『メルロ=ポンティ哲学者事典』より
ドゥルーズは、哲学を「概念の創造」だと言った(ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』)。例えば、ベルクソンは、「純粋持続」という概念を創造し、「空間化された時間」ではなく、「持続」というあり方によって、世界の見方を一変させた。「純粋持続」という真新しい液体を、世界という海に一滴おとし、海全体の色合いを、からっと変えたのだ。あるいは、ドゥルーズが、英米系の最称の偉大な哲学者と言ったホワイトヘッドは、「現実的存在」という原子的な概念を創出し、宇宙を生成消滅する関係の網にした。「現実的存在」は、生成したとたんに消滅する。どこにも、〈それ〉は登場しない。世界全体は、非連続的に連続していど仏教の「刹那滅」に似た世界だ。いままで存在しなかった新たな地平(ドゥルーズは、「内在平面」と言う)をそっくり創りだすこと。世界の見方を根底から変える「概念の創造」こそ、哲学だとジル・ドゥルーズは、言った。
ペルクソンは、自然科学と哲学をその方法論のちがいによって区別する(『思考と動くもの』)。「分析」を武器に自然を解明する科学の「直観」をつかい実在の内在的あり方を記述する哲学。同じ《実在》を異なる仕方で解明するというわけだ。むろん、どちらにも優劣はつけられない。ホワイトヘッドも、自然科学に寄りそいつつ、それとは異なる立場から形而上学を構築していく。相対性理論や量子論をじゅうぶん咀嚼したうえで、みずからの有機体の哲学をかたちづくる。ベルクソンやホワイトヘッドは、こうした位置から「概念を創造」していく。
それでは、ウィトゲンシュタインにとって「哲学」とは、どのような営為なのか。「概念の創造」とは、あきらかに異なる。なにをいっても、彼は、ドゥルーズから「悲しい出来事」あるいは「哲学の暗殺者」と名指しで批判されたのだから。
生前唯一刊行された哲学書である『論理哲学論考』(一九二一)の「哲学」観をみてみよう。まずは、いままでの哲学を批判するものから。
4.003
哲学的なことについて書かれてきた命題や問のほとんどは、まちがいではなく、ナンセンスだ。だから私たちは、その種の問に答えることはできない。それらがナンセンスであると確認することしかできない。哲学者たちの問や命題のほとんどは、私たちが自分の言語の論理を理解していないことに基づく。
例えば、ホワイトヘッドの『過程と実在』を初めて読むとき、創造された概念群(「現実的存在」「永遠的客体」「抱握」など)の関係をじっくりたどると、その全体像(「内在平面」)がかいまみえるだろう。その概念同士の関係によって世界は説明される。しかし、こんな哲学はウィトゲンシュタインによればナンセンスだ。なぜなら、その概念の正しさを判定する基準はどこにもなく、真偽はけっして確定できないのだから。ベルクソンの「純粋持続」も「イマージュ」もそうだ。これらの概念が正しいかどうかを、はっきりさせる術をわれわれはもってはいない。だから、ナンセンスなのだ。
では、これら既存の哲学に対して、真の哲学とはどのようなものなのか。ウィトゲンシュタインは、次のように言う。
4.112
哲学の目的は、考えを論理的にクリアにすることである。
哲学は学説ではなく、活動だ。
哲学の仕事の核心は、説明することである。
哲学の成果は、「哲学の命題」ではなく、命題がクリアになることなのだ。
4.114
哲学のすべきことは、考えることのできる境界を定めると同時に、考えることのできないものの境界を定めることであ
哲学のすべきことは、考えることのできるものによって内側から、考えることのできないものを、境界の外に締めだすことである。
4.115
哲学は、言うことのできるものをクリアに描くことによって、言うことのできないものを指し示すだろう。
ウィトゲンシュタインにとって哲学とは、われわれがさまざまな事物を考える際の「思考」の明晰化なのだ。人がもっている思考の道具を、ちゃんとしたものにすることこそ、哲学という「活動」なのである。使う道具がよくなければ、なにごともうまくいかない。建築も料理も、そして科学も。だから、その道具をとても鋭利なものにし、よく使えるものにすること、これが哲学なのである。そして、その道具は、もちろんわれわれの「思考」であり、それはとりもなおさず「言語」だということになる。言葉を正しく使うように導くこと。これ以外に哲学の営為はない。だから
4.003
すべての哲学は「言語批判」である。
この姿勢は、『論理哲学論考』執筆時のいわゆる前期だけではなく、後期といわれる時期まで一貫している。学説ではなく活動であり、その活動とは、「言語批判」なのだから、自然科学と同じような体系をつくることは、思いもよらない。自然科学と哲学との関係については、つぎのように言う。
4.111
