『ハプスブルク帝国』より フランス革命とナポレオン戦争
フランス革命
フランスで革命が勃発すると、王妃マリ・アントワネットはハプスブルク政府に対し、介入を再三懇請した。しかし、君主国はしばらくこれを静観した。ヨーゼフ二世の晩年に生じた動乱の収拾に忙殺され、干渉する余裕がなかったのである(レーオポルト二世「私には妹がいるが、国家にはいない」)。まず危惧されたのは南ネーデルラントの分離独立運動(「ブラーバント革命」)への影響で、実際、これは杞憂ではなかった。また革命はさしあたりフランスの内政問題と考えられ、レーオポルト二世をはじめ、共感を示す者も少なくなかった。
しかし一七九一年頃からは、革命の激化、亡命貴族の反革命運動、国王ルイ一六世夫妻の亡命失敗(ヴァレンヌ事件)などにより、徐々に警戒心が強まった。ピルニッツ宣言が結果として革命を急進化させ、好戦派が主導権を握ったフランスから宣戦を布告されると、ハプスブルク君主国はプロイセンと共に出兵し、初めは勝利を重ねた。しかし、ヴァルミーでの敗北(一七九二年九月)--従軍したゲーテが「今日、ここから世界史の新たな時代がはじまる」と述懐したことで知られる--以降は劣勢となり、逆に侵攻を許して南ネーデルラントを失ってしまう。この地域は以後約二〇年にわたり、フランスの支配下におかれた。
フランスがルイ一六世夫妻を処刑し、革命の輸出を唱えて近隣に侵攻し始めると、列強は対仏大同盟を結成して対抗した。しかし、思惑の違いや利害の対立から、その足並みが揃うことはなかった。ロシアとプロイセンは、この機に東欧における勢力拡大を企てて第二次ポーランド分割(一七九三年)を実施し、ハプスブルク君主国も権益維持のため、一七九五年に三度目のポ-ランド分割を主導する。列強が展開する露骨なパワー・ポリティックスの犠牲となり、ポーランドはここに滅亡の憂き目をみることとなった。
ハプスブルク君主国はイギリスと共に反仏勢力の中核をなしたが、頭角を現したナポレオンなどが率いるフランス軍の前に苦戦が続いた。また国内ではフランス革命の影響を受け、自由と平等を求めると共に対仏戦争を批判する「ジヤコバン派」の活動がみられた。しかし政府は警察機関を強化してこれを厳しく弾圧し、改革を求める動きにも警戒を強めた。このため公論は萎縮し、フランスにおける革命の過激化(「恐怖政治」)に対する嫌悪感も相まって、社会には保守化の傾向が強まった。
一方、この時期にはドイツでも、ハプスブルク家に指導的な役回りを期待する声が高まった。シレジア出身の文人フリードリヒ・ゲンツはその好例である。彼は哲学者イマヌエル・カントの高弟で、フランス革命に当初熱狂したが、その急進化に幻滅して反革命派に転じ、イギリスの保守政治家エドマンド・バークが著した『フランス革命の省察』の独訳で一躍名を成したという人物である。のちにゲンツはメッテルニヒの秘書官となり、ウィーン会議などで活動することとなる。
また国内でも、「王朝敬愛心」の発揚がみられた。その表れの一つが、ハイドンが詩人(シュカの詞につけて作曲した皇帝賛歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」(一七九七年)である。今日では詩人フアラースレーベンの詞によりドイツ国歌となっているこの曲は、(イドンがロンドン滞在中に聴いた英国国歌に感銘を受けたことから誕生したもので、以後何度か歌詞を変えつつ、ハプスブルク君主国において事実上の国歌として愛唱された。
ただ一方、革命フランスの進軍に期待をかけた人々もいた。下オーストリアのある司祭は、一八一○年に次のように記している。「一般に、この地区の農民が敵軍の到着をひそかに心待ちにしていることは否定しがたい。彼らは敵軍がすべての負担から解放してくれるものと信じているのだ。アスペルンそしてエスリンクにおける[ハプスブルク側の]勝利がおとぎ話でないことを彼らに納得させるのは難しい。なぜならこのニュースは彼らの希望的観測にそぐわないからだ」。
