未唯への手紙
未唯への手紙
コミュニティパワーの重要性
『自然エネルギーQ&A』より
自然エネルギーは唯一の持続可能なエネルギーであるとはいえ、ここまで述べてきたように、環境影響や社会的な影響がまったくないわけではありません。社会全体としては利益の方が大きく上回ることは明らかですが、それぞれの地域での近隣住民や地域社会にとっては、それだけで認められるとは限りません。
自然エネルギーの利用に伴う局所的な影響には誤解が含まれている場合もありますし、十分な事前調査に基づく対策を講じることで相当程度回避できるものもあります。風力による鳥類への影響は、生息状況を把握した上で立地を工夫し、場合によっては運転時間帯などを調整するといった対策で、大きく緩和することが可能です。事業者にとっては負担になりますが、騒音対策として近隣住民との話し合いの結果、夜間の運転を控えている場合もあります。小水力による河川生態系への影響なども、何を避けるべきであるかが明確になれば、事後的な調査に基づいて対策をとることも可能です。自然エネルギーの利用に伴うリスクのほとんどは運転を停止した瞬間にゼロになり、その意味で、「取り返しがつく」エネルギーなのです。
もう一つ重要なのは、自然エネルギーが誰のためになるのかという視点です。導入が進んでいるデンマークやドイツでは、立地地域での利益が大きくなるようにした上で、実際に導入するかどうかの判断はそれぞれの地域に委ねています。リスクを少なくすることだけではなく、それに対する地域社会への(経済的・社会的な)利益を増大させ、しかも意思決定への参加と主体的な判断を委ねることによって、当事者の納得が得られるような問題解決を目指しています。
これらの国で取り組まれている一つの方法は、地域住民による所有を促す方策(コミュニティパワー)です。デンマークのように法的に地元住民の所有比率を義務づけている国もあれば、ドイツのように地元所有の事業が税制上有利になるような措置をとっている国もあります。
日本における自然エネルギー事業の大半は地域外の企業によるもので、地域社会における利益は限定的です。そのような状況を前提として、利益を享受できない地域の人々がリスクゼロを求めるという構造があります。これに対して地域住民が主体となる場合には、責任も大きくなりますが、地域に配分される利益の割合も大きくなります。また業務発注といった経営の根幹に関わる部分で主体的に意思決定することが可能になります。
地域所有の仕組みは、二つめの方法であるゾーニング(地域区分)と関連づけられています。森林や農地といった土地利用項目に並ぶものとして自然エネルギー優先地域という項目があり、デンマークのように国の導入目標と連動する形で自治体ごとの面積が割り当てられている国もあります。このような政策的枠組みの中で、各地域は主体的に導入の可否や程度を決められるようになっています。その結果として、過半数を大きく超える事業が各地域の住民が主導する形で導入されています。世界風力エネルギー協会は、こうした地域住民による所有、意思決定、利益配分の三つを「コミュニティパワー三原則」として定義しています。
自然エネルギーが唯一の持続可能なエネルギーであるという前提を共有した上で、自然エネルギーが地域に与えるさまざまな影響やリスクも無視せずに、「コミュニティパワー三原則」に基づく地域主導の自然エネルギー普及を進めることが必要と思われます。
日本全体を見渡すと、半世紀前に高度成長を担った大量生産型の産業群はことごとく衰退し、いまや見るも無残な状況となっています。同じように、半世紀前に福島第一原発を誘致した福島県双葉町は、町長の給与が支払えないほどに衰退していました。そこに3・11原発事故が襲い、町自体が存亡の危機に襲われたことは、皮肉な現実といえるでしょう。
原発に代表される「外からの巨大開発」に依存すると、立派な市庁舎やコンサートホールなどが建設され、一時期は表面的に栄えるように見えますが、その内実はまったく逆に衰退してゆきます。地域経済は「外の資本による開発」に頼るだけの依存体質となり、地域の産業構造も土建業や発電所のサービス業など一部の業種に限定された「モノカルチャー」へとシフトしてゆきます。そうした地域からは、自ら地域起こしに立ち上がるような自主自立の精神を持った創造性豊かな人々は、急速に失われてしまいます。それがいっそうの衰退を招き、さらなる開発とモノカルチャー化へと悪循環を招くのです。
