『イノベーターズ』より アラン・ケイ--パーソナルでフレンドリーなコンピュータ
作りたいと思っている小型のパーソナルコンピュータに印象的な名前が必要だと感じたケイは、「ダイナブック」と呼びはじめる。オペレーティングシステムとなるソフトウェアには「スモールトーク」という愛称を付けた。ユーザーがおじけづかないようにする一方、筋金入りのエンジニアに過度な期待をかけられないようにすることを狙った命名だ。
「スモールトークなんて当たりさわりのない名前のものですばらしいことが少しでもできたら、意外で楽しいだろうと考えた」
と、ケイは明かしている。ダイナブックは、「学校で無料配布できるように」価格を500ドル以下にしなければならない。しかも、「子どもが、隠れ場所にも持っていけるように」小型の個人用でなければならず、使いやすいプログラミング言語を備えている必要がある。
「単純なものは単純なままにしなければならないし、複雑なものも実現可能でなければならない」
ケイはこう考えていた。
「全年齢対象の子ども用パーソナルコンピュータ」と題して、ケイはダイナブックについての記述を残しているが、これは製品の提案書というより一種のマニフェストである。創造的な仕事にコンピュータを使う可能性についてエイダーラブレスが述べた歴史的な卓見「解析機関は、ジャカード織機が花や草木をつむぎ出すように、代数のパターンを織りあげる」も引用されている。
このマニフェストで、ケイは、さまざまな年齢の子どもがダイナブックを使う様子を説明することで、パーソナルコンピュータは個人的創造の道具であってネットワーク経由で協力するためのターミナルではないという自分の立場を明らかにしている。
「学校の『図書館』など、未来の『知識の設備』を通じて他者と対話する目的に使うこともできる。だが、大部分は、持ち主が自分自身と内省的に対話する個人用メディアとして使われるだろう。いまの紙やノートと同じような使い方だ」
ダイナブックは、大きさはノート以下、重さは2キログラム以下でなければならない、とも書いている。
「いつでもどこでも望みのまま、文章やテキストのファイルを持ち歩いたり編集したりできるようになる。なんなら森で使えるようになる、と付け加えてもいい」
言い換えれば、タイムシェアリング方式のメインフレームにネットワークでつながなければなにもできない低機能のターミナルではないということだ。なお、パーソナルコンピュータとデジタルネットワークがいっしょになる日も彼は思い描いていた。
「この『どこにでも持ち歩ける』デバイスと、ARPAネットワークもしくは双方向ケーブルテレビのようなグローバル情報インフラを組み合わせれば、図書館も学校も、もちろん、商店や掲示板も、家に持ち帰ることができる」--。
これは心を惹かれる未来像だったが、その実現には20年もかかるわけだ。
ダイナブックを現実にしようと、ケイは小さなチームを作り、ロマンチックで意欲的だがばくぜんとしたミッションを掲げた。ケイはこうふり返っている。
「ノートサイズのコンピュータという考えを聞いたときに目を輝かせるタイプだけを集めた。日中も、PARC外で過ごすことが多かったな。テニスをしたり自転車で遠乗りしたり、ビールを飲んだり、中華料理を食べたり。その間もずっとダイナブックのことを話していた。これが完成すれば人間の限界が広がる、足元があやしくて新しい思考方法を切実に必要としている文明にそれをもたらすことができると語り合ったんだ」
実現に向けた第一歩として、ケイは「暫定」モデルを提案した。小ぶりのスーツケースくらいの大きさで、小さなグラフィックディスプレイを備えるものだ。1972年5月には、ゼロックスPARCハードウェア部門の責任者クラスに、30台を製造する案を持ちかけ、説得を試みている。学校に設置し、学生が簡単なプログラミングの課題に取り組めるかどうかを試すためだ。
「個人用のガジェットを、エディターやリーダーとして、持ち帰り用として、またインテリジェントなターミナルとして使えるのは明らかだと言えます」
