『グローバル・ジャスティス』より イスラームと正義-共約不可能性と共存の可能性
共約不可能性を前提にしての共存の模索
では。両者は共存不可能なのだろうか。確かに。いずれか一方が他方を屈服させようとするならば。共存は不可能となるばかりか、さらなる衝突を引き起こす。共存可能性への第一の条件は、どれだけ気に入らなくても、相手の価値の体系を無理やり転換させようとしたり、転換させるために暴力を用いたりすることを断念することにある。さしあたって、イスラーム側は西欧近代の諸価値を変えさせようなどとは思ってもいないのであるから、暴力をもって転換を迫ってきたのは西欧世界の側である。西欧近代文明もイスラーム文明も、規範の体系である。どちらかの体系に属している人にとって、他方の体系を受け入れることは容易ではない。したがって。規範の基になる価値体系が、相互に決して交わることのない共約不可能なものであることを了解することが条件なのである。
この問題への答えのヒントは、先に挙げたオバマ演説のなかにある。イスラーム的諸価値と西欧近代が創出し、今日、非イスラーム社会では「普遍的」とされている価値を等価のものとして並置させ、相手の側に立つと宣言したのがオバマのカイロ演説である。わたし自身は、そこまでする必要はないと考える。オバマ大統領の場合は、ブッシュ前政権の敵対的政策を大転換したことをアピールする必要があったから、相手の価値体系の側に立ってみせたのである。実際には。その手前、すなわち相手(イスラーム)の規範を、彼らの価値体系に即して理解する訓練ができていれば共存への第一歩となる。具体例を挙げるなら。「イスラームのスカーフ」と決めつける前に、そして「女性抑圧の象徴」と断じる前に、着用しているムスリム女性の見解に耳を傾ければよいのである。驚くべきことに、これだけヨーロッパ中で大論争になったにもかかわらず、スカーフの意味をイスラームの文脈に即して理解したうえで議論を挑もうとする立場はほとんどなかった。このことは、西欧社会の学者が、ほとんど非宗教的な立場に立っていることと無関係ではない。世俗主義を支持する学者は、たいていの場合、敬虔な信徒の話を聞きたくないし。実際。聞こうとしないのである。
羞恥心の原点がイスラームにあるにせよ、羞恥心から着用する衣装を「脱げ」といってしまう暴力性を理解したうえで、実際の着用がパターナリズムによる強制であるならば、そもそもパターナリズムによって強制すること自体がイスラームに反すると批判することは十分可能である。前に書いたとおり、コーランにはスカーフやヴェールの着用について罰則規定がない。神の法において身体刑としての罰が規定されていないのであるから、着用自体の判断は女性個人に委ねられる。もし。着用しない妻に対して、夫や、社会や、国家が暴力で着用を強制しようとするならば、イスラーム法に反することになりかねない。コーランには、信徒に対して「無理強いをするな」という強制の禁止が何度も登場する。無理強いするよりも、慈悲深く対処した方が敬神の心が起きるとアッラー(神)自身が断言しているからである。
アフガニスタンのタリバンが女性の教育を弾圧したことについても、同じように対処することができる。イスラームには女性の教育に対する禁止規定などまったく存在しない。したがって、学校教育を受けようとする女子生徒を傷つける根拠などありえない。これもまた、女性に学問は要らない、家にいて家長たる男性に尽くせというパターナリズムの問題である。タリバンが支配権を握った1990年代の後半、この組織は。まだきわめて未成熟で、地方の部族長たちがタリバン支持を表明すると、彼らに統治権を認めてきた。部族社会そのものが強くパターナリスティックな性格を帯びていたため、不可解、かつイスラーム的にも許されない行為がタリバンの名の下に行われた。タリバン自身も急ごしらえの政権で、地方の統治にあたったメンバーには、恐ろしいほどに出来、不出来の差があった。イスラーム法に関する学識の乏しい者が、地方の指導者の歓心を買うために、イスラームを歪めて伝統と因習を肯定したのである。タリバンがイスラーム法による統治を唱えるのであれば、因習への迎合は断じて許されない。
現在、アフガニスタンではタリバンの復活が目覚ましい。これに対して、ブッシュ政権と同じロジックを用いて、タリバンは女性を抑圧するから「武力行使によって」排除しなければならないと主張するなら、女性の人権を人質にとって戦争を肯定することにほかならない。そうではなくて、タリバンの何がイスラーム法に適い、何かイスラーム法に反しているかを逐一調べ上げて批判すればよいのである。批判がイスラーム法に照らして妥当であれば彼らは改めるであろうし、もし改めないのであれば、単にイスラームを僭称する武装集団として非難することもできる。
そもそも民衆は、タリバンを似非イスラーム組織とみなせば離反してしまうので、タリバンが政権としての正統性を得ることは不可能になる。1990年代にタリバンが台頭した背景には。ソ連軍を追放した後の北部同盟政権(軍閥を率いる部族長たちの集まり)が。あまりに残虐で非道な行為で住民を苦しめたからにほかならない。イスラーム法による統治を名乗るタリバンの方が、まだしも秩序を維持しえたからこそ、民衆もタリバンを支持したのである。その後、タリバンが犯した過ちについては以上に述べたとおりである。