そうした地域社会の現実を見ようともせず、いっそう原発を拡大しようとしていた3・11日の日本は、いわば過去に向かって「逆走」しようとしていたといえるでしょう。「豊かさ」に向かって突っ走ってきたはずの果てに「本当の豊かさ」はなく、むしろ衰退と貧しさを、自ら招いていたことに、ようやく気づきはじめたのではないでしょうか。
従来型の産業開発から取り残された地域では、豊かな自然や海、里山が残されています。島根県の隠岐や山口県の祝島のように、全国から多くの若者が訪ね、滞在するようになっている地域もあり、こうした自然資源や人的資源は、新しい地域づくりに欠かせない「宝物」となります。
二一世紀は、一人ひとりが自立し開かれたネットワークで結ばれた知識社会の時代へと、ますます向かっています。エネルギーも社会も、これまでの「産業主義・中央集中型・トップダウン型」から、「知識社会・小規模分散型・ネットワーク型」へと大きな変貌を遂げつつあります。
こうした流れに沿って、脱原発も必然的な流れとして生じているのではないでしょうか。建設にも巨額で長期間の投資を必要とし、いったん事故を起こせば取り返しのつかない破局的なリスクをもたらす原発は、新しい時代のベクトルに真っ向から反します。旧い経済成長観や産業政策に囚われて原発にこだわってきた日本は、歴史的かつグローバルに生じている大きな変化から完全に取り残されてきました。その挙げ句に「激突」したのが、3・11ではなかったでしょうか。
自然エネルギーの急速な普及拡大とともに、「知識社会・小規模分散型・ネットワーク型」という新しいエネルギーパラダイムに向かいつつある世界と歴史の流れのなかで、日本でも、そうした変化を先取りした地域社会こそが、率先して二一世紀の新しい日本社会の方向を創造する先頭に立つと思われます。古今東西、新しい時代への変革は、周縁、すなわち地域から起きたことを思い起こすときでしょう。
自然エネルギーは唯一の持続可能なエネルギーであるとはいえ、ここまで述べてきたように、環境影響や社会的な影響がまったくないわけではありません。社会全体としては利益の方が大きく上回ることは明らかですが、それぞれの地域での近隣住民や地域社会にとっては、それだけで認められるとは限りません。
自然エネルギーの利用に伴う局所的な影響には誤解が含まれている場合もありますし、十分な事前調査に基づく対策を講じることで相当程度回避できるものもあります。風力による鳥類への影響は、生息状況を把握した上で立地を工夫し、場合によっては運転時間帯などを調整するといった対策で、大きく緩和することが可能です。事業者にとっては負担になりますが、騒音対策として近隣住民との話し合いの結果、夜間の運転を控えている場合もあります。小水力による河川生態系への影響なども、何を避けるべきであるかが明確になれば、事後的な調査に基づいて対策をとることも可能です。自然エネルギーの利用に伴うリスクのほとんどは運転を停止した瞬間にゼロになり、その意味で、「取り返しがつく」エネルギーなのです。
もう一つ重要なのは、自然エネルギーが誰のためになるのかという視点です。導入が進んでいるデンマークやドイツでは、立地地域での利益が大きくなるようにした上で、実際に導入するかどうかの判断はそれぞれの地域に委ねています。リスクを少なくすることだけではなく、それに対する地域社会への(経済的・社会的な)利益を増大させ、しかも意思決定への参加と主体的な判断を委ねることによって、当事者の納得が得られるような問題解決を目指しています。
これらの国で取り組まれている一つの方法は、地域住民による所有を促す方策(コミュニティパワー)です。デンマークのように法的に地元住民の所有比率を義務づけている国もあれば、ドイツのように地元所有の事業が税制上有利になるような措置をとっている国もあります。
日本における自然エネルギー事業の大半は地域外の企業によるもので、地域社会における利益は限定的です。そのような状況を前提として、利益を享受できない地域の人々がリスクゼロを求めるという構造があります。これに対して地域住民が主体となる場合には、責任も大きくなりますが、地域に配分される利益の割合も大きくなります。また業務発注といった経営の根幹に関わる部分で主体的に意思決定することが可能になります。
