『14歳からの資本主義』より 「欲しい」は、どこまで自分の欲望か? 「自分で自分がわからなくなる」時代を生きる
「僕のお父さんは最高じゃない」--ジラールの欲望の三角形
「はじめに」で、「ケインズの美人投票」というお話をしましたね。
それが「経済学」の分野から生まれた大衆消費社会への考察だとすれば、「文化人類学」の分野からも興味深い概念が生まれています。
ルネ・ジラールというフランスの比較文化学者、思想家が提示した、「欲望の三角形」という考え方です。
人の欲望というものは主体的なものではなく、往々にして他者の模倣であり、人が欲しいものを欲してしまうもの、そのとき他者は、同一の対象を欲望するライバルとなってしまう--、この主体と他者と欲望の対象との関係を「三角形」で表現したわけです。
すさまじい情報化が進む現代社会は、無数のトライアングルの増殖があちこちに生まれ、その「模倣された欲望」が資本主義の原動力と言えなくもない気がして、おそろしくなってきます。
技術が格差を拡大する状況について、あるトークセッションに参加したときのことです。その場に参加された方がこんな表現で、現代のSNS社会についての嘆きを口にされました。
「インターネットで、SNS技術が進んで、わかってしまったのは、〝僕のお父さんは最高じゃない″ということなんです」
この話は僕に強い印象を残しました。
インスタグラムなどによってみんな「すばらしい誕生日」の画像を競ってアップしますよね?
そのことによって、子どもたちの目にもさまざまな家庭のさまざまな豪華な誕生日、両親からのすばらしい贈り物などの光景がいやでも目に入ってきてしまい、いつの間にか比較してしまい……。自分の家で祝ってもらったパーティー、贈り物などに幸せを素直に感じられなくなっている子どもが増えているのではないか、という話です。
これは、もちろん、素朴に子どもたちにとってもお父さんにとっても不幸ですが、実は子どもの話と軽く見てよいようなことではなく、大人まで含めて、ネット上でさまざまな情報が拡散していく社会では、そのすべての構成員がこうした感情にさらされ、「欲望の三角形」の中に、引きこまれているように思います。
ジラールが最初に指摘した「欲望の三角形」は、もっと複雑な人間の感情への考察でしたが、先の「僕のお父さん」のように、こうした何気ない日々のSNSなどネット上で目にするものが与える影響は、徐々に深く刷りこまれていくものがあるように思います。
人々の無意識にどう影響を与えていくか、心のあり方にかかわるものでしょう。
そして実際、豊かな社会、大衆的な消費が広がる社会、さらにSNSで欲望が拡散される現代では、ジラールがこの概念を唱えた20世紀後半とは比較にならないほどに、ますますその現象は広がっていると言ってよいのかもしれません。
「欲しい」はどこまで自分の欲望なのか?
これもまた、自分で自分がわからなくなる……。欲望のかたちは、ねじれ、錯綜していくのです。
「不幸な逆転」から目をそむけない
人間の社会は、なぜか、いつも不幸な逆転が生まれがちなのですが、資本主義というしくみ、現在のようにネットを含めた技術で高度化され、複雑化した資本主義というシステムは、いつの間にか、逆転、ねじれ、倒錯がおきてしまうのです。
「自分で自分がわからなくなる」
そんな状況に、誰をも招き寄せるような不思議な力を持っていると言えるでしょう。
またさらに「市場」という場を通して集まる人間たちが作る、集団というものの力学についても考えなければならないでしょう。
みんなもともとは善意を持っていたはずなのに、集団になるとうまくいかなくなってしまう、そんな経験をしたことかありませんか?
「善意」の合計が、「善意」になるとは限らないのです。
人間は集団になると、むしろなぜか逆の方向へ走ってしまうことすら多いのです。集団になったときに、本来目指したものから逆走する人間の性のおそろしさ。そして、残念なことに、現代の資本主義こそ、さまざまな逆転現象を引き起こすことが多いと言ってもよいでしょう。
目的と手段が逆転するような事態がよく生まれます。
インターネットなどで情報が拡散し、増幅していく中で、みんながよかれと思って一方向に走ることが、逆に皮肉な事態を招きかねない時代でもあります。これは簡単に解決法を提示することはできませんが、この感覚を、多くのみなさんと共有したいと思います。
「シェアリングエコノミー」という考え方があります
分け合う、共有するという意味で「シェア」という言葉が市民権を得たのは、2000年以降のことかもしれません。低迷する景気、伸び悩む成長という停滞感の中、若者を中心に急速に広がっていきました。
その概念は、先にもお話ししましたが、一軒家などを友人たちとともに借りて暮らすシェアハウス、そして部屋を貸し借りするAirbnb、アプリで車の空き状況を共有し効率的な配車システムを目指すUberなどへと展開しました。
SNSを用いることで、市場経済が基本とする「個人の所有」とは異なる「共有」によるサービスの可能性を生んだのです。
物質的な豊かさの中で育った若者たちは、みなさんのことですが、あまり強い物欲を持たない、と言われます。
所有ではなく共有を、そしてその行為にも経済的な価値を見出だそう、というわけ「シェアリングエコノミー」分ける経済の功罪なのです。
スリムに、スマートに--。いいことずくめのようにひとまずは思えますし、実際、既存の資本主義でカバーしきれない部分を補完するアイデアとしての意義はあります。
しかし、ここでも、気をつけたいことがあります。
「この人はいい人だから安くてもいい」
「あの人は気に入らないから売りたくない」
シェア、分けるという行為につきまとう人間関係の中で、いつの間にか、ある種の感情を売り買いするようなことになっていたとしたら、そこは注意しなければなりません。
市場とは、金銭の取り引きにしか縛られない場所です。人間関係、感情などが強く支配する共同体などのあり方とは、正反対の場所であることも、実はその魅力のはずだからです。
実際、海外旅行などで、見知らぬ土地へと旅したときに多くの人々は、まずは市場を訪れます。そこでは、誰もが、排除されることなくプレーヤーとなれるのです。お金さえあれば……。
それもまた、市場の長所、ひとつの自由のかたちなのです。市場の論理に共同体の論理が入りこむことのプラスとマイナスを、私たちは見極めなくてはなりません。
市場というものの意味は、誰に対しても同じ100円、100ドル、100ユーロを出しさえすれば、誰もが同じものを買える--。
そうしたある意味ドライさこそが、すばらしさ、なのではないでしょうか?
市場で取り引きされているものはお金ではなく信用だ、人間関係だ、という言い方は、うまくいっているときは美しい話に聞こえますが、ひとたび関係が壊れたとき、自らの首をしめることにもなりかねません。
原点に返って、もう一度、「市場」とはそもそも何だったのか?
考えるべきときが、きているのかもしれません。
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