未唯への手紙

未唯への手紙

ポルトガルが日本に来た理由

2017年12月17日 | 4.歴史
『バテレンの世紀』より

「十字軍」的発想と奴隷獲得

 和辻哲郎の『鎖国』は、「世界的視圏」の拡大をめざす近代人というエンリケのイメージを流布するうえで、最も力あった著作といってよかろう。「サン・ヴィセンテ岬サグレスの城に住み、そこに最初の天文台、海軍兵器廠、天文現象世界地理などを観察叙述するコスモグラフィーの学校などを創設して、ポルトガルの科学力を悉くここに集結しようと努力した」というのは、当時の通説に従ったまでだが、このような航海王子エンリケのイメージは、今日では根本から覆されている。

 第一に、エンリケが創設したとされるサグレス航海学校は、史料の裏づけをもたぬまったくのフィクションである。この学校伝説は英国で生れてポルトガルにもたらされたもので、一九世紀末にはポルトガル学界ですでに否定されていた。第二に、エンリケが天文学・地理学等の学識に富んでいたという証拠もない。同時代人のカダモストの記録に「親王は天文学と占星術の学識が豊かなことで、世にその名を知らぬものはなかった」とあるのは、後世の出版者の加筆にすぎない。学識というなら、むしろ兄のペドロの方が、ヨーロッパ各地を遍歴しただけあって、よほどルネサンス的知性のもちぬしだった。第三に、エンリケが周りに集めたとされる科学者や技術者も、同時代の史料によってその存在を確認することはできない。さらに、一四六〇年のエンリケの死までに行われた探検航海のうち、彼の手によるのは三分の一にすぎず、逆に摂政ペドロの積極的な関与が目立つという。                          

 モロッコ征服の意欲で明らかなように、エンリケはイスラムに対する聖戦にわが身を捧げる中世的騎士であったのだ。しかしその彼がなぜ、後世になって「航海者」の異名を奉られるようになったのだろうか。何もかも後世の作為とするわけにはいかない。彼が度々船を送ってアフリカ西岸を南下させ、アジアヘ至る航路を開拓する端緒を作ったのは、否定できぬ事実なのである。

 先にも名を挙げた年代記作者アズララは「なにゆえ親王殿下がギネー(ギニア)地方の探検を命ぜられたか」と問うて、五つの理由をあげている。第一はボジャドール岬を越えた未知の地域への好奇心、第二はその地域の人々との交易への意欲、第三はイスラムの勢力がその地方にどの程度及んでいるかを知る敵情視察、第四は対イスラム戦で味方をしてくれそうなキリスト教君主の探索、第五にその地方の住民をキリスト教に帰依させて、「迷える魂」を救おうとする使命感である。いくらエンリケの資質が中世的だからといって、第一の理由を否定する必要はなかろう。彼のなかにもルネサンス的知性はやはりうごめいていたと考えたほうがむしろ自然だ。しかし、圧倒的動機はイスラムに対する聖戦にある。モロッコにキリスト教の旗を樹てるのと、アフリカ西岸を南下するのとは、レコンキスタのおなじ一環なのだ。エンリケのギネー地方探検がこのようなキリスト教世界の拡大という動機によって圧倒的に導かれていたことは、いわゆる大航海時代の真実を明らかにするうえで忘れてはならぬ事実だ。それは欧米の教科書でいまだにそう書かれているような、地理的発見などというきれいごとではない。

 エンリケはインディアスのどこかにあるというプレスター・ジョンの国を探し出すつもりだった。プレスター・ジョンとは当時ひろく西欧で信じられていた伝説的なキリスト教君主である。エンリケのいうインディアスとは実在のインド亜大陸のことではない。当時はアフリカの一部と考えられていた漠然たる土地のことである。プレスター・ジョンが見つかれば宿敵イスラムをはさみ撃ちすることができるのだ。結局エンリケを動かしたのは、イスラム世界の背後を衝くという十字軍的発想と交易の意欲だったといってよい。交易とはもちろん、モーロ人の仲介なしに西スーダンの金を入手しようとするものだが、実は金にならぶ魅力的な商品がアフリカにはあった。奴隷であって、エンリケが派遣する航海者たちはもっぱら金と奴隷の獲得に血眼になる。

