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エジプト 岐路に立つ大国

『エジプト 岐路に立つ大国』より

古代エジプトの新王朝の実質的な創設者だったイアフメス王は、自らのファラオとしての信任を「秩序(マート)の維持)と「混沌(イスフェット)の回避」だと述べている。二一世紀の一〇年代の初頭を迎えている今日、数多くの要因は、エジプトが混沌に陥るのか、それともその未来を掌握して秩序を定着させることができるのかという二者択一を決定しようとしている。

ムバーラク以降のエジプトを支配しているのは、三つの勢力、つまり軍部と、いくつかの組織とその構成員によって推進されているイスラーム主義運動と、エジプトの自由主義を構成している様々な集団である。エジプトに共和制を確立した一九五二年のクーデター以降、軍部(陸・海・空の全軍と情報部)は、それによって大統領がエジプトを支配する枠組みを提供してきた。ナセルの人気と人々の心を動かす力、サダトの大規模な改革、ムバーラクの長期政権にもかかわらず、三人の大統領は、すべて軍歴、戦争の指導力によって得られた威厳、軍部の圧倒的な支持に依存していた。軍部は、武力によって変革に影響を与えることができる、大統領による支配を支持するエジプト唯一の組織だったからである。また、その返礼として、三人の大統領は、軍部の「友」を自認するとともに、国家の指導者という立場からすれば、実質的には軍部の代表者でもあった。そうした位置づけは、ナセルがクーデターの指導者からエジプトの英雄へとしだいに変化していき、サダトが一九七三年の第四次中東戦争を勝利に導いた指導者から和平と繁栄をもたらした大統領へとイメージを変えていったように弾力的だったとはいえ、エジプトの権力の力学を明示していた。エジプトは、一九六〇年代から一九八○年代のラテンアメリカの数多くの国々と同じような意昧合いにおける軍事独裁政権だったことはただの一度としてない。また、トルコとは異なって、軍部が「国家の守護者」の役割を担ったこともけっしてなかった。だが、権力を行使するすべての手段は一貫して大統領が掌握しており、軍部そのものがエジプトを支配するようなことはなかったとはいえ、軍部は、エジプトのいかなる組織にも優先する、独立した別格の地位を享受してきた。

そうした権力の力学は、過去一〇年間において、たとえ崩壊とはほど遠いとしても、動揺してきた。自由主義的な資本家のエリート集団が、ムバーラク政権の中枢部の一翼を担う有力な権力者集団として台頭して経済、財務、公共事業といったエジプト国民の日常生活に直接影響を与える分野に自らの勢力圏を切り拓き、軍部を、防衛、国家安全保障、対外政策といった国家主権の領域の限られた分野に追いやったからである。軍部と自由主義的な資本家のエリート集団の間の勢力のバランスは、ムバーラク大統の存在によってのみ保たれていた。ムバーラク大統領は権力の頂点に位置していた。ムバーフク大統領が突出した権威によって自由主義的な資本家の大立て者に指示を出していたことは明白であり、それによって軍部が感じ取っていた懸念の一部が軽減されていた。だが、そうした勢力のバランスは、維持できない類のものであることが明らかになった。ムバーラク大統領が政権と密接な関わりを形作っていた多くの資本家たちに権限の一部を委任したことは、政権の正当性の腐食、意思決定機関の弱体化、権力と資本の癒着、ムバーラク政権を崩壊に追い込んだ民衆の怒りを招いたからである。

エジプト内外の情況分析者たちは、ムバーラク以後のエジプトの権力の力学に関する創造的なシナリオの立案に精力を傾けてきた。エジプト軍最高評議会によって率いられた軍部は、二〇一一年のムバーラク退陣後のエジプトを支配してきた。二、三ヶ月のうちに最高評議会は、三月の国民投票を通して憲法を部分的に改定するとともに、すべての政党を招集して国民的な対話を主催し、国民民主党を支配していた資本家たちを完全に排除した新たな政府を暫定的に樹立することによって、二〇一一年の人民議会選挙とその後数ケ月におこなわれる大統領選において頂点を迎える一連のプロセスに着手した。

経済的な関心と常態への復帰を何にも増して最優先させていたほとんどのごく普通のエジプト国民は、これらの経緯を、これまでよりはるかに開かれた政治制度に至る段階として好意的に受けとめていた。そうした理解は、イスラーム主義運動が最高評議会の様々な決定を支持したことによって補強されていた。エジプト全土のモスクのイマーム(モスクにおける集団礼拝の指導者)と数多くの説教者たちは、エジプトを安定させる軍部の役割を賞賛し、「忠実な信者たちに対して混沌と混迷を近づけないよう」警告した。ムスリム同胞団の指導的な人物は、軍部が構想し着手した政治的なプロセスを強力に支持した。軍部とイスラーム主義政治集団の間のそうした緊張緩和は、ムバーラク政権の後者に対する粗暴な敵意とは著しく異なっており、今日のエジプトのもっとも強力な二つの政治的な勢力の間の利害関係の一致を示していた。来るべき人民議会選挙において最大の議席を獲得する力量に自信を深めており、守るべき膨大な経済的利益を持っている同胞団は、その主要な任務が社会と政治を安定的な状態に穏やかに復帰させることだと理解しており、同じように経済に大きな権益を有している軍部と波長が合っていたのである。こうした緊張緩和は、三月の国民投票の結果として、蜂起を推進した自由主義的な若者たちの影響力をさらに弱めた。これらの集団の一部は、しだいにエジプト軍最高評議会の権力の抑制と、大統領選が実施されるまでの期間においてエジプトを支配する「文民大統領評議会」の設立を求めるようになっていった。若者たちの数多くの集団は、二〇一一年五月に「怒りの第二日」(二〇一一年一月二五日が蜂起を起動させた最初の日であることに由来する)を組織し、人民議会選挙に先行する憲法の起草や「腐敗した前政権の指導者たちの速やかな裁判」など数多くの要求を表明した。同胞団は、これらの示威運動をボイコットし、その多くの指導者たちは、「活動家集団」と「圧倒的大多数のエジプト国民」の間の明白な見解の相違を指摘した。一部のサラフィー主義者たちは、その抗議が「非宗教的」であると非難した。だが、エジプトの自由主義者とイスラーム主義者の間の対決が強まっていくただ中において軍部の支配的な影響力は、明日のエジプトを形成する不可欠の原動力であり続けている。
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