ビーズクッションでくつろぐエンジニアやマネージャーに向かってケイは説いた。「さっさと30台作って試してみましょうよ」
自信に満ちた情熱的な説得だった。さすがはケイという調子だったが、PARCコンピュータ研究室のトップ、ジェリー・エルキンドに感銘を与えることはできなかった。ゼロックスPARCの歴史を綴ったマイケル・ヒルツィックは、次のように書いている。
「ジェリー・エルキンドとアラン・ケイは、違う星から来た生物のようだった。一方は厳格で事務的なエンジニア、もう一方は生意気で思索的な自由人だった」
エルキンドは、子どもがゼロックスの機械でおもちやの亀をプログラミングしているところを想像し、目を輝かせるタイプではなかったのだ。
「あえて、異を唱えさせてもらうよ」
エルキンドの言葉に、ほかのエンジニアは、容赦ない言葉の応酬が始まると興味津々で聞き耳を立てる。PARCの任務は未来のオフィスを形作ることであり、子どもの遊びに付き合うことではない、というのがエルキンドの主張だった。企業環境は企業が運用するコンピュータのタイムシェアリングに貢献するものなのだから、そちらを追求するのがPARCの取るべき道だろう。矢継ぎばやにそう攻め立てられ、ケイはいたたまれなくなった。話が終わったとき涙を浮かべていたほどだ。暫定ダイナブックを作ろうという提案は、完全に否定された。
この会議にはビル・イングリッシュが出席していた。エングルバートのもとで世界初のマウスを作ったのち、PARCに移ってきていたのだ。話し合いのあと、彼は久早を呼び寄せ、なぐさめの言葉をかけてから、アドバイスした。夢見がちな一匹狼でいるのをやめ、予算も考慮した提案にすべきだ、と。それに対するケイの答えがふるっている。
「予算ってなんだ?」
実は、裏でボブ・テイラーが糸を引いていた。タイムシェアリング方式のコンピュータを作るのではなく、「ディスプレイを備えた小型マシンを相互につなぐ形」を考案してほしいと思っていたからだ。ランプソン、サッカー、ケイ--目をかけているエンジニア3人が協力してプロジェクトに取り組んだらどうなるかも楽しみだった。実際、彼らはプッシュプル回路のようないいチームになった。ランプソンとサッカーは現状で可能なことを把握していたし、ケイは究極的な夢のマシンに照準を定め、不可能を可能にするよう残りふたりに求めたのだ。
彼らが設計したマシンは、「ゼロックス・アルト」と名付けられた(ケィはかたくなに「暫定ダィナブック」と呼びつづけたが)。ディスプレイはビットマップ方式、つまり画面のピクセル一つひとつのオン・オフを切り替えてグラフィックから文字、筆書きの線までなんでも描画できる仕組みを採用した。。フルビットマップなので、画面1ピクセルにメインメモリーの1ビットを使うことになる。大量のメモリーが必要になるが、ムーアの法則でメモリーは指数関数的に安くなるはずと考えたのだ。操作は、エングルバートと同じくキーボードとマウスでおこなう。1973年3月にできあがった完成品には、セサミストリートのクッキーモンスターがクッキーの頭文字「C」を持っている絵が映し出された。アラン・ケイが描いた絵だ。
ケイたちは、あらゆる年齢の子どもを念頭に置き、簡単で親しみやすく、直感的に使える形で実現できるのだと示すことでエングルバートのコンセプトを発展させた。ところが、エングルバートはそのビジョンを受け入れない。できるだけ多くの機能をoNLineシステムに詰め込むことにこだわり、小型で個人向けのコンピュータを作ろうとは考えなかったのだ。同僚に彼はこう言っている。「私がめざすのとは、まったく違う道だ。あんな小さいスペースに押し込めるのなら、いろんなことをあきらめなければならない」
先見の明を持つ理論家でありながら、エングルバートがイノベーターとしていまいち成功できなかったのは、このためだ。機能も命令もボタンも次々追加して、システムを複雑にしてしまったのだ。対してケイは簡単にしようとした。そうすることで、シンプルという理想--親しみが感じられ、簡単に使える製品を作ること--が、コンピュータをパーソナルなものにするには欠かせないと実証したのだ。
