いなことに--変わった植物に目がない園芸好きな修道士が飛びつくように買い入れ、数十年にわたり観賞用植物として栽培した。しかし、ほとんどのヨーロッパ人はまだナス科の植物を食べることに警戒心を抱いていてなかなか手を出そうとはしなかった(ヨーロッパで出回っていたトマトやジャガイモは毒性のある品種ばかりだった)。
ただし、同じナス科でもナス属ではないトウガラシはこれらの野菜とは外見も異なっていた。また、旧世界にはすでにトウガラシによく似た形の黒くて長いコショウや、クベバ、アメリカザンショウ、グレインズ・オブ・パラダイス(ギュアショウガ)が存在していたという事情もあり、トウガラシはリスボン港からイベリア半島に上陸すると、オスマン帝国を経由してヨーロッパを疾風のように駆け抜けた。あまりにも短期間に世界中に広まったために、アジアやアフリカでは、誰もがトウガラシをその土地原産の食材だと思いこんだほどである。
そもそもコロンブスがアメリカ大陸への新しい交易路を探そうとしたのは、バルバリア海賊[北アフリカを拠点とし、オスマントルコの庇護を受けて地中海沿岸を中心に主にキリスト教国の船を襲った海賊]の存在もその理由のひとつだったが、この海賊はオスマン帝国や北アフリカと手を結んでいたため、トウガラシはやすやすと地中海を抜け、やがて中東南部からマグレブヘのルートを見つけることになる。
トウガラシのアフリカ大陸全土への伝播にまつわる詳細はあまり知られていないが、17世紀に奴隷船が新世界からアフリカ西部の奴隷海岸へ向かった際に動植物の交換が行なわれ、おそらくその中にトウガラシが含まれていたのが最初だったのだろう。サ(ラ砂漠を越えて北アフリカヘトウガラシを運んだのは、ギュアの商人と思われる。そこから人々の移住と眼力の鋭い鳥たちによって、トウガラシはアフリカ大陸全域に広まった。
植物を広めるのに鳥は大変都合がよく、ヨーロッパの探検家が到達するずっと以前に、卜ウガラシはアフリカ大陸の内陸部にすでに到達していた。そのために、そして他の地域と同じ理由--栽培しやすく、栄養価が高く、コショウより安価-で、トウガラシはアフリカ料理になくてはならないものになり、現代のアフリカ人のほとんどはトウガラシをアフリカ原産の食材だと思っている。
ポルトガル人入植者は、探検の旅をしながらトウガラシを西アフリカに伝えたが、ポルトガルのピリピリ・ソースも一緒に広めた。激辛マリネのとりこになったモザンビークの人々は、その名を小さなトウガラシ、バーズアイを指すのにも使うようになり、ついにはピリピリを国民食として取り入れた。ナミビア人、アンゴラ人、南アフリカの国民は、卜ウガラシ、カイエンペッパー、レモン果汁、ニンニク、オイルを混ぜたピューレのなめらかな味わいに心を奪われた。
ポルトガル人はアフリカ大陸にトウガラシを伝えたあと、ブラジルの、バイーア州やペルナンブコ州のサトウキビ畑で働くアフリカ人奴隷にトウガラシを伝え、最終的にレッドパームオイル(デンデ油)、ココナッツミルク、トウガラシが、アフリカ系のバイーア住民にとっての三大食材となった。アメリカ合衆国では、トウガラシは南西部以外へはなかなか広まらなかったが、アフリカ人奴隷の料理人たちによって再導入される形になった。
エチオピアには、ベルベレと呼ばれるハリッサに似たペーストがあり、これはニンニク、エシャロット、ショウガを混ぜたものにトウガラシパウダーと約10種の香辛料を合わせて加えたものだ。香辛料はオールスパイス、カルダモン、ナツメグ、シナモン、クローブ、メープルに似た風味のフェヌグリーク、コリアンダー、クミン、里一コショウ、辛みのあるターメリックが使われる。トウガラシと他の香辛料を3対Iの割合にしてオイルかワインと混ぜて作るドライペーストは、羊肉や牛肉に大量に使用したり、ワットと呼ばれるシチューのべースにしたりする。
北アフリカでは、トウガラシはソーセージに似たメルゲーズと呼ばれる昔ながらの食べ物に使われてきたが、カレーやサモサも一般的で、文書としての記録は残っていないが、南アジアの食習慣との長いつながりがうかがえる。
ラスエルハヌートと呼ばれる複雑なスパイスミックスは、トウガラシ入りのガラムマサラやベルベレの乾燥粉末に似ているが、地域によって異なり、チュファ(ショクョウカヤツリグサの種あるいはタイガーナッツとも呼ばれ、昔からスペインの飲み物オルチャータの原料になる)のような地元の香辛料、あるいは黒コショウに似たピリッとした風味のグレインズ・オブ・パラダイス(ギュアショウガ)、クペバ、ロングペッパー、さらにローズバッド、サフラン、ガランガルも入ることがある。ラスエル(ヌートの古いレシピには、しばしば毒を含むベラドンナの実や、スハニッシュフライと呼ばれる古代の媚薬(実際はツチハンミョウ亜科のカブト虫で学名)も入っていた。
