『生きるのが面倒くさい人』より 回避性が楽になるライフスタイル
「ショートショート」と呼ばれる超短編で独自の世界を生みだした作家の星新一(本名は親一)も、多分に回避性の強いパーソナリティの持ち主だったようだ。以下、最相葉月氏による評伝『星新一一〇〇一話をつくった人』をもとに、その生い立ちを振り返ろう。
彼は作家として名を遺したが、その生い立ちからすると、彼は二代目社長になるべくして生まれた存在で、実際、彼は若くして一部上場企業の社長を務めたこともあった。彼の父星一は、立志伝中の人物とも言うべき星製薬の創業者である。星製薬などといっても、ピンと来る人は少ないかもしれないが、戦前の日本では、星製薬は、武田薬品、田辺製薬などと並ぶ三大製薬会社の一角を占め、ことに星チェーンと呼ばれる小売りチェーンを展開したことから、全国津々浦々までその名が知られていた。
その知名度を生かし、星一は、実業家としてだけでなく、政治家としても活躍した。戦争中は、大政翼賛会という組織の推薦がなければ、当選は難しかったが、政府からも睨まれていた星一は、大政翼賛会の推薦から漏れたにもかかわらず、当選を果たした。終戦後は、参議院全国区の選挙に出て、トップ当選したほどだ。
人間的にもパワフルで、さまざまな窮地を生き延びていた。あるときは、満州から飛行機で帰国する途中、飛行機が鳥取県の沖合で墜落。一緒に搭乗していた軍人が何人も溺れて命を落とす中、星一は、飛行機から脱出、海を泳いでいるところを、漁船に救助されて九死に一生を得ている。そんな彼を支えていたのは、底抜けの楽天性で、彼の口癖は、「死なないことにきめている」(「おやじ」『きまぐれ星のメモ』所収)というものだった。星新一は、そんな偉大な父をもったのである。生まれたとき、父親は五十二歳。母親は三十歳だった。星一は初婚で、母親は森鴎外の縁戚に当たる人で、再婚だった。
両親の結婚の少し前から、星製薬は、政敵側の画策もあって、厳しい状況に置かれていた。星一自身、ある事件に巻き込まれて起訴され、経営は火の車となり、結局、新一が幼い頃に倒産してしまう。しかし、それで諦めないのが星一という人物で、自身の無罪が確定すると、会社の再建に奔走し、太平洋戦争が始まるころまでには、かなりもち直すことになる。
それゆえ、一家にとって、星製薬の再興は悲願であり、長男の新一は、そのプレッシャーをまともに受けて育つこととなった。その状況をさらに過酷なものにしたのは、祖父母が幼い新一を溺愛し、さらに下に弟、妹が立て続けに生まれたことから、「母親のぬくもりを知らない」(『星新一』)で育ったことだった。新一は、両親に甘えることを知らない少年だったのである。そんな寂しさを紛らわせてくれたのが、いつも抱いて眠っていた熊の縫いぐるみだったという。
多くの人に慕われ、人望の厚かった星一だが、身近な人を愛することにかけてはあまり上手でなかった。アメリカ仕込みの合理主義者で、情緒的な面には疎いところがあった。教育方針も、いささか極端で、星一は、子どもたちの成績が上がると、ご褒美にお金を与えていたという。当時は、子どもにお金をもたせること自体、抵抗がある時代だった。
幼い頃、新一は近所の子と遊ぶことも許されず、弟妹とさえかかわることは稀で、孤独に隔離された幼年時代を過ごした。そのためか、新一は自分の気持ちをほとんど表現しない子どもに育った。後の作家も、作文の成績はあまりよくなかった。というのも、彼は気持ちや感想を書くのが苦手だったためだ。
だが、新一は彼一流の手段で、他の子どもたちと交わる方法を身に付けていく。笑わせたり、驚かせたりすることで、人気や注目を浴びたのだ。小学校の頃の新一は、ひょうきんで、頭の回転が速く、周囲を笑わすのが得意な少年だった。教室で突拍子もないことを言って、周囲の注目をさらった。
