goo blog サービス終了のお知らせ 

未唯への手紙

未唯への手紙

ドイツにおけるケルン・ボン大都市圏

2018年11月16日 | 4.歴史
『北西ヨーロッパの空間構造』より ケルン・ボン大都市圏郊外部の空間構造

 ドイツにおけるケルン・ボン大都市圏

  大都市ケルンのドイツにおける位置、すなわちドイツの都市システムの中の中心都市ケルン(2015年現在人口106万)は、図5-1の模式的な階層構造図上では、ベルリン(2015年人口352万)、ミュンヘン(2015年人口145万)、ハンブルク(2015年人口186万)、フランクフルト(2015年人口73万)に次ぐドイツ第5位の位置を占めている。なお、この図では都市規模が人口そのものではなく第三次産業で比較しており、縦軸は第三次産業従事者数である。ケルンはフランクフルトより順位が低いとされているが、これは第3次産業人口の規模で中心性を求めたからで、ケルンは大都市の割には工業人口が大きいためであろう。

  これらケルンより上位に位置づけられた4大都市は21万から23万の第三次産業就業者をもち、これらに続いてケルンがあり、比べうる同等クラス11万から17万の都市としては他に、デュッセルドルフ(2015年現在人口61万)、シュトゥットガルト(2015年現在人口62万)、ライプツィッヒ(2015年現在人口56万)、ドレスデン(2015年現在人口54万)が続くように示されている。

  それら諸大都市より少々小さめの地方中心・第三次就業人口6万から9万の都市には、ニュルンベルク、ボン、カールスルーヘ、ブレーメンがあり、さらにそれらに次ぐ地方中心都市は、5万前後の都市で、エッセン、ドルトムント、ミュンスター、マインツ、ヴィースバーデン、キール、ポツダム、マグデブルク、ケムニッツエ、ハレとなるという。そして最低次の地方中心都市には、ケルン周辺でいえば、アーヘン、コブレンツ、卜リアーが入ってくる。

  なお、第二次世界大戦前には、ベルリンはロンドン、パリにも対比しうる世界都市、メトロポリスであったが、国も、この首都ベルリン自身も西に分割され、西ベルリンは後背地を失ったため、地位を大きく後退させた。その代わりに、各地方の中心都市はバランスよく成長し、いねば多極分散型国土が形成されるに至った。この間ケルンは順調にドイツの大都市としての地位を保ってきた。なお、旧西ドイツの諸都市が順調に成長しているのに対し、旧東ドイツ地域の諸都市の成長が抑制されている様子が見てとれよう。

  ケルンはそれ自体も大都市であるし、より大きな4大都市と比べても、大都市圏の連合としてのライン・ルール大都市圏の最大都市であり、ほぼ同等の都市格のデュッセルドルフもすぐ近接して立地していることからもドイツでは重要な大都市圏の中心の一つであることは明らかである。また、その大都市圏では、デュッセルドルフがルールの主都市であるのに対し、ケルン・ボン大都市圏の中心がケルンとなっているともいえる。

 ケルン・ボン地域

  ケルン・ボン大都市圏は、一般的には、広くはライン・ルール大都市圏・人口約1000万の一部と言われる。ライン・ルール大都市圏は、ドイツの国土計画上の地域であるが、行政的にはノルドライン・ウェストファーレン州の中心都市地域を指し、その影響圏はノルドライン・ウェストファーレン州全体がそれに近いであろう。ただ、ここには、アーヘンとその周辺地域は入ってはいない。

  このライン・ルール大都市圏を三分し、ルール大都市圏(ドルトムント、エッセン、デュイスブルク、ボッフム、ゲルゼンキルヒェン、オーバーハウゼン:人口517万)、デュッセルドルフ大都市圏(デュッセルドルフ、ノイス、メンヒェングラードバッハ、ヴッパータール:人口290万)、ケルン・ボン大都市圏(ケルン、ボン、レーバークーゼン:280万)と考える見方もある。当然、この三つの大都市圏は明確に区別されるわけでもないが、この考え方だと、ケルン・ボン地域は独立した形になる。この分類・区分のケルン・ボン大都市圏は、ケルン県なしは行政管区に近いが、この県にはアーヘンが入ってくるが、先のケルン・ボン大都市圏:二はアーヘンは入らない。