 しかもこの奴隷という交易品目は、異教徒の魂の救済という十字軍的目的にも適うのが話のおそろしいところだった。「殿下は多大の労苦と出費を惜しまず、これらの魂をまことの道へ導くことを願われ、主に捧げる供物でこれにまさるものはあり得ないことを理解しておられた」とアズララは書く。「これらの魂」とは西アフリカ沿岸で捕獲もしくは交易され、ポルトガルヘ送られてキリスト教に改宗させられたベルベル人あるいは黒人の奴隷のことである。ポルトガル人は一〇〇年ののち日本へ到達して、そこで見出した「迷える魂」をおなじように救済しようと努めることになる。彼らは日本で奴隷交易を行いはしたが、日本人を捕獲して奴隷化する行為を犯したわけではない。しかしそれは、当時の日本の軍事的実力がそのことを許さなかったのと、彼ら自身の内部でその間奴隷問題について論争や反省のあった結果であって、イエズス会の宣教師はたとえ奴隷であろうともキリスト教徒でありさえすれば、異教徒にとどまるよりはるかに幸福なのだとする観念を、胸に秘めつつ日本人に教えを説いたのである。

「世界支配者」たるべきキリスト教徒

 つまり、ポルトガル人による西アフリカ住民の捕獲は、大航海時代の前半を主導するキリスト教世界拡大の意欲の底にあるものが何であったかを、赤裸々に物語るものといわねばならない。それはキリスト教徒のみが真に人間の名に値する存在であって、それ以外のイスラム教徒と異教徒(この二者は区別されていた)は悪魔を信じる外道である以上、世界支配者たるべきキリスト教徒に教化され支配されるしか救いの道はないという盲信である。西洋人は主人であり、非西洋人は潜在的な奴隷であるという命題がここからひき出される。その命題が現実化されるのは、むろん大航海時代を越えて一九世紀の到来を待たねばならない。だが西洋の世界支配を正当化する論理が、早くも一五世紀におけるポルトガルの西アフリカ進出のうちに見られるのはなんと戦慄的な事実であることだろう。西洋の世界支配の完成は一面を見れば、まさにレコンキスタの完了だったのである。

 先走った話を引きもどそう。一四四一年に再開された航海は初めて現地住民の捕虜をポルトガルにもたらした。エンリケが捕虜の入手を命じたのは当地の情報を得るためであったが、航海者たちはただちに奴隷として売るためにベルベル人を捕獲し始める。彼らは一四四三年にはブランコ岬に達し、この岬以南の沿岸が絶好の奴隷狩りの地となった。最大の成果が挙ったのは翌四四年で、六隻のカラヴェル船の遠征が二三五人の奴隷をもたらす。第一の目的だったはずの金はどうなったのか。砂金が手に入りはしたが、量は微々たるものにすぎなかった。産金地はポルトガル人が近づけぬ奥地にあったし、奴隷狩りによって住民の敵意をかきたてておいて、交易など成り立つ算段ではなかったのである。

 アフリカ西岸の探検航海の目的がまるで奴隷捕獲であるかのような様相を呈するに至ったのは、レコンキスタの過程でポルトガル人が、北アフリカのイスラム勢力との間に、相互に捕虜を奴隷化する行為を習慣化していたからだろう。相手がイスラムであれば、闘って捕虜とするのはローマ教皇が奨励するキリスト教徒の義務である。アフリカ西岸のベルベル人は航海者の見るところ、あまり筋金のはいった信心は持っていないらしいが、それでもイスラム教徒に違いはなかった。

 航海者たちは住民を求めて上陸し、彼らを視認するや追跡して捕獲し、集落のありかを白状させると、部隊を編成して襲撃した。ベルベル人たちはむろん闘った。彼らは人数でまさっていたし、彼らの唯一の武器である投槍が航海者を貫くこともあった。一四四二年、ゴンサーロ・シントラは一二名の手勢で二〇〇人の敵と闘い、ゴンサーロほか七名が戦死した。しかし、これは例外というべきで、ほとんどの場合住民は、「サンチャゴ」と聖人の名を唱えて襲いかかる航海者たち、対イスラムの聖戦で鍛えられたポルトガルの戦士に抗すべくもなかった。彼らはひたすら逃げた。せっかく集落を包囲したのに、人っ子ひとりいない。それでも航海者たちは気落ちせず、しつこく集落を探し求めた。

 恐慌と荒廃の嵐がブランコ岬以南の沿岸を吹き荒れた。この地の住民であるゼナガ族は国家形成以前の部族的生活をいとなみ、首長も存在しなかった。彼らは丸木舟のほか船というものを見たことがなかった。初めてポルトガルの帆船を海上に認めたとき、彼らは白い翼の怪島と思い、それが岸に近づくと巨大な魚と思い込み、その神出鬼没な行動を見て幽霊と信じた。いつ、どこを襲うか知れぬ船影は、彼らにとって恐るべき怪物だったのである。

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