goo

現実の多層性

『子どもの本を読む』より なぜ子どもの本か

現代において、子どもは大人の見失。ている真実を見ると述べた。しかし、それは子どもの見ているものが真実であり、大人の見ているものが偽であるというのではない。現実というものは極めて多層的であり、それはさまざまの真実を包含していると考えられる。たとえば、第二章に取りあげる少年ベンと小犬の関係を見てみよう。小犬は少年にとって、まさにかけがえのないものであり、それが無かったら生きてゆくのも難しいものである。これも真実である。しかし、小犬というものは、ある地域に住む人にとっては飼ってはならぬものであり、何も犬など居なくても人間は生きてゆくことができる。これもひとつの真実だ。主人公の少年ベンにしても、幻の犬を追って命を失いかけるょうな体験をする一方では、ついに犬を手に入れたときには、その犬を棄ててしまいたいくらいの気持をさえ体験させられるのである。多層な現実のなかにあって、単純に見つからぬ解答を求めて苦悩するとき、そこに個性的な道が拓けてくる。世界を単層的に見ると、統一理論が見つかり、一般的な答が見出される。そこに文学がはいりこんでくる余地はない。それにしても、現実の多層性に目を向けて、それを避けずにいることは苦しいことだ。さりとて、苦しみのない楽しみなんてものはないし、苦しみに支えられない個性的な生き方など考えられないのである。

現代の世界があまりにも単層的な様相を示す理由として、自然科学の急激な発展と、それに見合う経済の発展とがあげられるであろう。現実を見る目は実のところいろいろとあるのだが、そのなかで自然科学の目は一番大きい飛躍を人間にもたらしたと言える。矛盾を内部に含まない整合的な理論によって、自然科学の体系は成り立ち、それによって人類は多くの恩恵を受けている。しかし、そのような科学の知識を実際に応用し、人間の生活に結びつけるためには大きい経済機構が必要である。そして、何のかのと言っても現代人であるかぎり、科学や経済の力と無縁に生きてゆくことなど不可能なのである。大人になるためには、それに必要な知識を身につけ、その機構に適合する存在となふてゆかねばならない。その過程を無自覚に生きてゆくかぎり、大人の目は現実を単層的にしか見なくなってゆくのである。そのような努力を続けてゆく一方、大人たちは言い難い窮屈さや不安を感じはじめている。これはむしろ当然のことであり、人間というものはそんなに単層的な存在ではないからである。このために、単層な世界観を裏がえしにして、それを武器に発言しようとする人も、現在では相当に出てきたように思う。自然にかえれ、と言ってみたり、経済の発展を罪悪視したり。しかし、単層の裏がえしも所詮は単層であって、本質的にはあまり変りがない。裏がえしの主張に支えられている作品は、強力な主張と干涸びた個性を特徴としているようである。

現実の多層性は、単純にぴとつの真実を告げてくれない。対立する見方が存在するなかで、そのどちらか二方を善とか悪とか断定することなく、第三の道をまさぐってゆく過程が大切となる。対立するもののどちらかを正しいと考えたり、善と考えたりすることなく、その対立のなかに身を置くことは大変なことである。もちろん、これは善悪の判断を避けて、状況から逃避することとは、まったく異なるものであるのは言うまでもない。実のところ、避けるどころか、状況の真只中にはいりこんでゆくのである。このょうな苦しい状態に耐え、個性的な道を見出すための基盤として、すべての場合に、何かを愛すること、好きになることが存在していることは、注目に値することである。

ここに取りあげたほとんどの作品において、愛することが、表になり裏になる相違はあるとしても、大切なテーマとして存在していることに読者は気づかれるであろう。考えてみると、何かを好きになるということは不思議なことだ。どうして、ベンは犬を好きにならなければならないのだろう。犬以外のもの、たとえば小鳥だったらいけないのだろうか。傍から見ていると、それは馬鹿げて見えたり滑稽に見えたりすることさえある。ここに現実の多層性が大いにかかわ。てくる。犬と言っても、その犬に何を見ているかによって、価値はまったく変ってしまうのである。愛することという不可解な力によって、人間は現実と個性的にかかわるための苦しみを乗り越えてゆけるようだ。

愛することは、愛されないこと、愛さなくなること、愛するものを失うことなどの対極をもち、その対極の存在によって、その行為は、ますます深められることになる。愛するが故に、愛するものを自ら失うことによってこそ、愛が完成することもある。このような困難なパラド″クスを『ねずみ女房』(第七章)という作品は、われわれに告げてくれる。そんなパラド″クスが果して子どもに解るのだろうか、などと心配する必要はない。パラドックスなどというのは大人の言葉であって、子どもたちは、この事実をそのまますっと受けとるのである。われわれ大人は子どもたちを、もっともっと信頼していいのだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« カントの『地... 考える態勢 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。