他の子どもに自然にかかわれない子どもは、しばしばひょうきんで面白い存在を演じたり、突飛な行動をしたりすることで、周囲に受け入れられようとする。小学校時代の新一もそんなタイプの少年だったのだろう。そんな特性は、後年、感情表現などはせずに、ユニークなアイデアで読者の意表をつく独自の作風へとつながっていく。
星新一の人生は、二代目として自分の意思とは無関係に決められていた人生を、自分自身のものとして取り戻す過程であると同時に、彼が感じてはきたが、何も言えないできた本音を言えるようになる過程であった。
回避性の傾向を抱えつつも、現実と折り合いをつけ、自分らしい生き方にたどり着いた。そして、自分らしい生き方が、結局その人を一番輝かせることになったのである。
星新一が回避的特徴とともに、自閉症スベクトラムの傾向を示していることに気づく人も多いだろう。その一方で、母親にろくに甘えることも知らず、隔離されるように育ったことは、回避型愛着の形成に少なからずかかわったと思われる。
新一の交友スタイルの特徴は、それなりに交友をもち、友達も少なからずいて、表面的には楽しむことができる一方で、親友に対してさえ本音を吐露するということがなかったという点であり、友達付き合い自体に関心が薄く、私生活では自分から人と交わろうとしないことが多い典型的な自閉症スペクトラムの特徴とは、違いを見せている。また、自閉症スペクトラムの人では、決まり事や指示に忠実で、何事も生真面目にやりこなそうとし手抜きができない人が多いのだが、新一は違った一面を見せている。彼は軍事教練や勤労奉仕も手を抜くことをはばからなかったし、大学の実験も、ちょっとトイレに行ってくると言ったまま、どこかに遊びにふけてしまうようなことも多かったという。面倒くさいことは怠けてしまうといった点は、自閉症スベクトラムというよりも、回避性の傾向を示すものだと言えるだろう。
「ショートショート」と呼ばれる超短編で独自の世界を生みだした作家の星新一(本名は親一)も、多分に回避性の強いパーソナリティの持ち主だったようだ。以下、最相葉月氏による評伝『星新一一〇〇一話をつくった人』をもとに、その生い立ちを振り返ろう。
彼は作家として名を遺したが、その生い立ちからすると、彼は二代目社長になるべくして生まれた存在で、実際、彼は若くして一部上場企業の社長を務めたこともあった。彼の父星一は、立志伝中の人物とも言うべき星製薬の創業者である。星製薬などといっても、ピンと来る人は少ないかもしれないが、戦前の日本では、星製薬は、武田薬品、田辺製薬などと並ぶ三大製薬会社の一角を占め、ことに星チェーンと呼ばれる小売りチェーンを展開したことから、全国津々浦々までその名が知られていた。
その知名度を生かし、星一は、実業家としてだけでなく、政治家としても活躍した。戦争中は、大政翼賛会という組織の推薦がなければ、当選は難しかったが、政府からも睨まれていた星一は、大政翼賛会の推薦から漏れたにもかかわらず、当選を果たした。終戦後は、参議院全国区の選挙に出て、トップ当選したほどだ。
人間的にもパワフルで、さまざまな窮地を生き延びていた。あるときは、満州から飛行機で帰国する途中、飛行機が鳥取県の沖合で墜落。一緒に搭乗していた軍人が何人も溺れて命を落とす中、星一は、飛行機から脱出、海を泳いでいるところを、漁船に救助されて九死に一生を得ている。そんな彼を支えていたのは、底抜けの楽天性で、彼の口癖は、「死なないことにきめている」(「おやじ」『きまぐれ星のメモ』所収)というものだった。星新一は、そんな偉大な父をもったのである。生まれたとき、父親は五十二歳。母親は三十歳だった。星一は初婚で、母親は森鴎外の縁戚に当たる人で、再婚だった。