アルトシステムが各地の研究所に送られ、PARCのエンジニアが夢見たイノベーションが全国に広まった。PARCユニバーサルパケットという、種類の異なるバケット交換方式のネットワークをつなげるインターネットプロトコルの先駆け的なものもあった。
「インターネットを実現した技術のほとんどは、1970年代のゼロックスPARCで発明された」
と、テイラーは言い切っている。
だが、のちに明らかになるように、パーソナルコンピュータ、つまり自分だけのものと呼べるデバイスの世界をゼロックスPARCはめざしたにもかかわらず、その実現をゼロックス社がリードすることはなかった。およそ2000台のアルトが作られたが、ゼロックスのオフィスや関連機関などで使われるばかりで、消費者向けの製品として売られることはなかったのである。
ケイは回想する。
「イノベーションを使いこなせる態勢じゃなかったんだ。パッケージングも新しくしなければならないしマニュアルも新たに作らなければならない。アップデートの処理やスタッフの研修も必要になるし、各国向けのローカライズも必要になるってことだからね」
本社でお偉いさんを説得しようとするたび固い壁にぶつかった、とテイラーは当時を語っている。ニューヨーク州ウェブスターにもゼロックスの研究施設があるのだが、そこの責任者には「コンピュータがコピー機ほどの意味を社会でもつことはない」とまで言われたそうだ。
フロリダ州ボカラトンで盛大に開かれたゼロックス社のカンファレンスに(基調講演はヘンリー・キッシンジャーだった)、アルトシステムは展示された。午前中にはエングルバートの「あらゆるデモの母」のようなデモがあり、午後には、試用できるアルトが展示室に30台並べられた。男性ばかりの重役は興味を示さなかったが、妻はみな、マウスやキーボードにさわりはじめた。テイラーも、様子が見たくて自費参加していた。
「タイピングなど男がすることではないと、みんな、見下していたんだ。そんなの秘書の仕事ってわけさ。だから、アルトなど本気で取り組むものじゃない、気に入るのは女だけだと思っていた。ゼロックスがパーソナルコンピュータをものにできなかったのは、私に言わせれば、それが理由だよ」
結局、パーソナルコンピュータ市場の先陣を切るのはゼロックスではなく、起業家精神にあふれ、目端のきくイノベーターになる。ゼロックスPARCの技術を買う者や盗む者もいた。だがそれより早く出現した最初期のパーソナルコンピュータは自家製で、ごく一部のマニアにしか扱えないものだった。
2019年10月25日(金) 働くことへの執着と思い入れ--仕事とUBI
『みんなにお金を配ったら』より 働くことへの執着と思い入れ--仕事とUBI
UBIは労働力を損ないアメリカを無職の国に変える政策と思えるかもしれないが、こうした実際のエビデンスを見る限り、そのような極端な結論はどうにも導かれないのだ。一部の例では、むしろUBIが労働を後押ししている。もしくは少なくとも、勤労意欲を削ぐシステムと入れ替え可能であることを示唆している。たとえばフィンランドの失業保険制度は非常に手厚い。だが国民は、追加収入があると政府からの支給を失うかもしれないので、パートタイムなどの仕事をしたがらない傾向がある。フィンランドの社会保健相ピルッコ・マッティラは、「給付を受けて家で引きこもっているよりも仕事をするほうがいい、という状態であるべきです」と『ニューヨーク・タイムズ』紙の取材に語った。現在のフィンランドでは失職中の個人に無条件で毎月560ユーロ(およそ680ドル)を支給し、彼らが労働市場に復帰するかどうか見守っている。しかし、もっと大きく、もっと幅広く、もっと深く掘り下げた視点として、UBIは仕事と人との関係をどう変えるのか、という疑問がある--そもそも仕事とは何なのか。給付を得ることにより、生活のために働いて稼ぐ必要がなくなったとしたら、仕事というものの位置づけはどうなるのか。2016年春、スイスでベーシックインカムに関する国民投票が実施されるに先立ち、推進派のグループが、ジュネーブの繁華街にある遊歩道に巨大なポスターを設置した。世界最大のポスターとしてギネスに認定されたほどの大きさで、一つの質問を投げかけていた。「もしもあなたの収入が確保されているなら、あなたはどんなことをしてみますか?」