アフリカ西部では、肉、魚、野菜、ヤムイモまたはキャッサバ(イモ)で作る風味豊かなシチューにチリパウダーを加えて味を強める。西アフリカのョル、バ族の主食は、ヤムイモをつぶしたものにオベと呼ばれる辛いミートソースをかけたものだ。
南アフリカの料理はオランダ、イギリス、南アジアの影響を受けているが、ピリ辛のソースや薬味、ニンニクの効いたチリソースの一種サンバル、そしてブラッヤンと呼ばれる甘辛で酸味もあるアプリコットのチャツネが融合し、南アフリカの国民食でボボティと呼ばれるミートローフにつけて食べる。また、南アフリカにはスパイシーでカレー風味のオイルに漬けた野菜のピクルス、アチャーもある。ここ半世紀、アフリカの大部分の女性はこれらを一から自分で作るより出来合いのものを買っている。
アフリカ料理でトウガラシがどれほど重宝されているかを正確に説明しようとすると、おそらくそれだけで本を一冊書かねばならない。アフリカ大陸の55カ国それぞれが、トウガラシを商業的に生産している。この大陸にトウガラシが伝わって以来、アフリカの料理はその焼けつくような辛みを取り入れてきた。今日、アフリカの人々のトウガラシヘの愛に対抗できるのは、アジアに住む人々だけと言ってよい。
1493年、新世界へ2度目の上陸を果たしたクリストファー・コロンブスは、先住民の辛い食べ物が未知の食材で味付けされていることに気がついた。そして、秘書のディエゴ・アルバレス・チャンカを通じてその発見を熱を込めてスペインに報告し、トウガラシによってかなりの利益を得ることができると入念に書き留めている。コロンブスは、毎年トウガラシをカラペル船(敏捷な小型の帆船)約50隻分積みこめると豪語した(1年に200~250トンという計算になる)。
チャンカはコロンブスの航海で医者としての役割も果たしていたが、トウガラシを医療目的で使用することに大きな関心をもっていた。男たちは船倉にトウガラシを積んでスペインに帰国した(あとでわかったことだが、数千人の奴隷も積んでいた。国王フェルナンド2世とイザベル1世から先住民を人道的に扱うよう警告を受けていたのだが)。こうして「コロンブス交換」[大航海時代にアメリカ大陸とヨーロッパの間で行なわれた広範囲な文化や物の交換]が始まり、その結果新世界と旧世界の間に、大量の植物、動物、さらにはさまざまな科学技術、伝染病までもが行き交うことになった。
最初コロンブスの乗組員たちは、トウガラシの食材としての潜在力を見過ごしていたようだ。その理由のひとつに、アメリカ先住民がリュウゼツランの芋虫、オタマジャクシ、タランチュラなどの数々の「不浄の」食べ物を食したため、繊細なヨーロッパ的感性をもつスペイン人がはなはだしく気分を害したことがある。
また、初めて見るおいしそうな果物を口にしたらとんでもない期待外れに終わったという苦い経験の影響もあった。マンチュールの木の黄緑色の果実を食べた者の「顔がはれあがって真っ赤になり、やがて激しく痛みだして気が狂いそうになった」ようすをチャンスは報告している。
トウガラシが旧世界にもたらされると--幸いなことに--変わった植物に目がない園芸好きな修道士が飛びつくように買い入れ、数十年にわたり観賞用植物として栽培した。しかし、ほとんどのヨーロッパ人はまだナス科の植物を食べることに警戒心を抱いていてなかなか手を出そうとはしなかった(ヨーロッパで出回っていたトマトやジャガイモは毒性のある品種ばかりだった)。
ただし、同じナス科でもナス属ではないトウガラシはこれらの野菜とは外見も異なっていた。また、旧世界にはすでにトウガラシによく似た形の黒くて長いコショウや、クベバ、アメリカザンショウ、グレインズ・オブ・パラダイス(ギュアショウガ)が存在していたという事情もあり、トウガラシはリスボン港からイベリア半島に上陸すると、オスマン帝国を経由してヨーロッパを疾風のように駆け抜けた。あまりにも短期間に世界中に広まったために、アジアやアフリカでは、誰もがトウガラシをその土地原産の食材だと思いこんだほどである。
そもそもコロンブスがアメリカ大陸への新しい交易路を探そうとしたのは、バルバリア海賊[北アフリカを拠点とし、オスマントルコの庇護を受けて地中海沿岸を中心に主にキリスト教国の船を襲った海賊]の存在もその理由のひとつだったが、この海賊はオスマン帝国や北アフリカと手を結んでいたため、トウガラシはやすやすと地中海を抜け、やがて中東南部からマグレブヘのルートを見つけることになる。
