『反知性主義』より
知性とは何か
まず、知性とは何か。「知性」は「知能」とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるか、「知性的な動物」はいないのである。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。
この歴然たる用語法の違いは、何を指し示すか。「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるか「知性犯」はいないのである。
知性をもつのはどんな人か
次に、そのような知性をもつのはどういう人か。「インテレクチュアル」は、形容詞でなく名詞として、ある種の人びとを指すこともある。日本語でいう「知識人」のことである。これも、単に「知能の高い人」というより、その知が人間性全体に働いて影響を及ぼしている人のことを指すだろう。
このような意昧での「知識人」という言葉の使い方は、実は案外新しい。「インテリゲンチア」という言葉がロシア語系の由来であることからもわかるように、それは社会の改良や革命に関心をもつ左翼知識人を指す言葉として登場した。『オックスフォード英語辞典』最新版によると、今日「インテリ」と略して使われるこの用法は、一九世紀末フランスで起きたドレフュス事件に際して被告擁護の論陣を張った文化人らに由来しており、しばしばエリート主義への鄭楡を伴っている。
ただし、知識人はしばしば、みずからそのような権力や制度の一部となる。だから、知識人として生きることには、どうしてもある種の矛盾が伴う。彼らは、自分自身は階級的なエリートでありながら、民主的な大義を信じている。一方では民主制社会の善を信じていながら、他方でそれが結果する文化の大衆化や卑俗化を嫌う。自分が大衆を教育し啓蒙する立場にあることを自覚してはいるか、あまりそれが進みすぎると、自分たちとの差がなくなってしまうことを危惧しなければならない。赤くなったり青くなったり、サディストになったりマゾヒストになったり、何ともは。や複雑な人種である。いずれにしても、「知性をもった人」「知識人」「インテリ」というのは、自分白身の考え方や主義主張や立ち位置に対して、何かと自覚的にならざるを得ない人のことである。
反知性主義とは何か
ということは、「反知性」の意味も、単に知の働き一般に対する反感や蔑視ではない、ということである。それは、「はじめに」に書いたように、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。知性が欠如しているのでなく、知性の「ふりかえり」が欠如しているのである。知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる。どちらにせよ、反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである。
知性が大学や研究所といった本来あるべきところに集積され、それが本来果たすべき機能に専念していると見なされる場合には、反知性主義はさして頭をもたげない。しかし、ひとたびそれらの機関やその構成員が政治権力にお墨付きを与える存在とみなされるようになったり、専門以外の領域でも権威として振る舞うようになったりすると、強い反感を呼び起こす。つまり反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。知的な特権階級が存在することに対する反感である。微妙な違いではあるが、ハーバード・イェール・プリンストンヘの反感ではなく、「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」への反感である。特定大学そのものへの反感ではなく、その出身者が固定的に国家などの権力構造を左右する立場にあり続けることに対する反感である。日本なら、ここに「東京大学」などと代入すればわかりやすい。
反知性主義の存在意義
反知性主義がなぜアメリカで力をもつのか。それは、アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである。ローレン・バーリッツは、ホフスタッターとほぽ同時期の著作で、学界と産業界との産学協同、シンクタンクや政権アドヴァイザーなどに対する強い懸念を示している。学者が大企業や政権から資金を得て研究を進め、原子力政策やその安全性に関する世論操作に加担し、消費者運動や反公害運動を抑制する役割を果たすなら、それらに批判の目を向けるのは、ある面では健康なことだろう。ここに、反知性主義の正当な存在意義がある。
ビリー・サンデーの生きた時代には、教会にも社会階層に従って席の上下があった。野球場ですら、ヒ等なボックス席と雨ざらしの外野席があった。しかしリバイバル集会では、テントの中の同じ簡素なベンチに、大銀行の頭取とすすけた炭坑夫とが隣り合わせで座る。この平等意識がアメリカ人を芯からしびれさせるのである。リバイバリズムは、野卑だが民主的で、力ある者に向かっても怯むことなく顔を上げることのできる根拠を人びとに提供した。マッカーシーは、同じ手法で「神」の代わりに「反共アメリカニズム」を据えたにすぎない。彼もまた、戦闘的な平等主義をもって時の権力者に刃を向けた人物である。彼自身が反知性主義の自己反省力をもっていたようには見えないが、少なくとも彼にエールを送ったのは、時代の反知性主義であった。
キリスト教世界の中でアメリカだけに強く見られる反進化論の風潮も、単なる「宗教」対「科学」という構図だけでは理解できない。ノールという研究者が『神と人種--アメリカ政治を動かすもの』という最近著で明らかにしているように、彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられているからである。これは、本書で見た大きな政府に対するセクト主義的な警戒心の表出に他ならない。
ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人びととは主に南部諸州を中心とした「バイブル・ベルト」の地域にいる人びとである。彼らは、自分の子どもたちに何を教えるべきか、ということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた災議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。反知性主義は、ここにも衣現されている。少なくともその攻撃性は、「反科学」というより「反権力」に由来すると理解した方がよい。
近年のアメリカでは、政府の役割を最小限にし、個人の自由を尊重する「リバタリアニズム」が若者たちの間に大きな広がりを見せているという。彼らの目指すところは、民主党と共和党という二大政党のシステムではもはや吸収しきれない。「小さな政府」は伝統的には共和党の掲げる理念だが、同性婚や大麻の合法化といった主張は共和党の価値観とは相容れないからである。こうした若者たちの動向は、やがて大統領選挙にも影響を及ぼすだろうが、これは政策綱領うんぬんの話であるよりは、ただ「ほっといてくれ」と言っているだけのようにも見える。本書が辿ってきた歴史の経緯からすると、これもアメリカという国家の奥深くに宿る「セクト主義」魂の表出と捉えることができる。
反知性主義のゆくえ
アメリカ的な福音のメッセージは、「誰でも回心してまじめに生きれば救われる」というものである。だからそれは、どん底の暮らしをしてきたサンデーにも、また彼をモデルにした映画の主人公のガントリーにも、希望を与えるのである。どんなに堕落と放蕩の人生を送っていても、回心と再生の希望は誰にでも等しく与えられている。そして、信仰による救いは、この世の成功を一緒に連れてきてくれるのである。
つまり、アメリカ人にとって、宗教とは困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。神を信じて早起きしてまじめに働けば、この世でも成功し、豊かで健康で幸せな人生が送れることが保証されるのである。逆に、悪いことをすれば必ず神の審判を受けねばならない。
エルマー」ガントリーが神の「審き」を口にする時、それは売り上げの減少のことであり、「救い」というのは商売の成功のことである。町から町へとセールスに回っていた彼は、ある安宿でたまたま「ギデオン聖書」を見つけて読む。その翌日に大きな商談が成立すると、彼は祈るのである。「ありがとうございます。神さま、これはわたしが売ったんじゃありません、あなたが売ってくれたんです。」
かくして、宗教的訓練はビジネスの手段のIつとなる。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰をもちなさい。それがあなたを道徳的にし、人格的にし、そして金持ちにしてくれるー-これが、二〇世紀以降のリバイバルで繰り返されるレトリックである。信仰は、この世の成功を保証してくれるのである。第二次大戦後には、ノーマン・ヴィンセント・ピールの「ポジティヅ思考」がアメリカを席巻した。マッカーシー上院議員が知識人や連邦職員を次々に「共産党員」として告発し血祭りにあげていたまさにその同じ頃、ビール牧師の出版した『積極的考え方の力』は、三年続きのベストセラーとなり、多くの言語にも翻訳されて世界中にアメリカ精神の明るさと楽天性を印象づけていたのである。実に奇妙な取り合わせだが、これがまさに反知性主義のアメリカである。
知性とは何か