両親の結婚の少し前から、星製薬は、政敵側の画策もあって、厳しい状況に置かれていた。星一自身、ある事件に巻き込まれて起訴され、経営は火の車となり、結局、新一が幼い頃に倒産してしまう。しかし、それで諦めないのが星一という人物で、自身の無罪が確定すると、会社の再建に奔走し、太平洋戦争が始まるころまでには、かなりもち直すことになる。
それゆえ、一家にとって、星製薬の再興は悲願であり、長男の新一は、そのプレッシャーをまともに受けて育つこととなった。その状況をさらに過酷なものにしたのは、祖父母が幼い新一を溺愛し、さらに下に弟、妹が立て続けに生まれたことから、「母親のぬくもりを知らない」(『星新一』)で育ったことだった。新一は、両親に甘えることを知らない少年だったのである。そんな寂しさを紛らわせてくれたのが、いつも抱いて眠っていた熊の縫いぐるみだったという。
多くの人に慕われ、人望の厚かった星一だが、身近な人を愛することにかけてはあまり上手でなかった。アメリカ仕込みの合理主義者で、情緒的な面には疎いところがあった。教育方針も、いささか極端で、星一は、子どもたちの成績が上がると、ご褒美にお金を与えていたという。当時は、子どもにお金をもたせること自体、抵抗がある時代だった。
幼い頃、新一は近所の子と遊ぶことも許されず、弟妹とさえかかわることは稀で、孤独に隔離された幼年時代を過ごした。そのためか、新一は自分の気持ちをほとんど表現しない子どもに育った。後の作家も、作文の成績はあまりよくなかった。というのも、彼は気持ちや感想を書くのが苦手だったためだ。
だが、新一は彼一流の手段で、他の子どもたちと交わる方法を身に付けていく。笑わせたり、驚かせたりすることで、人気や注目を浴びたのだ。小学校の頃の新一は、ひょうきんで、頭の回転が速く、周囲を笑わすのが得意な少年だった。教室で突拍子もないことを言って、周囲の注目をさらった。
他の子どもに自然にかかわれない子どもは、しばしばひょうきんで面白い存在を演じたり、突飛な行動をしたりすることで、周囲に受け入れられようとする。小学校時代の新一もそんなタイプの少年だったのだろう。そんな特性は、後年、感情表現などはせずに、ユニークなアイデアで読者の意表をつく独自の作風へとつながっていく。
星新一の人生は、二代目として自分の意思とは無関係に決められていた人生を、自分自身のものとして取り戻す過程であると同時に、彼が感じてはきたが、何も言えないできた本音を言えるようになる過程であった。
回避性の傾向を抱えつつも、現実と折り合いをつけ、自分らしい生き方にたどり着いた。そして、自分らしい生き方が、結局その人を一番輝かせることになったのである。
星新一が回避的特徴とともに、自閉症スベクトラムの傾向を示していることに気づく人も多いだろう。その一方で、母親にろくに甘えることも知らず、隔離されるように育ったことは、回避型愛着の形成に少なからずかかわったと思われる。
新一の交友スタイルの特徴は、それなりに交友をもち、友達も少なからずいて、表面的には楽しむことができる一方で、親友に対してさえ本音を吐露するということがなかったという点であり、友達付き合い自体に関心が薄く、私生活では自分から人と交わろうとしないことが多い典型的な自閉症スペクトラムの特徴とは、違いを見せている。また、自閉症スペクトラムの人では、決まり事や指示に忠実で、何事も生真面目にやりこなそうとし手抜きができない人が多いのだが、新一は違った一面を見せている。彼は軍事教練や勤労奉仕も手を抜くことをはばからなかったし、大学の実験も、ちょっとトイレに行ってくると言ったまま、どこかに遊びにふけてしまうようなことも多かったという。面倒くさいことは怠けてしまうといった点は、自閉症スベクトラムというよりも、回避性の傾向を示すものだと言えるだろう。
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