共約不可能性を前提にしての共存の模索
では。両者は共存不可能なのだろうか。確かに。いずれか一方が他方を屈服させようとするならば。共存は不可能となるばかりか、さらなる衝突を引き起こす。共存可能性への第一の条件は、どれだけ気に入らなくても、相手の価値の体系を無理やり転換させようとしたり、転換させるために暴力を用いたりすることを断念することにある。さしあたって、イスラーム側は西欧近代の諸価値を変えさせようなどとは思ってもいないのであるから、暴力をもって転換を迫ってきたのは西欧世界の側である。西欧近代文明もイスラーム文明も、規範の体系である。どちらかの体系に属している人にとって、他方の体系を受け入れることは容易ではない。したがって。規範の基になる価値体系が、相互に決して交わることのない共約不可能なものであることを了解することが条件なのである。
この問題への答えのヒントは、先に挙げたオバマ演説のなかにある。イスラーム的諸価値と西欧近代が創出し、今日、非イスラーム社会では「普遍的」とされている価値を等価のものとして並置させ、相手の側に立つと宣言したのがオバマのカイロ演説である。わたし自身は、そこまでする必要はないと考える。オバマ大統領の場合は、ブッシュ前政権の敵対的政策を大転換したことをアピールする必要があったから、相手の価値体系の側に立ってみせたのである。実際には。その手前、すなわち相手(イスラーム)の規範を、彼らの価値体系に即して理解する訓練ができていれば共存への第一歩となる。具体例を挙げるなら。「イスラームのスカーフ」と決めつける前に、そして「女性抑圧の象徴」と断じる前に、着用しているムスリム女性の見解に耳を傾ければよいのである。驚くべきことに、これだけヨーロッパ中で大論争になったにもかかわらず、スカーフの意味をイスラームの文脈に即して理解したうえで議論を挑もうとする立場はほとんどなかった。このことは、西欧社会の学者が、ほとんど非宗教的な立場に立っていることと無関係ではない。世俗主義を支持する学者は、たいていの場合、敬虔な信徒の話を聞きたくないし。実際。聞こうとしないのである。
羞恥心の原点がイスラームにあるにせよ、羞恥心から着用する衣装を「脱げ」といってしまう暴力性を理解したうえで、実際の着用がパターナリズムによる強制であるならば、そもそもパターナリズムによって強制すること自体がイスラームに反すると批判することは十分可能である。前に書いたとおり、コーランにはスカーフやヴェールの着用について罰則規定がない。神の法において身体刑としての罰が規定されていないのであるから、着用自体の判断は女性個人に委ねられる。もし。着用しない妻に対して、夫や、社会や、国家が暴力で着用を強制しようとするならば、イスラーム法に反することになりかねない。コーランには、信徒に対して「無理強いをするな」という強制の禁止が何度も登場する。無理強いするよりも、慈悲深く対処した方が敬神の心が起きるとアッラー(神)自身が断言しているからである。
アフガニスタンのタリバンが女性の教育を弾圧したことについても、同じように対処することができる。イスラームには女性の教育に対する禁止規定などまったく存在しない。したがって、学校教育を受けようとする女子生徒を傷つける根拠などありえない。これもまた、女性に学問は要らない、家にいて家長たる男性に尽くせというパターナリズムの問題である。タリバンが支配権を握った1990年代の後半、この組織は。まだきわめて未成熟で、地方の部族長たちがタリバン支持を表明すると、彼らに統治権を認めてきた。部族社会そのものが強くパターナリスティックな性格を帯びていたため、不可解、かつイスラーム的にも許されない行為がタリバンの名の下に行われた。タリバン自身も急ごしらえの政権で、地方の統治にあたったメンバーには、恐ろしいほどに出来、不出来の差があった。イスラーム法に関する学識の乏しい者が、地方の指導者の歓心を買うために、イスラームを歪めて伝統と因習を肯定したのである。タリバンがイスラーム法による統治を唱えるのであれば、因習への迎合は断じて許されない。
現在、アフガニスタンではタリバンの復活が目覚ましい。これに対して、ブッシュ政権と同じロジックを用いて、タリバンは女性を抑圧するから「武力行使によって」排除しなければならないと主張するなら、女性の人権を人質にとって戦争を肯定することにほかならない。そうではなくて、タリバンの何がイスラーム法に適い、何かイスラーム法に反しているかを逐一調べ上げて批判すればよいのである。批判がイスラーム法に照らして妥当であれば彼らは改めるであろうし、もし改めないのであれば、単にイスラームを僭称する武装集団として非難することもできる。
そもそも民衆は、タリバンを似非イスラーム組織とみなせば離反してしまうので、タリバンが政権としての正統性を得ることは不可能になる。1990年代にタリバンが台頭した背景には。ソ連軍を追放した後の北部同盟政権(軍閥を率いる部族長たちの集まり)が。あまりに残虐で非道な行為で住民を苦しめたからにほかならない。イスラーム法による統治を名乗るタリバンの方が、まだしも秩序を維持しえたからこそ、民衆もタリバンを支持したのである。その後、タリバンが犯した過ちについては以上に述べたとおりである。
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