地域所有の仕組みは、二つめの方法であるゾーニング(地域区分)と関連づけられています。森林や農地といった土地利用項目に並ぶものとして自然エネルギー優先地域という項目があり、デンマークのように国の導入目標と連動する形で自治体ごとの面積が割り当てられている国もあります。このような政策的枠組みの中で、各地域は主体的に導入の可否や程度を決められるようになっています。その結果として、過半数を大きく超える事業が各地域の住民が主導する形で導入されています。世界風力エネルギー協会は、こうした地域住民による所有、意思決定、利益配分の三つを「コミュニティパワー三原則」として定義しています。
自然エネルギーが唯一の持続可能なエネルギーであるという前提を共有した上で、自然エネルギーが地域に与えるさまざまな影響やリスクも無視せずに、「コミュニティパワー三原則」に基づく地域主導の自然エネルギー普及を進めることが必要と思われます。
日本全体を見渡すと、半世紀前に高度成長を担った大量生産型の産業群はことごとく衰退し、いまや見るも無残な状況となっています。同じように、半世紀前に福島第一原発を誘致した福島県双葉町は、町長の給与が支払えないほどに衰退していました。そこに3・11原発事故が襲い、町自体が存亡の危機に襲われたことは、皮肉な現実といえるでしょう。
原発に代表される「外からの巨大開発」に依存すると、立派な市庁舎やコンサートホールなどが建設され、一時期は表面的に栄えるように見えますが、その内実はまったく逆に衰退してゆきます。地域経済は「外の資本による開発」に頼るだけの依存体質となり、地域の産業構造も土建業や発電所のサービス業など一部の業種に限定された「モノカルチャー」へとシフトしてゆきます。そうした地域からは、自ら地域起こしに立ち上がるような自主自立の精神を持った創造性豊かな人々は、急速に失われてしまいます。それがいっそうの衰退を招き、さらなる開発とモノカルチャー化へと悪循環を招くのです。
そうした地域社会の現実を見ようともせず、いっそう原発を拡大しようとしていた3・11日の日本は、いわば過去に向かって「逆走」しようとしていたといえるでしょう。「豊かさ」に向かって突っ走ってきたはずの果てに「本当の豊かさ」はなく、むしろ衰退と貧しさを、自ら招いていたことに、ようやく気づきはじめたのではないでしょうか。
従来型の産業開発から取り残された地域では、豊かな自然や海、里山が残されています。島根県の隠岐や山口県の祝島のように、全国から多くの若者が訪ね、滞在するようになっている地域もあり、こうした自然資源や人的資源は、新しい地域づくりに欠かせない「宝物」となります。
二一世紀は、一人ひとりが自立し開かれたネットワークで結ばれた知識社会の時代へと、ますます向かっています。エネルギーも社会も、これまでの「産業主義・中央集中型・トップダウン型」から、「知識社会・小規模分散型・ネットワーク型」へと大きな変貌を遂げつつあります。
こうした流れに沿って、脱原発も必然的な流れとして生じているのではないでしょうか。建設にも巨額で長期間の投資を必要とし、いったん事故を起こせば取り返しのつかない破局的なリスクをもたらす原発は、新しい時代のベクトルに真っ向から反します。旧い経済成長観や産業政策に囚われて原発にこだわってきた日本は、歴史的かつグローバルに生じている大きな変化から完全に取り残されてきました。その挙げ句に「激突」したのが、3・11ではなかったでしょうか。
自然エネルギーの急速な普及拡大とともに、「知識社会・小規模分散型・ネットワーク型」という新しいエネルギーパラダイムに向かいつつある世界と歴史の流れのなかで、日本でも、そうした変化を先取りした地域社会こそが、率先して二一世紀の新しい日本社会の方向を創造する先頭に立つと思われます。古今東西、新しい時代への変革は、周縁、すなわち地域から起きたことを思い起こすときでしょう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« クラウドイノ... | 個人が組織に... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |