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三つの異なる承認関係

『不安時代を生きる哲学』より 存在価値への承認が失わわる不安

まず、承認の欲望が満たされるような経験を考えてみることにしよう。

幼い頃、母親に無力な自分を受け止めてもらったり、はじめて描いた絵をほめられたこと。学校の同級生にテストの成績や特技を称賛されたこと。あるいは遊びに誘われて仲間に入れてもらえたことや、クラブ活動でお互いの努力を認めあったこと。職場で仕事の実績が認められ、同僚や上司に称賛されたこと。人助けをして見知らぬ人々から称賛を受けたこと。そして、恋人や親友にありのままの自分を受け止めてもらったこと。

ざっと思い浮かべただけでも、さまざまな承認のパターンが考えられるのだが、こうした承認のパターンをそれぞれ比較し、他者との関係性の違いから検討してみるなら、次のような三つの異なった承認のタイプが浮かび上がってくる。

まず一つは、家族、恋人、親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者の承認。それは「ありのままの私」が無条件に受け入れられている、と感じられる承認であり、私たちはこうした親密な相手と一緒にいるときには、とても自然体でいられるし、素直になりやすい。

こうした愛と信頼の関係にある親密な人々を「親和的他者」、そこに生じる存在そのものの承認を、私は「親和的承認」と呼んでいる。

二つめは、学校や部活の仲間、職場の同僚、宗教や地域活動、趣味のサークルの関係者など、自分が所属する集団の人々による承認。これは集団が共有している目的、価値観、ルールに基づいた承認であり、集団における役割の遂行、貢献、仲間への協力的態度や気配り、および集団で重視されている知識や技能の披露など、同じ集団の人々がその価値を認めるか否かにかかっている。

親和的承認が「無条件の承認」に近いとすれば、こちらは「条件つきの承認」であり、相手にとって価値のある行為が必要になる。このような関係にある人々を「集団的他者」、その承認を「集団的承認」と呼ぶことにしよう。

三つめの承認も価値ある行為が対象だが、その価値は自分の属する集団に限定されない、社会で一般的に共有された価値観、ルールに基づいている。たとえば、学問的知識や優れた技能、運動能力、人助けのような道徳的行為は、広く社会一般の人々に認められるだろう。そこには当然、見知らぬ大勢の他者も含まれている。

こうした見知らぬ他者を含んだ不特定多数の他者一般のことを「一般的他者」、彼らの承認のことは「一般的承認」と私は呼んでいるが、それは実際に獲得できる承認というより、内面で想定された承認である。

たとえば電車のなかで倒れかかった人を助け、周囲にいた人々の共感や称賛を得た場合、確かに一般的承認を得たような感覚はあるだろう。しかしこの場合、私たちは実際に得た身近な人々の承認だけでなく、ほぼ同時に、見知らぬ大勢の人々の承認をも確信している。「誰であれ、正しいおこないだと認めてくれているだろう」と、心のどこかで感じている。 自分の行為が正しいかどうか、価値ある行為なのかどうかを、もっと具体的にシミュレーションしてみる場合もある。さまざまな他者を想定し、一般の人々はこの行為をどう思うだろうか、誰もが正しいと認めてくれるだろうか、という具合にあれこれ吟味するのだ。要するに「一般的他者」とは、内面で想定された他者一般の表象なのである。

以上の三つの承認をまとめると、およそ次のようになるだろう。

 1.親和的承認……愛と信頼の関係にある他者(親和的他者)の承認→存在の承認

 2.集団的承認……役割関係にある同じ集団の他者(集団的他者)の承認→行為の承認

 3.一般的承認……社会的関係にある他者一般二般的他者)の承認→行為の承認
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