未唯への手紙

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分人主義とは何か

2016年01月11日 | 1.私
『ぼくらの仮説が世界をつくる』より ⇒ 未唯空間において、「分化」は人類を救うキーワード

作品に親しむ「分人」を引き出す

 以前、平野啓一郎さんの『ドーン』『空白を満たしなさい』という小説の編集をさせていただきました。その中で「分人主義」という考えが提唱されています。

分人主義とは何か。

 たとえばぼくは、講演会ではなるべく論理的にわかりやすく話そうとします。一方、会社で社員としゃべるときはもっと早口です。また、家族としゃべっているときはもっとフランクですし、友だちとしゃべってるときもまた全然違います。さらに、友だちは友だちでも、昔の友だちとだと、また全然違う話し方になります。

 これはどういうことか。すべてを演じ分けているのでしょうか。「本当の自分」というものがあって、その自分が「講演会用の佐渡島庸平」「会社用の佐渡島庸平」という感じで使い分けているのでしょうか? そうではありません。「演じている」わけではなく、「自然とそういうふうになってしまう」のです。

 つまり、人間というのは「本当の自分」というものが真ん中にあっていろんなことをコントロールしているわけではなく、すべて他人との人間関係の中に自分があって、「相手によって引き出されている」のです。

 みんな「本当の自分」を探して旅に出たりしますが、そもそも「本当の自分」がなければ、その旅は意味がありません。

 人間というのは、これ以上分けることができない存在乙乱三汁巴だと思われています。divideできない存在が個人だと思われていますが、実際は環境によって、自分というものが分かれてしまうわけです。

 自分というものは、他人によって引き出される存在です。だから「本当の自分」というものは存在せず、「子どもと接しているときの自分」も「かしこまっているときの自分」も、すべてが「自分」なんだという考え方が、「分人主義」です。これは『私とは何か』(講談社現代新書)に詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてください。

 さて、なぜ「分人主義」の話をしたのか。もう少し話を続けます。

 「あまロス」という言葉をご存知でしょうか。朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が終わって寂しいことを「あまロス」と言いました。同じように「ペットロス」という言葉もあります。「○○ロス」とは、何かがなくなってしまった喪失感を表しています。

 人は、知り合いや仲がいい人が死ぬと悲しくなります。当然のことです。でも、親しくない人が死んだら、そこまで悲しみは感じません。人は、皆死ぬので、すべての人の死を悲しむことはないでしょう。つまり、「死」自体が悲しいわけではない。それでは、「悲しい死」と「悲しくない死」、これは何が違うのでしょうか?

 自分の中の「分人」というものが「相手によって引き出されるもの」だとしたら、その人が死んでしまったら、その「分人」はもう引き出されることかありません。その「分人」を喪失してしまった状態というのが、「悲しみ」なのではないか。分人主義ではそう考えるのです。自分の中の何かがなくなってしまったから、喪失感を抱く。

 「ペットロス」というのは、ペットによって引き出される自分(分人)がもう出てこなくなる。あまロスというのは「あまちゃん」のときに引き出される自分(分人)が出てこなくなる。だから、寂しく思うのです。

 平野啓一郎さんは「愛とは何か」ということも分人主義で定義しています。

 「相手の何か」が愛おしいというよりも、その「相手といるときの自分」「相手によって引き出される分人」が好き、というのが「愛」なのではないか。心地いい自分、落ち着く自分を引き出してくれるから、その相手が愛おしく、それが「人を愛する」ということだ、と定義しているのです。

 先ほど言ったように、『宇宙兄弟』の単行本は4ヵ月に一回しか発売されません。つまり、4ヵ月に1回しか『宇宙兄弟』に触れてくれてない。どれだけ自分の人生に最高のアドバイスをしてくれる大切な人であっても、4ヵ月に一回しか会わない人だと重要度は低くなってしまいます。その「分人」というものは滅多に引き出されることがないから、毎日、出会う友人には負けてしまうのです。

 『宇宙兄弟』を大切に思ってもらうためには、その「分人」を毎日引き出すことが重要になります。

 可能ならば、1日に5回でも10回でも「宇宙兄弟分人」というものを引き出したい。さまざまなSNSを運用七ているのは「これからの時代はSNSだ!」といった単純な考えではなく、『宇宙兄弟』と一緒に過ごす「分人」を持ってもらうようにしたいという戦略があるのです。

 『宇宙兄弟』という分人を持っていると、どういうことが起こるでしょうか?

 たとえば、たまにしか会ってない人から「司法試験受かったよ!」と急に言われたとしても、「ああ、そうか、おめでとう」くらいしか思いません。

 一方で、フェイスブックの投稿などで、その人がどれくらい苦労しているかをずっと知っていたら、「そりゃあ、よかった! 一緒に祝おう。一杯飲みに行くか!」という話になります。

 つまり、「分人」を共有しているかどうかが、ファンが作品により深く関与してくれるかどうかに、関わってくるのです。

 これまで出版社は、自分たちが雑誌というメディアを持っていて、そこ経由で作家と読者をつなぎ合わせていれば十分でした。しかし、もはやその接触回数では、「分人」を引き出すことができない。そこで、コルクは、インターネット上にあるさまざまなスモールメディアを使って、作家、作品に対する「分人」をファンに持ってもらうように努力しているのです。

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