哲学は、もろもろの自然科学のうちのひとつではない。(「哲学」という言葉は、さまざまな自然科学の上にあるか、下にあるかを意味しているにちがいない。自然科学とならんでいるものを意味しているはずがない)
4.113
哲学は、自然科学が異論を唱えることができる領域の境界を決める。
先述したように、ベルクソンは、『思考と動くもの』のなかで、哲学(形而上学)と科学との関係を論じたとき、同じ実在に対する異なったアプローチといった。方法がちがうだけで、扱う対象は同じだというわけだ。つまり、このウィトゲンシュタインの比喩を使用するなら、ベルクソンにとって、「「哲学」という言葉は、自然科学とならんでいるものを意味しているにちがいない」ということになるであろう。ホワイトヘッドの形而上学も同様だ。物理学や生物学の知見を使い、みずからの有機体の哲学をつくりあげたのだから。
このような哲学の考え方とは、まったく異なるのが、ウィトゲンシュタインの考えだと言えるだろう。この哲学者のめざす哲学とは、ベルクソンの言う意味での科学の方法論である「分析」の精緻化にあると言えるかも知れない。つまり、分析するときの道具である「思考=言語」を明晰にすること、これこそが哲学だというわけである。だからこそ、『論理哲学論考』の最後の有名な命題(「7.語ることができないことについては、沈黙するしかない。」)の二つ前の節で、次のように言う。
6.53
哲学の正しい方法があるとすれば、それは実のところ、言うことのできること以外、何一つ言わないことではないか。つまり、自然科学の命題--つまり、哲学とは関係のないことーしか言わず、そして誰かが形而上学的なことを言おうとしたら、かならずその人に、「あなたは、自分の命題のいくつかの記号に意味を与えていませんね」と教えるのだ。この方法は、その人を満足させないかもしれない。-その人は、哲学を教えてもらった気がしないかもしれない。--けれども、これこそが、ただひとつの厳密に正しい方法ではないだろうか。
こうして『論理哲学論考』の哲学観を見てくると、ベルクソンやホワイトヘッドのような哲学を、全面的に否定しているように見えるかもしれない。しかし、そうではない。「ナンセンス」だと言っているだけで否定しているわけではない。むしろ敬意を表しているのだキルケゴールやハイデガーのような哲学者の営為、あるいは、倫理や宗教的言説に対して、次のような思いを吐露している。
すなわち、このようなナンセンスな表現は、私が未だ正しい表現を発見していないからナンセンスなのではなくて、それらのナンセンスさこそがほかならぬそれらの本質だからだ、ということが私には今やわかります。なぜなら、それらの表現を使って私がしたいことは、世界を超えてゆくこと、そしてとりもなおさず有意義な言語を超えてゆくことにはかならないからです。私の全傾向、そして私の信ずるところでは、およそ倫理とか宗教について書き、あるいは語ろうとした全ての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでした。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るのは、まったく、絶対的に望みのないことです。倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値あるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではありえません。それが語ることはいかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文書であり、私は、個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるをえませんし、また、生涯にわたって、それをあざけるようなことはしないでしょう(「倫理学講話」『ウィトゲンシュタイン全集 第五巻」所収、三九四頁)。
言語の限界を超えようとするわれわれの衝動は、じゅうぶん理解できるし尊いものだという。これこそ、ウィトゲンシュタインが、凡百の分析哲学者(とくに「論理実証主義者」)とは異なるところだ。「ナンセンス」だと言いながら、それに敬意を表する。この哲学者は、複雑で深く、ときに矛盾もはらんでいると言ってもいいだろう。そこが、大いなる魅力でもある。
後期の「哲学」観についても、ざっと見てみよう。後期の代表的著作『哲学探究』において、彼の哲学は、言語に焦点をあわせる。ウィトゲンシュタインによれば、言語そのもののもつ性質によって、われわれはしばしば錯覚をおかす。そのような錯覚や錯誤を丁寧に指摘していくのが哲学だというわけだ。ウィトゲンシュタインは言う。
哲学とは、言語という手段によって、われわれの知性をまどわしているものにいどむ戦いだ。(『哲学探究』一○九節)