ナポレオン戦争
ナポレオンの皇帝即位(一八○四年五月)、そしてフランスによるドイツ支配の進行は、神聖ローマ帝国の存立を危ぶませるものであった。このためハプスブルク政府は独自に帝位を創出することを決定し、神聖口ーマ皇帝フランツ二世は「オーストリア皇帝フランツー世」として即位した(八月)。ここでは国事詔書などに基づいて複合的国制の保全が再確認され、ハプスブルク君主国の統合力は強化された。
しかし、苦戦はなお続いた。「三帝会戦」の名で知られるアウステルリッツの会戦(一八○五年一二月)で大敗を喫し、ティロールなどを失うと、ハプスブルク家の勢威はさらに後退した。ドイツ中部・南部の中小邦はナポレオンの肝煎りで結成された「ライン同盟」に加わり、神聖ローマ帝国から離脱する。これを受けてフランツ二世は神聖口ーマ皇帝の位を退くことを宣言し、神聖ローマ帝国はとこにその長い歴史を終えた。
他国との連携の試みが不調に終わり、カール大公(フランツ一世の弟)と宰相シュタディオンによる政軍改革も道半ばであったが、ハプスブルク君主国は一八〇九年、ナポレオンに再度挑んだ。士気は旺盛で、アスペルンの会戦では、カールがナポレオンに初めて陸戦で土をつけた。またティロールでは、アンドレアス・ホーファー率いる民衆軍が頑強な抵抗を示した。
しかしこの戦役の大勢は、ハプスブルク側がヴァグラムの会戦に敗れたことで決した。この結果、ハプスブルク政府はウィーンに入ったナポレオンとシェーンブルン宮殿で和議を結び、その後塵を拝することとなる。なお、この和議の結果、クロアチア、南ケルンテン、アドリア海沿岸地域がフランス領とされ、イリリア州として統合されたことは、のちにこの地に独自のナショナリズム運動(「イリリァ運動」)が生じる契機となった。
シェーンブルンの和議の後、ハプスブルク君主国は新外相メッテルニヒのもと、宥和政策に転じた。皇女マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせたのはその一環である。ロシア遠征(一八一二年)の惨麿たる失敗を境としてナポレオンの勢力が衰え、打倒の機運が高まると、メッテルニヒはロシアを牽制する目的から、フランスの勢力を保全しようと仲介を試みた。しかしナポレオンに拒絶されたため、結局ハプスブルク君主国も対仏同盟に加わることとなる。対仏同盟軍はライプツィヒの会戦(一八一三年一〇月)を頂点とする「解放戦争」に勝利し、ナポレオンを退位に追い込んだ。
ウィーン会議
ナポレオンの没落後、ヨーロッパの王侯・貴族はウィーンで一堂に会し、メッテルニヒの差配の下、戦後処理について協議した(ウィーン会議)。この会議については、ベルギー系のハプスブルク貴族ド・リーニュ侯の「会議は踊る、されど進まず」という評言、そしてこれをタイトルとした往年の名画の印象により、贅沢な祝宴や乱痴気騒ぎ、そして舞台裏で展開された虚々実々の駆け引きを想起する人が多いだろう。
しかし実際には、混乱や対立を抱えながらも議事は総じてスムーズに進み、おおよそ三ヵ月半で実質的に決着した。ナポレオンのエルバ島脱出の報が届いたのも、基本的な合意が成立した後のことで、会議の帰趨にさしたる影響は与えていない。また「復古的」「反動的」ともよく言われるが、実際にはナポレオン戦争期に生じた変革の多くが追認された。近年では、こうした会議の成果を、穏健な自由主義者と改革に理解のある保守主義者による合意形成の産物として評価する動きも現れている。