  行政区分上では、ケルン・ボン大都市圏はノルッラクン・ウェストファーレン州のケルン行政管区に相当し、その人口は442万となる。ここにはアーヘンが入っている。

  筆者は、このケルン・ボン大都市圏の中、ボン市で合計3年生活し、その周辺地域を見ることができた。必ずしも研究的姿勢でこの地域を調べたわけではないが、ここで生活し、見聞できたこと、感じたことをもとに、文献を引き、入手可能なデータを付し、GooglemapやOpentopomaを利用し、各市町のホームページなどで近年の様子を確認しながら、都市を含めた北西ヨーロッパの構造を考える手がかり・事例として考えてみたい。すなわち、この地域の事例から、集落以上の中心地・都市とその周辺の構造とそれら地域の階層性を考えてみたい。

  なお、このケルン・ボン地域は農業地域としては、とくに平地地域、ケルンナー・ブフト(ユルリッヒアー・ベールデを含む)は気候条件もよく、レス土壌が覆う地力にも恵まれた自然環境のよい農業地域であり、比較的経営規模にも恵まれた資本主義的な農家が比較的早くに育ってきた地域である。加えて、貴族農場などに系譜をもつ大規模農家も併存した地域でもある。これら地域は伝統的には祷耕作物の割合の高い、畑作と家畜飼養を行う商業的な混合農業地域であった。ただ、複雑なことには、ケルンとボンの中間、フィレ丘陵斜面とライン河谷斜面には、ブドウ栽培の伝統をもつ村々もあり、そこでは産業革命期から疏菜栽培や果樹生産、苗木生産などのに重点を置いた園芸農業も発展した。そこでは、比較的経営規模の小さい農家が存在し続けてもいる。レームの資料から見ると、1960年時点ではケルン市近傍の経営規模は50ha層が中心であり、その郊外になると20~50ha層が中心を占めつつ園芸農業の5ha以下層も混じる地域に相当していた。なお、ライン右岸のベルギシェス・ランドと左岸の南側のアイフェルは、中位山地の典型であり、降水量も多くなり、地力も乏しい草地農業地域か森林となる。

  なお、ケルン西部の地域では、とくにフィレ丘陵地域を中心に褐炭の露天掘りが行われ、それに隣接して大きな火力発電所が設けられ、ドイツの重要なエネルギー基地となっている。そのために、エッツヴァイラーのハンバッハ採掘場、ゲラツヴァイラーの大規模採掘場は最長幅10km、長さ10kmに及ぶような広がりを、およそ300mもの長さの自動採掘機を利用して採掘している。こうした採掘には数か村、集落が丸ごと移転して行われたものもある。こうした採掘跡は人造湖として残されたり、植林地として自然に戻すことなどが行われてきた。自然破壊、環境問題にも繋がりかねない事業ではあったが、こうした大規模事業が可能であったのは、零細農家が少なく、大規模経営の多い結果、関係地主が相対的には少数であったこともあったであろう。それは、ケルン周辺の都市化についても予想されることである。

  集落形態でいうならば、平野部では、高密な不規則の集村が一般的であり、集村とは別に大規模経営でもあった孤立荘宅も所々に併存していた。集村は四側型か三側型の中庭を取り込んだ農家が密集していることが多かった。山地地域には小型の集村か小村が多かった。

  ドイツには、それどころか北フランスから西ドイツにいたる北西ヨーロッパの中心部全体でも、一般にすれば中世起源の都市が多いが、このライン・ルール大都市圏では、また、ケルン・ボン地域では、産業革命期以降に成立した歴史の新しい都市がかなりの数に上る。それらは、中世に起源をもち、産業革命期に発展したケルンなどの大都市の周囲にできた衛星都市であり、その核には田舎町Fleckenや大型の集村があることもあるし、そうした古い農村集落の間に全く新たに成立したニュータウンもある。さらに重要なのは、この地域の集村が核になって、産業革命から1960年代まではゆっくりと、それ以降は急激に郊外住宅地域が拡張してきたことである。この結果、これらかつての農業集落は衰退傾向は示さず、伝統ある田舎町も決して衰退はしていないし、それ相応に機能を続けている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。