『世界史を動かした思想家たちの格闘』より 暴走する「世界最初の民主主義」
きちんとした教育を受けられなかったソクラテスにとって、アテネの広場が学校でした。そこで市民たちとの対話を繰り返し、相手の矛盾を突き、それまでの常識に疑念を生じさせる。この対話法によって多くのアテネ市民を敵に回すと同時に、若者たちの間に熱狂的な支持者を獲得していったようです。
けれども、時まさに衆愚政治の時代。ソクラテスはスパルタとの戦争を煽り立てるデマゴーグ達を疑い、例の海軍の司令官たちが処刑された裁判でも反対票を投じました。これはアテネの民会における多数派(民主派)の憎悪を掻き立てるのに十分でした。
弟子の1人のクリディアスは、衆愚政権と対立して国外へ逃亡し、スパルタ軍のアテネ占領を機に帰国したあとは、スパルタ占領軍と協力して「三十人僣主」と呼ばれる親スパルタ派の寡頭政権を樹立し、民主派に対する厳しい弾圧を行いました。
アテネの民衆は三十人僣主を嫌悪し、やがて民主派が蜂起して政権を奪回します。スパルタ王は、「親スパルタ派への報復をしない」という条件で、民主派の復権を容認しました。
しかしこの復活した民主政のもとでソクラテスは告発され、裁判にかけられたのです。ソクラテスは、親スパルタ派の精神的な指導者とみなされていたからです。
しかし「報復をしない」というスパルタ王との約束を守るため、民主派は彼を別の容疑で訴えました。「国家公認の神々を否定し、新しい神霊を導入して、青年たちを堕落させた」と。
この裁判については、弟子のプラトンが詳細な記録を残しています。『ソクラテスの弁明』という本です。この本のおかげで、2400年前の裁判の様子を知ることができます。
ソクラテスはまず、自分にかけられた容疑について、一つ一つこれを否定しました。
次に、自分は神々から使命を与えられていること、それはアテネ市民を目覚めさせ、正しい道へ進ませることであること、たとえていうなら動きの鈍い馬のようなアテネを目覚めさせるため、これを刺すアブのようなものであること、自分は祖国アテネのために戦った愛国者であること、どんな判決が下っても、自分は死を恐れて信念を曲げるようなことはしないこと、などを沿々と述べたのです。評決が下りました。500票中、361票の賛成で死刑が確定。
ソクラテスは弟子のプラトンらが勧める脱走をも拒否し、「悪法も法なり」と判決を受け入れ、毒ニンジンの汁を飲んで死にました。
諸君、死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。それは死より疾く駆けるのだから。(中略)かくて今、私は諸君から死罪を宣告されて、しかし彼らは真理から賤劣と不正との罪を宣告されて、ここを退場する。私はこの判決に従おう、が彼らもまたそうせねばならぬ。恐らくそれはこうなるより外なかったのであろう。そうして私はこれで結構なのだと思う。 (『ソクラテスの弁明』)
師ソクラテスの最期に衝撃を受けたプラトンは、アテネ民主政治に絶望し、諸国を放浪したあとアテネ城外の「アカデモスの森」に私塾を開きました。これがアカデメイアです。英語のアカデミ(学会)、アカデミック(学問的な)の語源です。
実はソクラテスは著作を残さなかったのです。ソクラテスの思想はすべて、弟子のプラトンの多くの著書を通してのみ知ることができます。また、プラトンは自らの思想をソクラテスと弟子たちと対話という形式(対話篇)で語りました。
プラトンはこの醜い現実の世界を、神々がつくった理想世界(イデア界)が地上に投影された不完全な影と見なします。
かつてイデア界に住んでいた人間の魂は、いまは地上に縛り付けられている。しかし人間は理性を働かせてイデアを直観し、何か真理かを見極めることができる。この理性に従って生きる人間こそソクラテスのような哲学者(哲人)であり、感情に支配されて生きる民衆は、哲人の指導を受けるべきだ、とプラトンは考えました。
理性は人間のアタマに宿り、カラダは感情のままに動く。アタマがカラダを統御するから人間なのであって、カラダがすべてを支配するのでは動物と同じです。同様に、哲人が民衆を統御するのが理想国家であって、民衆が統御する国家は迷走する。これがアテネ民主政である、と説いたわけです。「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち政治的権力と哲学的精神とが一体化され(中略)ないかぎり、(中略)国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」 (プラトン『国家』)
その通りです。プラトンは、ソクラテス裁判という苦い経験から民主政治に絶望し、哲人王による独裁を夢見たわけです。彼はこの「哲人国家」を実現すべく、シチリア島の有カポリスだったシラクサに招かれ、若き僣主ディオニュシオス2世を理想の君主にしようと期待します。しかしディオニュシオスは凡庸な人物で、自分の権威を高めるためにギリシアの学者を宮廷に置きたかっただけでした。プラトンは失望してシラクサを去ります。「哲人政治」は実現しなかったのです。
プラトン最後の著作『法律』では、ペルシア君主政の衰退とアテネ民主政の崩壊を比較し、専制と自由の両極を避け、君主政と民主政の混合政体を求める立場に変わっていきます。
理想を求め続けて挫折したプラトンに対し、現実主義者だった弟子アリストテレスは、世界のさまざまな国家体制を比較分類して『政治学』にまとめました。一人の支配・少数の支配・多数の支配という3分類に加え、公益のための支配・私益のための支配という2分類を設定し、以下の6種類の国家体制に分類したのです。
プラトンのもとを離れたアリストテレスは、新興の大国マケドニアの王フィリッポス2世に招かれ、13歳の王子アレクサンドロスの家庭教師として雇われました。やがて父王の暗殺により20歳で即位したアレクサンドロスがペルシア帝国を征服してギリシアとオリエントを統一します。遠征に費やされた彼の人生は32年で終わってしまいましたが、彼がもっと長く生きていたら、理想国家が実現したでしょうか?
プラトンが最晩年に理想とした混合政体をある程度、実現したのがローマでした。王のごとき執政官、貴族会議の元老院、民主政治を実現する平民会がそれぞれを牽制しつつ権力を分散--でもこれって、独裁を認めるって話になりませんか。ローマ共和国の統治形態は、のちに三権分立と呼ばれるものに近かったのです。
しかし都市国家として出発したローマがイタリア半島を統一し、最終的には地中海全域を統合する大帝国に成長していくと、民会に全市民が集まって合議する、というスタイルは通用しなくなっていきます。
きちんとした教育を受けられなかったソクラテスにとって、アテネの広場が学校でした。そこで市民たちとの対話を繰り返し、相手の矛盾を突き、それまでの常識に疑念を生じさせる。この対話法によって多くのアテネ市民を敵に回すと同時に、若者たちの間に熱狂的な支持者を獲得していったようです。
けれども、時まさに衆愚政治の時代。ソクラテスはスパルタとの戦争を煽り立てるデマゴーグ達を疑い、例の海軍の司令官たちが処刑された裁判でも反対票を投じました。これはアテネの民会における多数派(民主派)の憎悪を掻き立てるのに十分でした。
弟子の1人のクリディアスは、衆愚政権と対立して国外へ逃亡し、スパルタ軍のアテネ占領を機に帰国したあとは、スパルタ占領軍と協力して「三十人僣主」と呼ばれる親スパルタ派の寡頭政権を樹立し、民主派に対する厳しい弾圧を行いました。
アテネの民衆は三十人僣主を嫌悪し、やがて民主派が蜂起して政権を奪回します。スパルタ王は、「親スパルタ派への報復をしない」という条件で、民主派の復権を容認しました。
しかしこの復活した民主政のもとでソクラテスは告発され、裁判にかけられたのです。ソクラテスは、親スパルタ派の精神的な指導者とみなされていたからです。
しかし「報復をしない」というスパルタ王との約束を守るため、民主派は彼を別の容疑で訴えました。「国家公認の神々を否定し、新しい神霊を導入して、青年たちを堕落させた」と。
この裁判については、弟子のプラトンが詳細な記録を残しています。『ソクラテスの弁明』という本です。この本のおかげで、2400年前の裁判の様子を知ることができます。
ソクラテスはまず、自分にかけられた容疑について、一つ一つこれを否定しました。
次に、自分は神々から使命を与えられていること、それはアテネ市民を目覚めさせ、正しい道へ進ませることであること、たとえていうなら動きの鈍い馬のようなアテネを目覚めさせるため、これを刺すアブのようなものであること、自分は祖国アテネのために戦った愛国者であること、どんな判決が下っても、自分は死を恐れて信念を曲げるようなことはしないこと、などを沿々と述べたのです。評決が下りました。500票中、361票の賛成で死刑が確定。