ハプスブルク君主国は、南ネーデルラントとドイッ西南部の所領を放棄したものの、ザルッブルク、ヴェネツィア、ロンバルディーア、イリリア王国などを回復・獲得して、総合的には領土を広げた。ドイツに関しては、統一国家の樹立や神聖ローマ帝国の復活は拒否したが、三九の領邦国家によって新たに結成された「ドイッ連邦」の議長国という立場を得て、主導権を確保した。またイタリアを、大半の国々に(プスブルク家につながる君主を立てることで、事実上の勢力圏とした。そしてポ士フンドについては、分割前の状態に「復古」する試みこそロシアの反対で挫折したものの、ガリッィアを回復したほか、プロイセンと暗黙の裡に提携して、ロシアの進出を抑える構えを整えた。こうしてハプスブルク君主国はウィーン会議により、一円的な領域形成と周辺への影響力保持に成功した。
ウィーン会議は、革命前の体制の回復を掲げる「正統主義」、そして覇権国家の出現を防ぎ諸国家を共存させるための「勢力均衡」(「ヨーロッパ協調」)を基調とする、大国主導の「ウィーン体制」を生み出した。この体制は、秩序維持を最優先して自由主義運動とナショナリズムを抑圧したとして、かつてはもっぱら否定的に評価されていた。しかし二度の世界大戦を経た後、ここ半世紀ほどは、ここで一種の集団的安全保障体制が形成されたことで(長ぃ目で見れば)一世紀にわたりヨーロッパで大乱が回避されたとして、肯定的に評価する論者が少なくない。歴史家エリック・ホブズボームの次の言葉は、その代表的なものといえるだろう。
「クリミア戦争は別として、二つよりおおくの強国をまきこんだ戦争は、一八一五年と一九一四年のあいだにはなかった。二十世紀の市民は、この業績の偉大さをたかく評価しなければならない。国際情勢は平穏であったどころか、衝突の機会がいっぱいあっただけに、一層そのことは、印象的だったのである」(水田洋訳)。
なお当事者たちは、この体制の存続可能性を決して楽観していなかった。ゲンツによる当時の見通しは、「半世紀間持ちこたえられるとは断言できないが、一〇年いや二〇年くらいであれば維持できる」というものだった。
フランス革命
フランスで革命が勃発すると、王妃マリ・アントワネットはハプスブルク政府に対し、介入を再三懇請した。しかし、君主国はしばらくこれを静観した。ヨーゼフ二世の晩年に生じた動乱の収拾に忙殺され、干渉する余裕がなかったのである(レーオポルト二世「私には妹がいるが、国家にはいない」)。まず危惧されたのは南ネーデルラントの分離独立運動(「ブラーバント革命」)への影響で、実際、これは杞憂ではなかった。また革命はさしあたりフランスの内政問題と考えられ、レーオポルト二世をはじめ、共感を示す者も少なくなかった。
しかし一七九一年頃からは、革命の激化、亡命貴族の反革命運動、国王ルイ一六世夫妻の亡命失敗(ヴァレンヌ事件)などにより、徐々に警戒心が強まった。ピルニッツ宣言が結果として革命を急進化させ、好戦派が主導権を握ったフランスから宣戦を布告されると、ハプスブルク君主国はプロイセンと共に出兵し、初めは勝利を重ねた。しかし、ヴァルミーでの敗北(一七九二年九月)--従軍したゲーテが「今日、ここから世界史の新たな時代がはじまる」と述懐したことで知られる--以降は劣勢となり、逆に侵攻を許して南ネーデルラントを失ってしまう。この地域は以後約二〇年にわたり、フランスの支配下におかれた。
フランスがルイ一六世夫妻を処刑し、革命の輸出を唱えて近隣に侵攻し始めると、列強は対仏大同盟を結成して対抗した。しかし、思惑の違いや利害の対立から、その足並みが揃うことはなかった。ロシアとプロイセンは、この機に東欧における勢力拡大を企てて第二次ポーランド分割(一七九三年)を実施し、ハプスブルク君主国も権益維持のため、一七九五年に三度目のポ-ランド分割を主導する。列強が展開する露骨なパワー・ポリティックスの犠牲となり、ポーランドはここに滅亡の憂き目をみることとなった。