まず、知性とは何か。「知性」は「知能」とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるか、「知性的な動物」はいないのである。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。
この歴然たる用語法の違いは、何を指し示すか。「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるか「知性犯」はいないのである。
知性をもつのはどんな人か
次に、そのような知性をもつのはどういう人か。「インテレクチュアル」は、形容詞でなく名詞として、ある種の人びとを指すこともある。日本語でいう「知識人」のことである。これも、単に「知能の高い人」というより、その知が人間性全体に働いて影響を及ぼしている人のことを指すだろう。
このような意昧での「知識人」という言葉の使い方は、実は案外新しい。「インテリゲンチア」という言葉がロシア語系の由来であることからもわかるように、それは社会の改良や革命に関心をもつ左翼知識人を指す言葉として登場した。『オックスフォード英語辞典』最新版によると、今日「インテリ」と略して使われるこの用法は、一九世紀末フランスで起きたドレフュス事件に際して被告擁護の論陣を張った文化人らに由来しており、しばしばエリート主義への鄭楡を伴っている。
ただし、知識人はしばしば、みずからそのような権力や制度の一部となる。だから、知識人として生きることには、どうしてもある種の矛盾が伴う。彼らは、自分自身は階級的なエリートでありながら、民主的な大義を信じている。一方では民主制社会の善を信じていながら、他方でそれが結果する文化の大衆化や卑俗化を嫌う。自分が大衆を教育し啓蒙する立場にあることを自覚してはいるか、あまりそれが進みすぎると、自分たちとの差がなくなってしまうことを危惧しなければならない。赤くなったり青くなったり、サディストになったりマゾヒストになったり、何ともは。や複雑な人種である。いずれにしても、「知性をもった人」「知識人」「インテリ」というのは、自分白身の考え方や主義主張や立ち位置に対して、何かと自覚的にならざるを得ない人のことである。
反知性主義とは何か
ということは、「反知性」の意味も、単に知の働き一般に対する反感や蔑視ではない、ということである。それは、「はじめに」に書いたように、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。知性が欠如しているのでなく、知性の「ふりかえり」が欠如しているのである。知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる。どちらにせよ、反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである。
知性が大学や研究所といった本来あるべきところに集積され、それが本来果たすべき機能に専念していると見なされる場合には、反知性主義はさして頭をもたげない。しかし、ひとたびそれらの機関やその構成員が政治権力にお墨付きを与える存在とみなされるようになったり、専門以外の領域でも権威として振る舞うようになったりすると、強い反感を呼び起こす。つまり反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。知的な特権階級が存在することに対する反感である。微妙な違いではあるが、ハーバード・イェール・プリンストンヘの反感ではなく、「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」への反感である。特定大学そのものへの反感ではなく、その出身者が固定的に国家などの権力構造を左右する立場にあり続けることに対する反感である。日本なら、ここに「東京大学」などと代入すればわかりやすい。
反知性主義の存在意義
反知性主義がなぜアメリカで力をもつのか。それは、アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである。ローレン・バーリッツは、ホフスタッターとほぽ同時期の著作で、学界と産業界との産学協同、シンクタンクや政権アドヴァイザーなどに対する強い懸念を示している。学者が大企業や政権から資金を得て研究を進め、原子力政策やその安全性に関する世論操作に加担し、消費者運動や反公害運動を抑制する役割を果たすなら、それらに批判の目を向けるのは、ある面では健康なことだろう。ここに、反知性主義の正当な存在意義がある。