ソクラテスは弟子のプラトンらが勧める脱走をも拒否し、「悪法も法なり」と判決を受け入れ、毒ニンジンの汁を飲んで死にました。
諸君、死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。それは死より疾く駆けるのだから。(中略)かくて今、私は諸君から死罪を宣告されて、しかし彼らは真理から賤劣と不正との罪を宣告されて、ここを退場する。私はこの判決に従おう、が彼らもまたそうせねばならぬ。恐らくそれはこうなるより外なかったのであろう。そうして私はこれで結構なのだと思う。 (『ソクラテスの弁明』)
師ソクラテスの最期に衝撃を受けたプラトンは、アテネ民主政治に絶望し、諸国を放浪したあとアテネ城外の「アカデモスの森」に私塾を開きました。これがアカデメイアです。英語のアカデミ(学会)、アカデミック(学問的な)の語源です。
実はソクラテスは著作を残さなかったのです。ソクラテスの思想はすべて、弟子のプラトンの多くの著書を通してのみ知ることができます。また、プラトンは自らの思想をソクラテスと弟子たちと対話という形式(対話篇)で語りました。
プラトンはこの醜い現実の世界を、神々がつくった理想世界(イデア界)が地上に投影された不完全な影と見なします。
かつてイデア界に住んでいた人間の魂は、いまは地上に縛り付けられている。しかし人間は理性を働かせてイデアを直観し、何か真理かを見極めることができる。この理性に従って生きる人間こそソクラテスのような哲学者(哲人)であり、感情に支配されて生きる民衆は、哲人の指導を受けるべきだ、とプラトンは考えました。
理性は人間のアタマに宿り、カラダは感情のままに動く。アタマがカラダを統御するから人間なのであって、カラダがすべてを支配するのでは動物と同じです。同様に、哲人が民衆を統御するのが理想国家であって、民衆が統御する国家は迷走する。これがアテネ民主政である、と説いたわけです。「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち政治的権力と哲学的精神とが一体化され(中略)ないかぎり、(中略)国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」 (プラトン『国家』)
その通りです。プラトンは、ソクラテス裁判という苦い経験から民主政治に絶望し、哲人王による独裁を夢見たわけです。彼はこの「哲人国家」を実現すべく、シチリア島の有カポリスだったシラクサに招かれ、若き僣主ディオニュシオス2世を理想の君主にしようと期待します。しかしディオニュシオスは凡庸な人物で、自分の権威を高めるためにギリシアの学者を宮廷に置きたかっただけでした。プラトンは失望してシラクサを去ります。「哲人政治」は実現しなかったのです。
プラトン最後の著作『法律』では、ペルシア君主政の衰退とアテネ民主政の崩壊を比較し、専制と自由の両極を避け、君主政と民主政の混合政体を求める立場に変わっていきます。
理想を求め続けて挫折したプラトンに対し、現実主義者だった弟子アリストテレスは、世界のさまざまな国家体制を比較分類して『政治学』にまとめました。一人の支配・少数の支配・多数の支配という3分類に加え、公益のための支配・私益のための支配という2分類を設定し、以下の6種類の国家体制に分類したのです。
プラトンのもとを離れたアリストテレスは、新興の大国マケドニアの王フィリッポス2世に招かれ、13歳の王子アレクサンドロスの家庭教師として雇われました。やがて父王の暗殺により20歳で即位したアレクサンドロスがペルシア帝国を征服してギリシアとオリエントを統一します。遠征に費やされた彼の人生は32年で終わってしまいましたが、彼がもっと長く生きていたら、理想国家が実現したでしょうか?
プラトンが最晩年に理想とした混合政体をある程度、実現したのがローマでした。王のごとき執政官、貴族会議の元老院、民主政治を実現する平民会がそれぞれを牽制しつつ権力を分散--でもこれって、独裁を認めるって話になりませんか。ローマ共和国の統治形態は、のちに三権分立と呼ばれるものに近かったのです。
しかし都市国家として出発したローマがイタリア半島を統一し、最終的には地中海全域を統合する大帝国に成長していくと、民会に全市民が集まって合議する、というスタイルは通用しなくなっていきます。
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