おそらく世界で最も熱心なベーシックインカム推進論者であるスコット・サンテンスは、その問いに対する答えを持っている。彼はUBIを支持するシンクタンク「エコノミック・セキュリティ・プロジェクト」のメンバーであり、ニュースサイト「レディット」のベーシックインカム・コミュニティの管理人でもあり、ネットで熱心にベーシックインカム推進の発言をしている。本人の表現によれば、彼の肩書は「人類の文明が21世紀にしっかりと生き抜いていくにはどうしたらいいか、その可能性を追究する物書き」だ。そして彼自身が今まさにベーシックインカムの受給者であることも、ぜひ付け加えておくべきだろう。アーティストを支援するクラウドファンディングサイト「パトレオン」を利用して、毎月およそ1500ドルを受け取っている。ちょうど貧困線を上回っていられるだけの金額だ。本人いわく、ニューオーリンズで不自由なく暮らしていける額ではない。しかし、自分のワークライフのハンドルを自分で握るには充分な額だという。「ベーシックインカムがなかった頃のぼくは、50ドルの原稿料のためにまる1週間つぶして調査と執筆をするような仕事も引き受けていたものだった。割に合わない50ドルでも、ゼロよりはマシだという理由で」とサンテンスは語る。「ベーシックインカムがある今は、自分の仕事には価値があると思っていられる。自分の時間には価値がある、自分には価値がある、と感じている」
サンテンスの考えでは、UBIは技術的失業への対策ではない。貧困撲滅の強力な手段でもない。社会的給付の一形式でもない。ワーキングプアの収入を増やす方法でもない。むしろUBIは、これらすべてを兼ね備え、そしてそれ以上の意味をもつ。サンテンスが考えるUBIとは、人はしたくない仕事でもしなければならない、という固定観念から人間を解放するパラダイムシフトだ。心理学者のアブラハム・マズローの「欲求階層説」では、空気、食べ物、水、住居に対するニーズがピラミッドの基盤にあり、自己実現に対するニーズが頂点にあるとされているが、UBIが導入される世界では、この底辺部分の確保に身をすり減らす必要がなくなる。人生において成し遂げたいことを追いかけていく経済的余裕ができる、とサンテンスは言う。雑用はロボットに任せればいい。人間は人間がしたい仕事をするべきだ。
「目の前に迫りつつあるのは、仕事がない未来じゃない。雇用のない未来だ」とサンテンスは主張する。「そもそもぼくたちは、仕事はお金を生み出すもの、という保守的な考えに縛られている。だからお金が伴わなければ仕事ではないことになる。金融制度がある限り、いつでもお金が優先だ。でも、誰もが毎月お金を受け取る仕組みがあれば、自発的に意欲を感じる仕事に専念できるはずじゃないか。モノポリーだって手持ちのお金がゼロじゃ始められないのに、どうして経済はゼロから始めなければならないんだろう?全員一律のベーシックインカムなら、まったく新しいシステムヘと移行できる」
