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社会的正義の実現と教育の役割

『ファイナンスの哲学』より 資本(capital)/資本主義(capiitalism)

深刻な格差問題についてピケティが唱えているのが、そうした社会の不安定化を阻止するために、公権力が富裕層に対して一定の財産税を課し、それを循環させようという国際富裕税の考え方である。

ただし、こうした税当局の国際的連携と資産捕捉は、超国家的な権力の存在を前提にしており、この実現可能性を疑問視する声が大きい。

富を社会に循環させるもう1つの考え方は、富裕層が自ら富を社会の安定化やより良い社会の構築に向けて活用することである。たとえばマイクロソフトの創始者ビル・ゲイツが、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を作って“social good” (社会善)のために活用しているように、また上述した“The Giving Pledge”という寄付プラットフォームのように、一部の富裕層は、すでにこうした自覚のもとに具体的なアクションを取り始めている。

私自身は、これからの世界の安定化のために、両方の手段を活用して富を社会に循環させていく必要があると思うが、実現可能性という意味で、後者の自発的なやり方に主眼を置いて考えている。

ピケティが指摘しているように、統計上、世界の純資産と純負債は合計すると、純資産が8%程度少なくなっており、その多くが富裕層の隠れた資産だと見られている。世界中で最も富が集中しているのが、ナンバーワンの経済大国である米国だが、その富裕層のロビイングの力は極めて大きく、課税逃れに対する取り締まりや、キャピタルゲイン課税の拡大が大きく進捗することは、当面、考えにくい。

したがって、迂遠ではあるが、富裕層が自ら社会の不平等を正すべく動き出すのを促す必要がある。しかしながら、ただ単に「富を差し出せ」と言われたからといって差し出すほど事は単純ではない。そうした動きは、あくまで内発的なものでなければならないし、そのためには富裕層の「心」が動かなければならない。こうした、社会の不平等や不正義を見逃せない心の育成というのは、小さい頃からの教育や環境の果たす役割が極めて大きい。

カネの魅力はその圧倒的な交換可能性と保存性と流通性にあるが、全てをカネで測定するということは、全ての事物・事象に切れ目のない無限の序列をつけることであり、そうであれば1万円の幸せは1億円の幸せに勝てず、1億円の幸せは100億円の幸せに勝てず、100億円の幸せは1兆円の幸せに勝てないという、無限のトランプゲームの繰り返しの連鎖に巻き込まれてしまう。

元来、我々はおカネの価値に換算してはいけないものを正確に理解していた。たとえば、お寺にある仏像の価値は、そこにあるということが本来の価値であり、それを金銭的な価値に置き換えることは意味のないことだと知っていた。それを正面からコマーシャルに利用した“priceless”という広告もあったが、その広告の裏側にある「pricelessな物をクレジットカードで購入しましょう」というあざとさは別にしても、言っていること自体は正しい。

金融技術とパーソナルコンピューターの進歩は、全ての事物をキャッシュフローの源泉とみなし、そこから生み出される将来のキャッシュフロー全てを現在価値に割り戻した数字を、その事物の経済的価値と見るようになった。そして、金銭に換算できない価値は、「金銭的な価値とは別の、違う尺度での固有の価値を持つもの」として正しく認識せずに、「金銭に換算できないものは、無価値なもの」あるいは「無視すべきもの」という間違った認識を持つ者の急増を促した。

重要なのは、貨幣や市場が提供するフィクションの部分を、あくまで便利な道具としてわきまえ、フィクションの部分と我々人間の感情や心性や肉体というリアルな部分の間に明確な線引きを行い、目的と手段を混同せずに生きることである。

私がこの『ファイナンスの哲学』を通して言いたかったのは、ファイナンスというのはあくまで1つの壮大なフィクションであり、また非常に役に立つテクニックではあるが、やはりそれはあくまでテクニックでしかなく、それが全てだとは思わないでもらいたいということである。