われわれは、言語を使うことによってものを考える。つまり、純粋な思考などできない。言語が、ある意味で、かならず「邪魔」をしてくる。だから、邪魔者である言語によりだまされる知性を正気に戻さなければならない。こうして、ウィトゲンシュタインは、真の哲学を「治療」にたとえる。
哲学者は、病気を扱うように問を扱う。(同書、二五五節)
哲学者が、言葉によって形而上学をうちたてるとき、しばしば「病」にかかってしまう。だからこそ「われわれは、これらの語を、その形而上学的用法から、ふたたび日常的な用法へと連れ戻す」(同書、一一六節)必要がある。言葉の本来の場所員常的用法)へ戻し、誤解を解かなければならない。もともとそのような誤解などする必要はないのだと教えなければならない。壷には出口があるのに、それを見つけられない蝿を助けなければならない。
哲学におけるあなたの目的はなにか。--蝿に蝿とり壷からの出口を示してやること。(同書、三〇九節)
このような後期の考えは、前期と地続きであることがわかる。そして、こうした哲学の方法をウィトゲンシュタインは「記述」と言う。
だから、われわれは、どのような種類の理論もたててはならない。われわれの考察において、仮説のようなものが許されてはならない。あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代わりになされるのでなければならない。そして、このような記述は、みずからの光明、すなわち目的を、哲学的な諸問題から受けとるのだ。これらの問題は、もちろん経験的な問題ではなく、われわれの言語のはたらきを洞察することで解決され、しかも、そのはたらきが、それを誤解しようとする衝動にさからい認識されるようなしかたで解決される(同書、一〇九節)。
ウィトゲンシュタインが哲学という活動において忌避したのは、「理論」や「仮説」であって、いわば自然科学の模倣である。科学と同じような精密な道具もないのに、言葉の魔法にかかって、世界を説明しつくそうとすること。そんなものは、哲学ではないというわけだ。哲学は、あくまでも、われわれの周りのさまざまな事態を、何の先入見もなしに「記述」しつづけることで満足しなければならない。
ドゥルーズは、哲学を「概念の創造」だと言った(ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』)。例えば、ベルクソンは、「純粋持続」という概念を創造し、「空間化された時間」ではなく、「持続」というあり方によって、世界の見方を一変させた。「純粋持続」という真新しい液体を、世界という海に一滴おとし、海全体の色合いを、からっと変えたのだ。あるいは、ドゥルーズが、英米系の最称の偉大な哲学者と言ったホワイトヘッドは、「現実的存在」という原子的な概念を創出し、宇宙を生成消滅する関係の網にした。「現実的存在」は、生成したとたんに消滅する。どこにも、〈それ〉は登場しない。世界全体は、非連続的に連続していど仏教の「刹那滅」に似た世界だ。いままで存在しなかった新たな地平(ドゥルーズは、「内在平面」と言う)をそっくり創りだすこと。世界の見方を根底から変える「概念の創造」こそ、哲学だとジル・ドゥルーズは、言った。
ペルクソンは、自然科学と哲学をその方法論のちがいによって区別する(『思考と動くもの』)。「分析」を武器に自然を解明する科学の「直観」をつかい実在の内在的あり方を記述する哲学。同じ《実在》を異なる仕方で解明するというわけだ。むろん、どちらにも優劣はつけられない。ホワイトヘッドも、自然科学に寄りそいつつ、それとは異なる立場から形而上学を構築していく。相対性理論や量子論をじゅうぶん咀嚼したうえで、みずからの有機体の哲学をかたちづくる。ベルクソンやホワイトヘッドは、こうした位置から「概念を創造」していく。
それでは、ウィトゲンシュタインにとって「哲学」とは、どのような営為なのか。「概念の創造」とは、あきらかに異なる。なにをいっても、彼は、ドゥルーズから「悲しい出来事」あるいは「哲学の暗殺者」と名指しで批判されたのだから。
生前唯一刊行された哲学書である『論理哲学論考』(一九二一)の「哲学」観をみてみよう。まずは、いままでの哲学を批判するものから。
4.003
哲学的なことについて書かれてきた命題や問のほとんどは、まちがいではなく、ナンセンスだ。だから私たちは、その種の問に答えることはできない。それらがナンセンスであると確認することしかできない。哲学者たちの問や命題のほとんどは、私たちが自分の言語の論理を理解していないことに基づく。
例えば、ホワイトヘッドの『過程と実在』を初めて読むとき、創造された概念群(「現実的存在」「永遠的客体」「抱握」など)の関係をじっくりたどると、その全体像(「内在平面」)がかいまみえるだろう。その概念同士の関係によって世界は説明される。しかし、こんな哲学はウィトゲンシュタインによればナンセンスだ。なぜなら、その概念の正しさを判定する基準はどこにもなく、真偽はけっして確定できないのだから。ベルクソンの「純粋持続」も「イマージュ」もそうだ。これらの概念が正しいかどうかを、はっきりさせる術をわれわれはもってはいない。だから、ナンセンスなのだ。
