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未来方程式は「論考」表現する

未唯空間の表現

 それぞれのところでどう表現して、全体をどう見せていくのか。そのフェーズにはまり込んでいます。そうなると、未唯空間の小分類の再編成を完成させて、そのエッセンスを取り出して、因果関係を作り出していく。

 紙で3次元にしたけど、もう一つ次元を増やさないといけない。コンピュータの能力を超えています。実体が何次元か分からないけど、それを2次元に遮断しておいて、それを組み立てる。3次元プリンターではなくて、n次元プリンターがほしいぐらいです。

 これ自体は、底が抜けた、現在の心境でないと作れないでしょう。誰がそれを理解できるか分からないけど。

 未来方程式自体を全体のロジックに合わせて、もっと、的確にしないといけない。存在の力との関係、それが環境哲学につながり、最終的には情報共有につながる。そこまでのプロセスのキーワードです。そのために、未唯空間の全ジャンルを一つのターゲットにしていかないといけない。

国家と民族と宗教

 国と言う時に、民族と宗教がどうなっていくのか。

 スーダンはナイル川防衛のために作られた国で、宗教も違えば、民族も異なる。それが南スーダン問題を起こした。具体的なイメージと抽象的イメージをどこでやっていくのか。調和ができるのか。

 ウクライナにしてもアラブにしても、抽象的な動きと具体的な動き、偶然による動き、揺らぎ的なモノと真理のような普遍性を持つもの、そのなかで、個人と集団的なモノとが、要素が異なりながら、全体が一つのカタチになる。これこそ、分化と統合の世界になります。それをどう表現するのか。

言葉という表現

 存在と無が表現できないように、これもやはり、表現できないのか。だけど、言葉にできないものはないのと同じという、ウィットゲンシュタインの概念もあります。

 だけど、言葉には大きな制約があります。自分の存在自体も言葉にできない以上、言葉に対しての不信感。かといって、イメージできるのか。

 だけど、言葉は状態ではない。ファンクションにすぎない。それを受けて、それぞれの心の中で違うイメージを持って、それで動くかどうか決まってくる。本当は状態全てを説明できるといいけど、それはムリです。

大いなる意思

 よく、こんなものを神か大いなる意思がどうか分からないけど、作ったものです。この大きな宇宙という存在も含めて。本当にワザとらしいと言ったら、ありゃしない。結局、何をせよと言っているのか。それを求めるだけで右往左往しているのにすぎない。そして、全てがタイムリミット。

 池田晶子さんではないけど、死ぬことも含めて。そんなことは問題にする必要はないという概念が一番簡単で分かりやすい。

未来方程式は「論考」表現

 ウィットゲンシュタインの論考形式で未来方程式を書き上げる。それぞれの項目、大分類で関係を述べて、最後の6章ぐらいで、方程式を出す。これはいいアイデアです。それで全体だと言える。

 次元にとらわれずに、深さもバラバラで、それぞれのジャンルごとに論理を展開する。とりあえず、未来に関係することで、第10章まで抜き出して、エッセンスを取り出すのか、全てを直感的にやるのかをまだ、決めていません。

未来方程式での情報共有

 第10章が微妙になってきました。社会の様相よりも人の関係が強くなっています。未来方程式の割る部分、つまり、情報共有のところです。論考だと、6番目にでてくるやつで、それで割るということです。

環境哲学にする

 むしろ、歴史哲学を答えにしておいたらいい、それですべて答えを出すわけにはいかないので、最終的に自分に反映する場合もそこから来ます。なにしろ、最後は存在の無ですから。これは完全に哲学です。

 出発点はより多くの人が生きられることというものです。環境社会の時もこの点でした。方法論として、コンパクトがあるけど、人間として、どうしていくのか、人類としてどうしていくのか。ベースのところを実り豊かにしないといけない。この部分は完全に哲学にできます。

 歴史哲学として、ヘーゲルの後を継ぐものです。
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