重要なのは、ファイナンスがよって立つ資本主義のゲームというのは社会全体を包摂する唯一無二の原理ではないということを自覚して、ゲームにはあくまでクールに参加することである。そして、そのゲームの勝者たちに強く求められるのは、ゲームに勝つこと自体を究極の目標にすべきではないと自覚することである。

ゲームの先にある人間としての自覚と目標にこそ、ゲームを極める本当の意味があるのだということを理解することが何よりも重要である。そうした自覚なく、資本の無限運動に生身の人間が巻き込まれてしまうのであれば、その人はどこにもゴールのない無限ループの闇の彼方に放り込まれてしまう。

わかりやすく言えば、我々は切れ味の鋭い包丁の使い方を未だ知らない駆け出しの料理人のようなものである。折角手に入れた包丁を正しく使い、美味な料理を作れば、皆が幸せになれるのに、それで人を傷つけてはならないのである。

資本主義社会というのは、これまで人類が実現してきた社会システムの中でも、社会的な富の蓄積にとっては最も優れたシステムであり、それが人間の本性に適っているか否かの検証は未だなされていないが、現時点でそれを覆して新たなシステムを提示・構築するのは現実的ではない。

国連人口部の推計によれば、人類は資本主義が実現した経済の目覚ましい発展により、1800年の10億人から今では73億人にまで達し、これが2050年には90億人に達すると見られている。

また、人類の平均寿命も、人類史初期の平均寿命が20~35歳であったと推定されるのに対し、1900年には先進国の寿命は40~50歳にまで延び、これが現在では80歳程度にまで延びている。

これは、経済システムとしての資本主義が果たしてきた大きな成果であり、その副作用のゆえにこれを放棄するというには、余りにも代償が大きいシステムである。人間に本来的に備わっている成長意欲がイノペーションを生み出し、それが経済の発展につながり、ひいては人類の幸福につながっていくのであれば、「角をためて牛を殺す」ことをしても意味がない。

事業家の事業意欲は単なる金銭欲ではないことが多く、特に社会全体を変革するようなシュンペーター的なイノベーションを起こす起業家は、むしろ金銭欲よりは事業意欲、成長意欲などが強いがゆえに事業家として成功していることが多い。

そうした事業家の事業意欲と、社会的な富の循環は決して両立し得ないことではなく、むしろ社会的な不平等や不正義を正したいという思いから起業する起業家も多い。こうした強い思いを抱いて、社会をより良くしていこうと考える起業家、企業人、富裕層を増やして、自発的な富の循環のモメンタムを強めることが、教育の重要な目標の1つだと考えている。

他人の心の中に立ち入らないという節度と、他人のことは関係ない、他人のことには無関心であるという態度とは、まったく別の次元の心性である。したがって、こうした公徳心を持った若者を育てるということが、迂遠ではあっても、資本主義のメリットを活かしながら、同時に社会正義を実現していくための重要な道筋だと思う。

我々人間は、望むと望まざるとにかかわらず、社会を構成して、集団として1つの歴史を歩んでいる。そして、元を正せば、人類の起源はわずか8人の人間にたどり着くと言われている。人間だけではない、地球上の生き物は全て同様の遺伝子を持つ共通の仲間である。仮に5%も遺伝子が異なっていれば、姿形がまったく異なる別の動物になってしまう。そして、それを成立させている、地球という存在もその仲間の一員である。

利己的な遺伝子が永遠に生き延びるために我々の肉体を利用していると見るには、あまりにも我々の脳と心は不思議に満ちている。宇宙の始まりや果てが未だ理解できていないように、人間の意識がどこから来るのかの研究もまだ緒についたばかりである。

神という宗教が取り上げるテーマと科学のテーマは、西欧合理主義の時代以降、長く切り離され、別の領域の問題として扱われてきたが、究極的には、「意識」「宇宙」「神」は、相互に影響し合いながら、再びつながりを取り戻しつつある。

畢竟、我々はゴーギャンの絵画にあるように、「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」、この答えを求め続けて旅をする仲間なのである。
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