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未唯への手紙

未唯への手紙

「従僕の目に英雄なし」

2012年04月26日 | 2.数学
『学ぶとはどういうことか』より

「学ぶ」ことにおいては「学ぶ」側の精神的・知的目線が必ず問われることになるということは、何を意味するであろうか。こうした目線はそもそもどのようにして「学ぶ」ことができるのだろうかといった具合に、「学ぶ」ことに対する問いかけは遡及する、あるいは、次々と遡っていくことになるのではないか。同時に、そこには「学ぶ」ことの可能性と限界、あるいは、その限界に対する謙虚さの意識を含め、興味深い精神的なドラマが潜んでいる。

ヘーゲルの『歴史哲学講義』は「哲学的な歴史」という課題を掲げ、その中で「世界史的個人」=「世界精神の事業遂行者」といった刺激的な概念を後世に遺した点で有名である。アレクサンダー大王やカエサル、そしてナポレオンなどは「世界史的個人」の典型であり、彼らは「実践的かつ政治的な人間」であり、同時に「思考の人」でもあるという。それというのも、「なにが必要であり、なにが時宜にかなっているか」を洞察し、「その時代とその世界の真理」「時代の内部にすでに存在する」「つかの段階に必ず現われるこの一般的傾向」を洞察しているからである。彼らはこの意味で英雄であり、偉人であり、「正真正銘の偉業をなそうとし、なしとげた」人々であり、多くの人々の「魂の指導者」であるという。ところが世の多くの人々は、もっぱら自らの嫉妬心を満足させるべくこうした偉業を個人的な名誉欲や征服欲といった主観的な動機に還元する、心理的な考察に傾きやすい。一言で言えば。これらの英雄は「不道徳な人間」にされてしまう。さらに、「こうした心理家たちはまた、歴史的大人物の私生活にまつわる特殊な事実に、強い執着を見せます。人間は食べたり飲んだりしなければならず、友人知人とつきあい、刹那的な感情や興奮にかられます。『従僕の目に英雄なし』とはよく知られたことわざですが、わたしはかつて、『それは英雄が英雄でないからではなく、従僕が従僕だからだ』と補足したことがある。……従僕というのは、英雄の長靴をぬがせ、ペッドにつれていき、また、かれがシャンパン好きなのを知っている男のことです。歴史的人物も、従僕根性の心理家の手にかかるとすくわれない。どんな人物も平均的な人間にされてしまい、ことこまかな人間通たる従僕と同列か、それ以下の道徳しかもだない人間になってしまう」(『歴史哲学講義』上、P62°長谷川宏訳、岩波文庫)

ここで「従僕の目に英雄なし」という諺、特に、その意味内容についてのへIゲルのコメントに注目したい。つまり、従僕の目には「世界史的個人」=英雄は存在しないが、それは英雄が存在しないからではなく、従僕が従僕であり、彼は人間とは所詮は食べたり、飲んだり、寝たりする存在でしかないと固く信じているからである。そこで残る不満は、「自分の立派な意図に基づく粗さがしが、世のなかにちっともうけいれられない」ということにある。ヘーゲルのいう意味での「世界史的個人」が存在するかどうかはともかく、英雄をつまらない人間に「引き下げ」、それに対する世間の賛同を得ることによって自らの認識を満足させるとともに嫉妬心を満足させ、溜飲を下げるというこの構図はわれわれにお馴染みのものである。

「嫉妬心を満足させる」とか「溜飲を下げる」とかいった話は横に置くとして、問われているのは自分の理解する現実なるものがいかなる意味で現実なのかということである。「従僕の目に英雄なし」という諺が意味するのは、自分に理解できないものは「ない」、「ないに違いない」、「ないことにする」という態度がいかに珍しくないかということである。つまり、どうしてそういう判断が成り立つのかに対する問いはそこにはないし、出てくるのはただ自らの理解する現実なるものの理解が世間でなかなか受け入れられないという不満である。ここには「学ぶ」ことをめぐる根本問題が顔を覗かせている。自分に理解できないものは「ない」し、「ないに違いない」し、「ないことにする」のは、色眼鏡を通して現実を理解する「ステレオタイプ」型の思考様式の根底に潜んでいる精神的な態度である。

