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ヘルシンキとペテルスブルグの図書館に行こう

『拝啓 市長さま、こんな図書館をつくりましょう』より 私がほしい図書館 ⇒ 2018年にヘルシンキとペテルスブルグの図書館に行くことに決めました。ヘルシンキの旧図書館と現行図書館には行きました。乳母車の女性に玄関を開けるのを手伝ったら、「キートス」と声をかけられた。ペテルスブルグ図書館は出張中であったので、中には入れなかった。後日、ロシア革命時にこの図書館から出撃したということを知りました。ペテルスブルグは高さ制限されているので、屋上からの景色は見物です。

未来はわれらのもの

 図書館は目下、ぞくぞくと建設されている。2013年にはバグダッド新中央図書館、バーミンガム図書館(設計はメカノ)、ウィーン・ラーニング・センター(設計はザハ・ハディド)、2015年秋にはデンマーク・オーフスに革新的なプロジェクトをもったアーバン・メディアスペース、2016年にはフランス・カーンにシアトル公共図書館を設計したOMAによるBMVRとアメリカ・オースチン新中央図書館、2018年にはフィンランド・ヘルシンキに中央図書館が建設予定である。アメリカではカラフルな「グリーンライブラリー」がいくつも建設されている。建築雑誌やサイトではコンペの募集に事欠かない。もっとも最近のコンペには、台湾∵台中市の図書館と美術館の複合施設があった。イタリアでは新築図書館というよりリノヴェーションの計画がいたるところで進行しており、なかでもメルツォ、キヴァッソ、ピサでは、ようやく時代に即した公共図書館が建設され始めた。2012年には1200万ユーロを投入した新図書館がチニゼッロ・バルサモに開館し、2013年にはチェゼナの歴史あるマフテスティアーナ図書館で閲覧室だけの新館が完成した。その他、2010年には、モデナ(サンタゴスティーノ図書館との複合)、モンツァ、2012年にはクネオなどで、図書館の立て直し計画が進んでいる。

 このように図書館が建設され続けるのは惰性からではない。あるいはヨーロッパ財政、または地方財政から何らかの予算が降って湧いてくるからではない。それはおそらく、私たちが図書館のことを拠り所、永続的な場所、そして時にはジグムント・バウマンの言う「液状化する社会」での頼みの綱として無意識的に知覚しているからだろう。喧噪にまみれた私たちの町のなかで、図書館には静寂さと秩序が君臨している。私たちは日々、情報の集中砲火に晒されている。図書館は私たちがそれから逃れ、雪崩のように押し寄せる情報を吟味する助けとなる。建築家ピエール・リブレが明言したように、図書館は「世界に開かれた閉じた場所」であり、その空間は「静寂」でありながらも決して独りにはならない場所なのである。

永続する機関としての図書館

 図書館は、国歌斉唱よりはるかに私たちを「元気」づける。なぜなら図書館は、次世代の利益を重んじるささやかな証だからである。図書館は、私たちの生産物すべてが「使い捨て」文化に属するのではなく、私たちが記憶を所有していることを体現する目に見えるシンボルである。図書館を維持し続ける理由として、これだけでも充分だろう。イギリスの作家ゼイディー・スミスは次のように書いている。「私はそこで、その机で勉強していた。私はそこで、公衆電話ボックスがあったところで一人の男の子に出会った。私はそこで、学校の同級生だちと一緒に『ピアノ・レッスン』や『シンドラーのリスト』を観た(もう上映室はない)。そしてそこで、コーヒーを飲みながら(もうカフェはない)芸術について真剣に話し、すばらしい意図のある映画とすばらしい映画は同義ではないかもしれないと初めて思った。[・・・]こんな思い出話にヘレンと花を咲かせているまさにそのとき、地元の役所が図書館の取り壊し計画をすすめていると知った。あの本屋、あの18世紀の小塔、あの思い出の場所、あの4人の酔っ払いが座っていた「出っ張り」も壊される、跡地には豪奢なマンション、とても小さな図書館、ショッピングモールが建つらしい、そして、そこに本屋は一軒もないのだと」

 図書館は理解しうる過去があること、そして過去の延長上に現在があるということを明らかにする。図書館は私たちが生きる現在の世界を再構築させる「知識の家」である。1941年、ナチスがレニングラードを包囲したとき、図書館は開館していた。そのときのことを著したアメリカ人ジャーナリスト、ハリソン・ソールズベリーはこんなふうに書いている。「9月の終わりのある日、ドレヴィンはレニングラード図書館の屋上にいた。日差しの強い暑い日だった。[・・・]ドイツ軍の戦闘機が夏公園の方角から図書館の方へ向って来るのを見た。爆弾が落とされ始めた。一つはサーカス劇場の近くに、もう一つはネフスキー大通り辺りだ。戦闘機は普通、4つの砲弾を積んでいる。図書館も爆撃されるだろうか? いや、図書館は爆撃を受けなかった」(『攻防900日 包囲されたレニングラード』)。この話はただ運が良かっただけかもしれない。だが私はそのドイツ軍パイロットが図書館を尊重したのだと信じたい’。

 図書館はGoogleとは反対に、混迷し、変化し、苦悩に満ちた外部世界の現実を監視し、100年あるいは200年後、つまり今日の電子リーダーがとうの昔に忘れ去られてしまった頃にも、一冊の『戦争と平和』を見つけられることを私たちに約束する。図書館は、未来への投資であって、過去への投資ではないのである。

 国立図書館に収蔵された資料は、普通、火事や略奪に遭わない限り、300年後もそこにある。ネット上に昨日あったものは数年先にもあるだろうが、変わることなくつねにあるという保証はどこにもない。アメリカ人はこのことについて疑いを抱いていない。80%の成人が「紙の本」の貸出は「とても重要な」サービスであり、情報を検索する際に助けや指針を与えてくれる図書館員の存在も同様に重要だと認めている。

 したがって、私たちはこのような図書館の静かなる力、つまり安定性という価値を高め、図書館をローバート・パットナムのような社会学者が言うところの「社会資本」に変えていかねばならない。そうすることが共同体をまとめ、社会生活の質を向上させるのである。

 新たなテクノロジーや現代生活のマルチタスクについて論じる記事が紙面を賑わせている(その多くが的外れではあるが)。それらはどれも図書館のような機関とは無縁のように見える。しかし調査を追って行くと、少なくともアメリカに関して言えば、そうでもなさそうである。

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