この新しいパラダイムにおけるUBIとは、破綻した経済に対する進歩的な修復策ではなく、賃金労働の資本主義体制から抜け出す架け橋なのだ。社会が全員の基礎的ニーズを満たすので、医療保険、住宅、食費にかかわる問題が市場の足を引っ張らない。労働者本人にとっても、これらのニーズが満たされていれば、したいことをしていく自由が生じる。自分がやりたい仕事では食えないからという理由であきらめる必要はない。起業するのも、育児に専念するのも、芸術活動を始めるのも自由だ。最近では、イギリスのジャーナリストのポール・メイソンや、デジタル経済専門家ニックースルニチェク、未来派のアレックス・ウィリアムズといった思想家たちが、その架け橋を各国経済が渡るための道筋として、まずオートメーション化を利用して人間を苦しいだけの仕事からできる限り解放し、それからUBIに加えて国民皆保険と、インターネットヘの無料アクセスと、国家による住宅提供を通じて家計を補助していくべきだと打ち出している。スルニチェクとウィリアムズは、『未来の発明--ポスト資本主義と、仕事のない世界』と題したラディカルな共著書において、「この先に採るべき一番有望な道は、近代化のあり方を見直し、最も難解な政治議論から最も赤裸々な発言まで、あらゆる議論を方向づけている新自由主義的常識を打破していくことにある」と書いた。「この反覇権的試みを叶えるためには、よりよい世界を思い描いていかなくてはならない--身を守るだけの戦いをやめ、その先へ踏み込んでいかなければならない。ぼくたちが考えるプロジェクトは、人が自分たちの手で生活とコミュニティを作っていく自由を生み出そうとするものだ。「仕事ありき」ではない政策を考えたいのだ」。彼らが掲げるビジョンがどれほどラディカルであるか、ぜひ強調しておきたい。経済成長も、世帯所得も、富の不平等すらも、指標として重要ではないと言っているのだ。健康、寿命、繁栄のほうが指標として意味があると想定している。実際、人間の幸せを質的に測る指標が伸びるとき、GDPはおそらく下がる。この考え方において、世界は欠乏によって定義されるものではなく、豊潤さによって測られ定義されるものになる。
当然ながら、このようなユートピア的ビジョンは、仕事に就けず友人の家を泊まり歩くジェンナー・バーリントン=ワードのような人々が抱える根深い精神的、感情的、金銭的苦しみを必ず、もしくはすぐさま解決するものではない。彼女たちはとにかく今、収入になる仕事がしたいのだ。また、何百万人という低所得層のアメリカ人が欲しているのは働くこと、そして自分の子どもも仕事に就けることであって、仕事に対する人間の思い入れを数十年さかのぼって調べる経済学や心理学や医学の研究ではない。働けない、稼げないという事実に対して、このユートピア的ビジョンが解決の手を差し出すわけではない。人が働かないことを許容する再分配システムは支持されない可能性がある点も、価値や労働に対する社会の認識を変えるには数十年かかるであろうことも、このビジョンの計算には入っていない。たとえばマーガレット・サッチャー政権になる前のイギリスには、「失業手当で暮らしていくことが事実上可能な福祉制度があった。「UB40を手に、リバプールでのんびりする」という歌もあったほどだ」と、ノーベル賞を受賞したリベラル派経済学者のポール・クルーグマンが最近の記事で指摘していた。「イギリスはアメリカと比べれば政治が人種的に偏極化していない国だが、そのイギリスでさえ、この制度は結局のところ非常に不人気だった。ただ働かない、ということを選択できる制度があってもかまわないのだ、とアメリカ人有権者の大多数に納得させるには、かなり長い年月がかかることだろう」
働くことと人との関係が変わるときが来るのだとすれば、そのときにはきっとUBIも導入されているだろう。だがそうこうしている今現在にも、アメリカで、そしてアメリカよりもはるかに逼迫している低所得・中所得の国家で、何百万という人々がマズローのピラミッドの底辺を確保するにも苦しむ生活を続けている。UBIに関する議論の拡大と拡散は、労働運動や進歩派の活動、あるいはシリコンバレーだけで生じているわけではない。裕福な国家の裕福な層だけで広がっているわけでもない。世界でも最底辺の過酷な貧困を緩和する策として、開発経済学者や貧困問題専門家も、UBIは効率的かつ効果的だと考えている。
世界でも最も貧しい地域で、UBIはなぜ、そして具体的にどういう効果を期待できるのか。わたしは自分の目で確認しにいくことにした。