ハプスブルク君主国はイギリスと共に反仏勢力の中核をなしたが、頭角を現したナポレオンなどが率いるフランス軍の前に苦戦が続いた。また国内ではフランス革命の影響を受け、自由と平等を求めると共に対仏戦争を批判する「ジヤコバン派」の活動がみられた。しかし政府は警察機関を強化してこれを厳しく弾圧し、改革を求める動きにも警戒を強めた。このため公論は萎縮し、フランスにおける革命の過激化(「恐怖政治」)に対する嫌悪感も相まって、社会には保守化の傾向が強まった。
一方、この時期にはドイツでも、ハプスブルク家に指導的な役回りを期待する声が高まった。シレジア出身の文人フリードリヒ・ゲンツはその好例である。彼は哲学者イマヌエル・カントの高弟で、フランス革命に当初熱狂したが、その急進化に幻滅して反革命派に転じ、イギリスの保守政治家エドマンド・バークが著した『フランス革命の省察』の独訳で一躍名を成したという人物である。のちにゲンツはメッテルニヒの秘書官となり、ウィーン会議などで活動することとなる。
また国内でも、「王朝敬愛心」の発揚がみられた。その表れの一つが、ハイドンが詩人(シュカの詞につけて作曲した皇帝賛歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」(一七九七年)である。今日では詩人フアラースレーベンの詞によりドイツ国歌となっているこの曲は、(イドンがロンドン滞在中に聴いた英国国歌に感銘を受けたことから誕生したもので、以後何度か歌詞を変えつつ、ハプスブルク君主国において事実上の国歌として愛唱された。
ただ一方、革命フランスの進軍に期待をかけた人々もいた。下オーストリアのある司祭は、一八一○年に次のように記している。「一般に、この地区の農民が敵軍の到着をひそかに心待ちにしていることは否定しがたい。彼らは敵軍がすべての負担から解放してくれるものと信じているのだ。アスペルンそしてエスリンクにおける[ハプスブルク側の]勝利がおとぎ話でないことを彼らに納得させるのは難しい。なぜならこのニュースは彼らの希望的観測にそぐわないからだ」。
ナポレオン戦争
ナポレオンの皇帝即位(一八○四年五月)、そしてフランスによるドイツ支配の進行は、神聖ローマ帝国の存立を危ぶませるものであった。このためハプスブルク政府は独自に帝位を創出することを決定し、神聖口ーマ皇帝フランツ二世は「オーストリア皇帝フランツー世」として即位した(八月)。ここでは国事詔書などに基づいて複合的国制の保全が再確認され、ハプスブルク君主国の統合力は強化された。
しかし、苦戦はなお続いた。「三帝会戦」の名で知られるアウステルリッツの会戦(一八○五年一二月)で大敗を喫し、ティロールなどを失うと、ハプスブルク家の勢威はさらに後退した。ドイツ中部・南部の中小邦はナポレオンの肝煎りで結成された「ライン同盟」に加わり、神聖ローマ帝国から離脱する。これを受けてフランツ二世は神聖口ーマ皇帝の位を退くことを宣言し、神聖ローマ帝国はとこにその長い歴史を終えた。
他国との連携の試みが不調に終わり、カール大公(フランツ一世の弟)と宰相シュタディオンによる政軍改革も道半ばであったが、ハプスブルク君主国は一八〇九年、ナポレオンに再度挑んだ。士気は旺盛で、アスペルンの会戦では、カールがナポレオンに初めて陸戦で土をつけた。またティロールでは、アンドレアス・ホーファー率いる民衆軍が頑強な抵抗を示した。
しかしこの戦役の大勢は、ハプスブルク側がヴァグラムの会戦に敗れたことで決した。この結果、ハプスブルク政府はウィーンに入ったナポレオンとシェーンブルン宮殿で和議を結び、その後塵を拝することとなる。なお、この和議の結果、クロアチア、南ケルンテン、アドリア海沿岸地域がフランス領とされ、イリリア州として統合されたことは、のちにこの地に独自のナショナリズム運動(「イリリァ運動」)が生じる契機となった。