トウガラシのアフリカ大陸全土への伝播にまつわる詳細はあまり知られていないが、17世紀に奴隷船が新世界からアフリカ西部の奴隷海岸へ向かった際に動植物の交換が行なわれ、おそらくその中にトウガラシが含まれていたのが最初だったのだろう。サ(ラ砂漠を越えて北アフリカヘトウガラシを運んだのは、ギュアの商人と思われる。そこから人々の移住と眼力の鋭い鳥たちによって、トウガラシはアフリカ大陸全域に広まった。
植物を広めるのに鳥は大変都合がよく、ヨーロッパの探検家が到達するずっと以前に、卜ウガラシはアフリカ大陸の内陸部にすでに到達していた。そのために、そして他の地域と同じ理由--栽培しやすく、栄養価が高く、コショウより安価-で、トウガラシはアフリカ料理になくてはならないものになり、現代のアフリカ人のほとんどはトウガラシをアフリカ原産の食材だと思っている。
ポルトガル人入植者は、探検の旅をしながらトウガラシを西アフリカに伝えたが、ポルトガルのピリピリ・ソースも一緒に広めた。激辛マリネのとりこになったモザンビークの人々は、その名を小さなトウガラシ、バーズアイを指すのにも使うようになり、ついにはピリピリを国民食として取り入れた。ナミビア人、アンゴラ人、南アフリカの国民は、卜ウガラシ、カイエンペッパー、レモン果汁、ニンニク、オイルを混ぜたピューレのなめらかな味わいに心を奪われた。
ポルトガル人はアフリカ大陸にトウガラシを伝えたあと、ブラジルの、バイーア州やペルナンブコ州のサトウキビ畑で働くアフリカ人奴隷にトウガラシを伝え、最終的にレッドパームオイル(デンデ油)、ココナッツミルク、トウガラシが、アフリカ系のバイーア住民にとっての三大食材となった。アメリカ合衆国では、トウガラシは南西部以外へはなかなか広まらなかったが、アフリカ人奴隷の料理人たちによって再導入される形になった。
エチオピアには、ベルベレと呼ばれるハリッサに似たペーストがあり、これはニンニク、エシャロット、ショウガを混ぜたものにトウガラシパウダーと約10種の香辛料を合わせて加えたものだ。香辛料はオールスパイス、カルダモン、ナツメグ、シナモン、クローブ、メープルに似た風味のフェヌグリーク、コリアンダー、クミン、里一コショウ、辛みのあるターメリックが使われる。トウガラシと他の香辛料を3対Iの割合にしてオイルかワインと混ぜて作るドライペーストは、羊肉や牛肉に大量に使用したり、ワットと呼ばれるシチューのべースにしたりする。
北アフリカでは、トウガラシはソーセージに似たメルゲーズと呼ばれる昔ながらの食べ物に使われてきたが、カレーやサモサも一般的で、文書としての記録は残っていないが、南アジアの食習慣との長いつながりがうかがえる。
ラスエルハヌートと呼ばれる複雑なスパイスミックスは、トウガラシ入りのガラムマサラやベルベレの乾燥粉末に似ているが、地域によって異なり、チュファ(ショクョウカヤツリグサの種あるいはタイガーナッツとも呼ばれ、昔からスペインの飲み物オルチャータの原料になる)のような地元の香辛料、あるいは黒コショウに似たピリッとした風味のグレインズ・オブ・パラダイス(ギュアショウガ)、クペバ、ロングペッパー、さらにローズバッド、サフラン、ガランガルも入ることがある。ラスエル(ヌートの古いレシピには、しばしば毒を含むベラドンナの実や、スハニッシュフライと呼ばれる古代の媚薬(実際はツチハンミョウ亜科のカブト虫で学名)も入っていた。
アフリカ西部では、肉、魚、野菜、ヤムイモまたはキャッサバ(イモ)で作る風味豊かなシチューにチリパウダーを加えて味を強める。西アフリカのョル、バ族の主食は、ヤムイモをつぶしたものにオベと呼ばれる辛いミートソースをかけたものだ。
南アフリカの料理はオランダ、イギリス、南アジアの影響を受けているが、ピリ辛のソースや薬味、ニンニクの効いたチリソースの一種サンバル、そしてブラッヤンと呼ばれる甘辛で酸味もあるアプリコットのチャツネが融合し、南アフリカの国民食でボボティと呼ばれるミートローフにつけて食べる。また、南アフリカにはスパイシーでカレー風味のオイルに漬けた野菜のピクルス、アチャーもある。ここ半世紀、アフリカの大部分の女性はこれらを一から自分で作るより出来合いのものを買っている。
アフリカ料理でトウガラシがどれほど重宝されているかを正確に説明しようとすると、おそらくそれだけで本を一冊書かねばならない。アフリカ大陸の55カ国それぞれが、トウガラシを商業的に生産している。この大陸にトウガラシが伝わって以来、アフリカの料理はその焼けつくような辛みを取り入れてきた。今日、アフリカの人々のトウガラシヘの愛に対抗できるのは、アジアに住む人々だけと言ってよい。
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