では、これら既存の哲学に対して、真の哲学とはどのようなものなのか。ウィトゲンシュタインは、次のように言う。
4.112
哲学の目的は、考えを論理的にクリアにすることである。
哲学は学説ではなく、活動だ。
哲学の仕事の核心は、説明することである。
哲学の成果は、「哲学の命題」ではなく、命題がクリアになることなのだ。
4.114
哲学のすべきことは、考えることのできる境界を定めると同時に、考えることのできないものの境界を定めることであ
哲学のすべきことは、考えることのできるものによって内側から、考えることのできないものを、境界の外に締めだすことである。
4.115
哲学は、言うことのできるものをクリアに描くことによって、言うことのできないものを指し示すだろう。
ウィトゲンシュタインにとって哲学とは、われわれがさまざまな事物を考える際の「思考」の明晰化なのだ。人がもっている思考の道具を、ちゃんとしたものにすることこそ、哲学という「活動」なのである。使う道具がよくなければ、なにごともうまくいかない。建築も料理も、そして科学も。だから、その道具をとても鋭利なものにし、よく使えるものにすること、これが哲学なのである。そして、その道具は、もちろんわれわれの「思考」であり、それはとりもなおさず「言語」だということになる。言葉を正しく使うように導くこと。これ以外に哲学の営為はない。だから
4.003
すべての哲学は「言語批判」である。
この姿勢は、『論理哲学論考』執筆時のいわゆる前期だけではなく、後期といわれる時期まで一貫している。学説ではなく活動であり、その活動とは、「言語批判」なのだから、自然科学と同じような体系をつくることは、思いもよらない。自然科学と哲学との関係については、つぎのように言う。
4.111
哲学は、もろもろの自然科学のうちのひとつではない。(「哲学」という言葉は、さまざまな自然科学の上にあるか、下にあるかを意味しているにちがいない。自然科学とならんでいるものを意味しているはずがない)
4.113
哲学は、自然科学が異論を唱えることができる領域の境界を決める。
先述したように、ベルクソンは、『思考と動くもの』のなかで、哲学(形而上学)と科学との関係を論じたとき、同じ実在に対する異なったアプローチといった。方法がちがうだけで、扱う対象は同じだというわけだ。つまり、このウィトゲンシュタインの比喩を使用するなら、ベルクソンにとって、「「哲学」という言葉は、自然科学とならんでいるものを意味しているにちがいない」ということになるであろう。ホワイトヘッドの形而上学も同様だ。物理学や生物学の知見を使い、みずからの有機体の哲学をつくりあげたのだから。
このような哲学の考え方とは、まったく異なるのが、ウィトゲンシュタインの考えだと言えるだろう。この哲学者のめざす哲学とは、ベルクソンの言う意味での科学の方法論である「分析」の精緻化にあると言えるかも知れない。つまり、分析するときの道具である「思考=言語」を明晰にすること、これこそが哲学だというわけである。だからこそ、『論理哲学論考』の最後の有名な命題(「7.語ることができないことについては、沈黙するしかない。」)の二つ前の節で、次のように言う。
6.53
哲学の正しい方法があるとすれば、それは実のところ、言うことのできること以外、何一つ言わないことではないか。つまり、自然科学の命題--つまり、哲学とは関係のないことーしか言わず、そして誰かが形而上学的なことを言おうとしたら、かならずその人に、「あなたは、自分の命題のいくつかの記号に意味を与えていませんね」と教えるのだ。この方法は、その人を満足させないかもしれない。-その人は、哲学を教えてもらった気がしないかもしれない。--けれども、これこそが、ただひとつの厳密に正しい方法ではないだろうか。
こうして『論理哲学論考』の哲学観を見てくると、ベルクソンやホワイトヘッドのような哲学を、全面的に否定しているように見えるかもしれない。しかし、そうではない。「ナンセンス」だと言っているだけで否定しているわけではない。むしろ敬意を表しているのだキルケゴールやハイデガーのような哲学者の営為、あるいは、倫理や宗教的言説に対して、次のような思いを吐露している。