考えてみれば、こうした前提なり態度なりは多くの死角を自ら抱え込むのみならず、およそ「学ぶ」ことを真摯に考える態度とは正面衝突するような態度である。逆の言い方をすれば、ここには所詮「わからないことはわからない」という、ある種のどうにもならない大きな精神的な壁が横だわっている。前U詰めれば、「学ぶ」という行為は自分に理解できないものは「ない」、「ないに違いない」、「ないことにする」という態度に見られる横着さや怠惰、あるいは、そこから帰結する無理解の怖しさに対する直截な対決的な行為と考えられる。言い換えれば、現実の複雑な様相に対する謙虚さこそが「学ぶ」ことの根底にあるといってよい。

自分に理解できないものは「ない」、「ないに違いない」、「ないことにする」という態度で人生を無事終えることができるならば、これほど心理的に安定した、ある意味では、快適な生き方はないかもしれない。実際、そのためか、人間は新たなことを「学ぶ」よりもこの快適な安定性に固執し、そこに止まろうとする。そして、他の人々がそうした態度に支持を表明し、あるいは、同調してくれるならば尚更である。また、一般に伝統的な社会ではこうした枠組みの安定性が比較的に保証されているが、多事争論の世の中ともなればなかなかそういう安定性を享受することは難しくなる。もし「ない」「ないに違いない」「ないことにする」ということが深刻な欠陥を持つことが明らかになり、そうした処理の妥当性に対して疑問符が付されるようなことがあれば、大きな精神的・心理的なストレスがかかるのは避けられない。自らのこれまでの目線を再検討したり、新しい現実に目を向けなければならないということは、実に「饉陶しい」「不愉快な」話である。極言すれば、今までの自分のあり方が否定されるような話は聞きたくないし、それよりは今まで通りの色眼鏡をかけて過としたいという誘惑はきわめて強いものがある。

つまり、「学ぶ」という行為には「学ぶ」主体のあり方が色濃く投影されるのである。『学問のすゝめ』が言うように、「ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、……自ずから人の心を悦ばしめ」るような学問もあり、それらはこうした「僻陶しい」「不愉快な」話とは比較的に無縁である。何かを「学ぶ」ことを趣味とする場合、それらの持つ効用はこうした直接的な快感に求められることは言うまでもない。

「従僕の目に英雄なし」という形で従僕やそれに連なる人々の認識を批判したヘーゲルその人は、自然界や人間界、歴史や哲学のすべてを体系的に「把握する」ことが可能であると主張した。従僕が現実の一部をすべてだと思い込んでいたのと対照的に、彼は「世界史的な個人」、「世界精神の事業遂行者」を「把握」できると主張した。人間はさまざまな「学ぶ」段階を辿ることによって、概念を通して全体を体系的に「把握」できるというのである。そこにこそ究極の現実、真の現実が「把握」されるというわけであるが、そこには先ほどの従僕の横着さや怠惰とは違う、自らの理解力に対する過剰な自信が顔を覗かせている。

哲学者そのものである自分がすべてを学問的に捉えたという主張には、彼の哲学によって哲学や思想そのものが終末を迎えるという発想が横だわっていた。彼は自らの哲学によって歴史の歩みそのものさえ押し止めようとしたように見える。そして、「学ぶ」ことはこの「すべてが明らかになる」という境地において終点を迎える。すなわち、「学ぶ」ということは彼の哲学の階梯を真摯に辿ることであり、それはやがて無用なものとなる。したがって、「学ぶ」ことが不要になるように、あるいは不要になるために「学ぶ」のである。個人の「学ぶ」という行為は精神という実体との段階的な同一化のためのプロセスを辿ることであり、その終点において「学ぶ」ことは意味がなくなるのである。

ここで考えなければならないのは、従僕の独断的な視座に対するへーゲルの批判-それは自己の固定観念に固執しておよそ「学ぶ」ことに興味を持だない態度への批判-―になるほどと頷きつつも、それでは「学ぶ」ことを不要にするために「学ぶ」といったこうした構想に素直に賛成できるかである。もちろん「学ぶ」ことを不要とするために「学ぶ」という構図に賛成する人もいるであろう。しかし、従僕とヘーゲルとはそれぞれ立場を異にしつつも、自らの立場に潜む死角への視線が欠けている点である種の類似性を持つのではないか。一方は素朴な独断に従って現実を裁断して満足し、およそ「学ぶ」ことへの意欲を持だない態度であるとすれば、他方は複雑な概念操作を行って個と全体との融合の構想を展開したが、「学ぶ」ことを人間のあり方との関係で十分に位置づけていない可能性を無視できない。従僕にははじめから「学ぶ」ことに関心がなかったし、ヘーゲルは哲学体系樹立のために「学ぶ」ことを利用したのであって、哲学体系が完成すればもはや「学ぶ」必要はなくなる。

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