ビリー・サンデーの生きた時代には、教会にも社会階層に従って席の上下があった。野球場ですら、ヒ等なボックス席と雨ざらしの外野席があった。しかしリバイバル集会では、テントの中の同じ簡素なベンチに、大銀行の頭取とすすけた炭坑夫とが隣り合わせで座る。この平等意識がアメリカ人を芯からしびれさせるのである。リバイバリズムは、野卑だが民主的で、力ある者に向かっても怯むことなく顔を上げることのできる根拠を人びとに提供した。マッカーシーは、同じ手法で「神」の代わりに「反共アメリカニズム」を据えたにすぎない。彼もまた、戦闘的な平等主義をもって時の権力者に刃を向けた人物である。彼自身が反知性主義の自己反省力をもっていたようには見えないが、少なくとも彼にエールを送ったのは、時代の反知性主義であった。
キリスト教世界の中でアメリカだけに強く見られる反進化論の風潮も、単なる「宗教」対「科学」という構図だけでは理解できない。ノールという研究者が『神と人種--アメリカ政治を動かすもの』という最近著で明らかにしているように、彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられているからである。これは、本書で見た大きな政府に対するセクト主義的な警戒心の表出に他ならない。
ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人びととは主に南部諸州を中心とした「バイブル・ベルト」の地域にいる人びとである。彼らは、自分の子どもたちに何を教えるべきか、ということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた災議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。反知性主義は、ここにも衣現されている。少なくともその攻撃性は、「反科学」というより「反権力」に由来すると理解した方がよい。
近年のアメリカでは、政府の役割を最小限にし、個人の自由を尊重する「リバタリアニズム」が若者たちの間に大きな広がりを見せているという。彼らの目指すところは、民主党と共和党という二大政党のシステムではもはや吸収しきれない。「小さな政府」は伝統的には共和党の掲げる理念だが、同性婚や大麻の合法化といった主張は共和党の価値観とは相容れないからである。こうした若者たちの動向は、やがて大統領選挙にも影響を及ぼすだろうが、これは政策綱領うんぬんの話であるよりは、ただ「ほっといてくれ」と言っているだけのようにも見える。本書が辿ってきた歴史の経緯からすると、これもアメリカという国家の奥深くに宿る「セクト主義」魂の表出と捉えることができる。
反知性主義のゆくえ
アメリカ的な福音のメッセージは、「誰でも回心してまじめに生きれば救われる」というものである。だからそれは、どん底の暮らしをしてきたサンデーにも、また彼をモデルにした映画の主人公のガントリーにも、希望を与えるのである。どんなに堕落と放蕩の人生を送っていても、回心と再生の希望は誰にでも等しく与えられている。そして、信仰による救いは、この世の成功を一緒に連れてきてくれるのである。
つまり、アメリカ人にとって、宗教とは困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。神を信じて早起きしてまじめに働けば、この世でも成功し、豊かで健康で幸せな人生が送れることが保証されるのである。逆に、悪いことをすれば必ず神の審判を受けねばならない。
エルマー」ガントリーが神の「審き」を口にする時、それは売り上げの減少のことであり、「救い」というのは商売の成功のことである。町から町へとセールスに回っていた彼は、ある安宿でたまたま「ギデオン聖書」を見つけて読む。その翌日に大きな商談が成立すると、彼は祈るのである。「ありがとうございます。神さま、これはわたしが売ったんじゃありません、あなたが売ってくれたんです。」
かくして、宗教的訓練はビジネスの手段のIつとなる。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰をもちなさい。それがあなたを道徳的にし、人格的にし、そして金持ちにしてくれるー-これが、二〇世紀以降のリバイバルで繰り返されるレトリックである。信仰は、この世の成功を保証してくれるのである。第二次大戦後には、ノーマン・ヴィンセント・ピールの「ポジティヅ思考」がアメリカを席巻した。マッカーシー上院議員が知識人や連邦職員を次々に「共産党員」として告発し血祭りにあげていたまさにその同じ頃、ビール牧師の出版した『積極的考え方の力』は、三年続きのベストセラーとなり、多くの言語にも翻訳されて世界中にアメリカ精神の明るさと楽天性を印象づけていたのである。実に奇妙な取り合わせだが、これがまさに反知性主義のアメリカである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます