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満鉄弘報〝宣伝者たることを誇れ〟

『日本の広報・PR100年』より 日本企業最初の広報組織--満鉄弘報 「プロパガンダ帝国」満州国の一翼へ

1931年の満洲事変、32年の満洲国建国以降、満州国の「弘報」体制は満鉄の弘報業務を学んで作られていくが、関東軍によってかなり強い力を持つようになっていった。(以下、20世紀メディア研究所のホームページの山本武利「満州でのラジオ利用による宣撫活動」講演録を参考にした。)

満州国の弘報の中心には関東軍、関東局、満州政府、協和会(日本の大政翼賛会のような国民組織)、満州電信電話株式会社(ラジオ放送局)からなる弘報連絡会議があり、宣伝、宣撫に関する指導、内容の検閲をしていた。ここでは関東軍が最も発言力を持っていたといわれる。

弘報のネットワークも国-省-県-村-保甲の各段階で弘報責任者が決められて情報が流される。またラジオ放送であれば、中央放送局--地方放送局--聴取者のラインで命令、指導がなされるし、各民族、各地域の聴取者に興味が抱かれる番組も指導していた。もちろん、各メディア--ラジオ放送、通信社、新聞社のすべてに統制の網が張り巡らされていた。1936年には満州弘報協会が設立され、通信社、新聞、ラジオ、出版等すべてのメディアの指導・統制を行っている

国務院総務庁弘報処では、1936年、機関誌『宣撫月報』を発行し、満州の弘報ふ旦撫工作関係者に配布していた。プロパガンダの理念、理論と実践、欧米の実例などを掲載しているが、かなりレベルは高い。政治学に心理学、精神分析学を導入したことで知られるアメリカの政治学者(ロルドニフスウェルの『世界大戦における宣伝の技術』の翻訳なども連載されている。

毎号、4~500字の「巻頭言」があり、いわば〝宣伝の理念〟を語っている。執筆者は明記されていないが、おそらく弘報処の幹部が書いているのだろう。ある2号分の「巻頭言」から二鄙を抜き出してみたい。

--宣伝者たることを誇れ--

 「昔から芸術は尊ばれ政治は低俗な取扱を受けてきた。政治さえ蔑視されているから宣伝ということはさらに甚だしく、蔑視を越えて賤しむべき行為とされ士君子の歯すべきものでないとさえ思われてきた。宣伝とはかく賤しむべきであろうか。ゲッペルスは言う、『我等の理解している宣伝は、一種の芸術ではないか、宣伝こそは立派な芸術であって、群衆心理と相並んでドイツ帝国を破滅より救ったところの経国の大業ではないか……宣伝というものを媒介として政治と芸術とを結合させたのである』『政治もまた一種の芸術である。おそらく最高にして最も綜合的芸術である。現代ドイツの政治を形づくる我々は大衆という素材を国民にまで作り上げる芸術である』と、我々もまたゲッペルスと共に言う、満州建国こそ最高にして最も綜合的な芸術である。民族協和の美しい芸術を作り上げる、政治こそ我々に課せられた任務である。この製作者こそ我々宣伝者である。……」(通巻第52号)

--宣伝と権力--

 「宣伝は末梢においては何物にもまして大衆的であり、魅力を持ち人を引きつけるものでなければならぬ。しかしその中に確乎たる目的あるいは指導力をもたなければならぬ、故に宣伝の実施はその背後にこれを指導統制する意志が存しなければならぬ。この意志は権力である。権力にとって指導せられざる宣伝は方向がまちまちになったり、齟齬をきたしたりするが故にその指導力を失いがちである。強力なる権力によって統制せられざる宣伝は国家の意志を内外に表示するに十分でない。宣伝は政治の他の部門におけるよりもさらに中央集権的でなければならず、権力の統制はさらに強くなければならぬ」(第5巻・第3号)。

『宣撫月報』の多くは100ページをこえ、総務長官、弘報処長の訓示・方針などに始まり、前記のラスウェルの翻訳、エール大学レオナルド・ドゥーブの「戦争・平和の宣伝」の翻訳(『宣伝の心理と技術』の一つの章で、日本語全訳は1939年、内閣情報部の「情報宣伝研究資料」として刊行されている)などもあるし、「ドイツ-ソ連・イタリ-の情報宣伝機構と活動」、「ソ連外交を動かす人々」、「ナチスの宣伝理論と方法」など海外知識も取り入れている。官報臭はあるが、立派なプロパガンダの専門誌である。
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