シェーンブルンの和議の後、ハプスブルク君主国は新外相メッテルニヒのもと、宥和政策に転じた。皇女マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせたのはその一環である。ロシア遠征(一八一二年)の惨麿たる失敗を境としてナポレオンの勢力が衰え、打倒の機運が高まると、メッテルニヒはロシアを牽制する目的から、フランスの勢力を保全しようと仲介を試みた。しかしナポレオンに拒絶されたため、結局ハプスブルク君主国も対仏同盟に加わることとなる。対仏同盟軍はライプツィヒの会戦(一八一三年一〇月)を頂点とする「解放戦争」に勝利し、ナポレオンを退位に追い込んだ。
ウィーン会議
ナポレオンの没落後、ヨーロッパの王侯・貴族はウィーンで一堂に会し、メッテルニヒの差配の下、戦後処理について協議した(ウィーン会議)。この会議については、ベルギー系のハプスブルク貴族ド・リーニュ侯の「会議は踊る、されど進まず」という評言、そしてこれをタイトルとした往年の名画の印象により、贅沢な祝宴や乱痴気騒ぎ、そして舞台裏で展開された虚々実々の駆け引きを想起する人が多いだろう。
しかし実際には、混乱や対立を抱えながらも議事は総じてスムーズに進み、おおよそ三ヵ月半で実質的に決着した。ナポレオンのエルバ島脱出の報が届いたのも、基本的な合意が成立した後のことで、会議の帰趨にさしたる影響は与えていない。また「復古的」「反動的」ともよく言われるが、実際にはナポレオン戦争期に生じた変革の多くが追認された。近年では、こうした会議の成果を、穏健な自由主義者と改革に理解のある保守主義者による合意形成の産物として評価する動きも現れている。
ハプスブルク君主国は、南ネーデルラントとドイッ西南部の所領を放棄したものの、ザルッブルク、ヴェネツィア、ロンバルディーア、イリリア王国などを回復・獲得して、総合的には領土を広げた。ドイツに関しては、統一国家の樹立や神聖ローマ帝国の復活は拒否したが、三九の領邦国家によって新たに結成された「ドイッ連邦」の議長国という立場を得て、主導権を確保した。またイタリアを、大半の国々に(プスブルク家につながる君主を立てることで、事実上の勢力圏とした。そしてポ士フンドについては、分割前の状態に「復古」する試みこそロシアの反対で挫折したものの、ガリッィアを回復したほか、プロイセンと暗黙の裡に提携して、ロシアの進出を抑える構えを整えた。こうしてハプスブルク君主国はウィーン会議により、一円的な領域形成と周辺への影響力保持に成功した。
ウィーン会議は、革命前の体制の回復を掲げる「正統主義」、そして覇権国家の出現を防ぎ諸国家を共存させるための「勢力均衡」(「ヨーロッパ協調」)を基調とする、大国主導の「ウィーン体制」を生み出した。この体制は、秩序維持を最優先して自由主義運動とナショナリズムを抑圧したとして、かつてはもっぱら否定的に評価されていた。しかし二度の世界大戦を経た後、ここ半世紀ほどは、ここで一種の集団的安全保障体制が形成されたことで(長ぃ目で見れば)一世紀にわたりヨーロッパで大乱が回避されたとして、肯定的に評価する論者が少なくない。歴史家エリック・ホブズボームの次の言葉は、その代表的なものといえるだろう。
「クリミア戦争は別として、二つよりおおくの強国をまきこんだ戦争は、一八一五年と一九一四年のあいだにはなかった。二十世紀の市民は、この業績の偉大さをたかく評価しなければならない。国際情勢は平穏であったどころか、衝突の機会がいっぱいあっただけに、一層そのことは、印象的だったのである」(水田洋訳)。
なお当事者たちは、この体制の存続可能性を決して楽観していなかった。ゲンツによる当時の見通しは、「半世紀間持ちこたえられるとは断言できないが、一〇年いや二〇年くらいであれば維持できる」というものだった。
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