すなわち、このようなナンセンスな表現は、私が未だ正しい表現を発見していないからナンセンスなのではなくて、それらのナンセンスさこそがほかならぬそれらの本質だからだ、ということが私には今やわかります。なぜなら、それらの表現を使って私がしたいことは、世界を超えてゆくこと、そしてとりもなおさず有意義な言語を超えてゆくことにはかならないからです。私の全傾向、そして私の信ずるところでは、およそ倫理とか宗教について書き、あるいは語ろうとした全ての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでした。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るのは、まったく、絶対的に望みのないことです。倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値あるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではありえません。それが語ることはいかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文書であり、私は、個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるをえませんし、また、生涯にわたって、それをあざけるようなことはしないでしょう(「倫理学講話」『ウィトゲンシュタイン全集 第五巻」所収、三九四頁)。
言語の限界を超えようとするわれわれの衝動は、じゅうぶん理解できるし尊いものだという。これこそ、ウィトゲンシュタインが、凡百の分析哲学者(とくに「論理実証主義者」)とは異なるところだ。「ナンセンス」だと言いながら、それに敬意を表する。この哲学者は、複雑で深く、ときに矛盾もはらんでいると言ってもいいだろう。そこが、大いなる魅力でもある。
後期の「哲学」観についても、ざっと見てみよう。後期の代表的著作『哲学探究』において、彼の哲学は、言語に焦点をあわせる。ウィトゲンシュタインによれば、言語そのもののもつ性質によって、われわれはしばしば錯覚をおかす。そのような錯覚や錯誤を丁寧に指摘していくのが哲学だというわけだ。ウィトゲンシュタインは言う。
哲学とは、言語という手段によって、われわれの知性をまどわしているものにいどむ戦いだ。(『哲学探究』一○九節)
われわれは、言語を使うことによってものを考える。つまり、純粋な思考などできない。言語が、ある意味で、かならず「邪魔」をしてくる。だから、邪魔者である言語によりだまされる知性を正気に戻さなければならない。こうして、ウィトゲンシュタインは、真の哲学を「治療」にたとえる。
哲学者は、病気を扱うように問を扱う。(同書、二五五節)
哲学者が、言葉によって形而上学をうちたてるとき、しばしば「病」にかかってしまう。だからこそ「われわれは、これらの語を、その形而上学的用法から、ふたたび日常的な用法へと連れ戻す」(同書、一一六節)必要がある。言葉の本来の場所員常的用法)へ戻し、誤解を解かなければならない。もともとそのような誤解などする必要はないのだと教えなければならない。壷には出口があるのに、それを見つけられない蝿を助けなければならない。
哲学におけるあなたの目的はなにか。--蝿に蝿とり壷からの出口を示してやること。(同書、三〇九節)
このような後期の考えは、前期と地続きであることがわかる。そして、こうした哲学の方法をウィトゲンシュタインは「記述」と言う。
だから、われわれは、どのような種類の理論もたててはならない。われわれの考察において、仮説のようなものが許されてはならない。あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代わりになされるのでなければならない。そして、このような記述は、みずからの光明、すなわち目的を、哲学的な諸問題から受けとるのだ。これらの問題は、もちろん経験的な問題ではなく、われわれの言語のはたらきを洞察することで解決され、しかも、そのはたらきが、それを誤解しようとする衝動にさからい認識されるようなしかたで解決される(同書、一〇九節)。
ウィトゲンシュタインが哲学という活動において忌避したのは、「理論」や「仮説」であって、いわば自然科学の模倣である。科学と同じような精密な道具もないのに、言葉の魔法にかかって、世界を説明しつくそうとすること。そんなものは、哲学ではないというわけだ。哲学は、あくまでも、われわれの周りのさまざまな事態を、何の先入見もなしに「記述」しつづけることで満足しなければならない。
[数学思考]は、[=]が使えるが
[言語]には、[=]が使えない。
[言語]は、[トートロジー]になってはいけないが、[数学]は、[トートロジー]でなければならない。(?)
これを乗り越えるのは、『HHNI眺望』だろう・・・
この『眺望』は、2冊の絵本で・・・
「みどりのトカゲとあかいながしかく」スティーブ・アントニー作・絵 吉上恭太訳
[もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)