未唯への手紙
未唯への手紙
フライブルク ドイツで最も美しい「環境都市」
『ドイツの田舎』より
オーバーライン(ライン川上流)の中核都市であり、ウィーンとパリを結ぶ街道のほぼ真ん中に位置していたため昔から北ヨーロッパの十字路として栄えた。十四世紀から十八世紀末までの四百余年間はオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあった。『ベルサイユのばら』で一躍日本でも知られるようになったオーストリア・ハプスブルク家の公女マリー・アントワネットが一七七〇年にフランス王ルイ十六世にお輿入れする時にはフライブルクへ立ち寄っている。
この街道は旅行者だけではなく、大量の物資も行き交った。中でも塩はオリエントからの品々と同様に高価な商品として、ここで取引された。その名残が「塩通り(ザルツ・シュトラーセ)」として今もこの町の通りの名に残っている。
塩が巨大な利益を生んでいた証拠が町の東に立っているシュワーベン門である。商売上手のシュワーベン地方の商人が寄贈した。第二次世界大戦でドイツが降伏する半年前にイギリス空軍はこの町に猛爆撃を加え三千余の死者を出した。これにより旧市街は壊滅した。しかしシュワーペンの門だけは瓦傑の中に立ち続けた。
夕景の美しい町としても知られているので夕暮れ時にシュロスベルク(城山)に登ってみると良い。ミュンスター広場の大聖堂(ミュンスター)が朱に染まり、カイザーシュトゥール(皇帝の椅子)の丘陵、さらにはフランスのボージエ山脈が黄昏に浮かぶ美しい光景が地平に展開する。ちなみにカイザーシュトゥールは芳醇なワインの産地としても知られている。
シュロスベルクの高台はいわゆる「黒い森」の先端にある。十七世紀にフランスのルイ十四世(太陽王)はここに城塞を築いて五千人の兵を配置した。それがシュロスベルクという名前の由来となった。「黒い森の出口にありラインに面している」という戦略的にもってこいの地形であったので三十年戦争(一六一七~四八)の時にはハプスブルク家のオーストリア軍が駐屯してライン川を挟んでフランス軍の動きを封じた。
この町も大学町である。しかしハイデルペルクと比べるとはるかに自由闊達な雰囲気を感じる。それはおそらくオーストリアやフランスと目と鼻の先にあるという位置も大きく影響しているかもしれない。
ハイデルベルクはドイツ哲学の地であるだけに骨の髄までドイツを感じさせる。一方フライブルクには軽々とした解放感がある。この地域はスイスの北半分とフランス南東部と合わせて昔から「アレマン」と称していた。現在でもこの地域で暮らす人々は「我々はアレマン人」と言う。そんなことにも二つの大学町にも違いが表れている。
ついでながらアレマンというこの言葉は現代フランス語などでもドイツを表す言葉として使われている。アレマンの旗は「白地に染めぬいた赤の十字」。「赤の十字」は「塩の道」とオーストリアからフライブルクに至る「ヨーゼフ皇帝街道」を意味している。
「ドイツで最も美しい環境都巾」という栄誉が与えられているフライブルクは、戦後の復興の時間に住民たちが一大議論をして「旧街街には車を入れない」ことを決定した。票差は僅差であったが決定には反対派も従った。旧市街には歩道に沿って浅い水道が造られていて、そのせせらぎが独特の落ち着きを生んでいる。夏には子供が手を浸して遊び、散歩に連れ出された犬が喜々として水飛沫を立てながら跳ねまわっている。広場では老若男女が気ままに語り合ったり、楽器を奏して夕べの一時を楽しんでいたりする。
最後に大聖堂。赤色の砂岩で造られたドイツ・ゴシック建築の最大傑作とされている。大聖堂の外壁にはパンの形や度量衡の目盛りが刻まれている。この町が商取引で栄えていた中世の名残である。大聖堂は一二〇〇年ころに建築され始め一五ご二年に基本型ができあがった。この広場は再建された古い家々に囲まれている。
オーバーライン(ライン川上流)の中核都市であり、ウィーンとパリを結ぶ街道のほぼ真ん中に位置していたため昔から北ヨーロッパの十字路として栄えた。十四世紀から十八世紀末までの四百余年間はオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあった。『ベルサイユのばら』で一躍日本でも知られるようになったオーストリア・ハプスブルク家の公女マリー・アントワネットが一七七〇年にフランス王ルイ十六世にお輿入れする時にはフライブルクへ立ち寄っている。
この街道は旅行者だけではなく、大量の物資も行き交った。中でも塩はオリエントからの品々と同様に高価な商品として、ここで取引された。その名残が「塩通り(ザルツ・シュトラーセ)」として今もこの町の通りの名に残っている。
塩が巨大な利益を生んでいた証拠が町の東に立っているシュワーベン門である。商売上手のシュワーベン地方の商人が寄贈した。第二次世界大戦でドイツが降伏する半年前にイギリス空軍はこの町に猛爆撃を加え三千余の死者を出した。これにより旧市街は壊滅した。しかしシュワーペンの門だけは瓦傑の中に立ち続けた。
夕景の美しい町としても知られているので夕暮れ時にシュロスベルク(城山)に登ってみると良い。ミュンスター広場の大聖堂(ミュンスター)が朱に染まり、カイザーシュトゥール(皇帝の椅子)の丘陵、さらにはフランスのボージエ山脈が黄昏に浮かぶ美しい光景が地平に展開する。ちなみにカイザーシュトゥールは芳醇なワインの産地としても知られている。
シュロスベルクの高台はいわゆる「黒い森」の先端にある。十七世紀にフランスのルイ十四世(太陽王)はここに城塞を築いて五千人の兵を配置した。それがシュロスベルクという名前の由来となった。「黒い森の出口にありラインに面している」という戦略的にもってこいの地形であったので三十年戦争(一六一七~四八)の時にはハプスブルク家のオーストリア軍が駐屯してライン川を挟んでフランス軍の動きを封じた。
この町も大学町である。しかしハイデルペルクと比べるとはるかに自由闊達な雰囲気を感じる。それはおそらくオーストリアやフランスと目と鼻の先にあるという位置も大きく影響しているかもしれない。
ハイデルベルクはドイツ哲学の地であるだけに骨の髄までドイツを感じさせる。一方フライブルクには軽々とした解放感がある。この地域はスイスの北半分とフランス南東部と合わせて昔から「アレマン」と称していた。現在でもこの地域で暮らす人々は「我々はアレマン人」と言う。そんなことにも二つの大学町にも違いが表れている。
ついでながらアレマンというこの言葉は現代フランス語などでもドイツを表す言葉として使われている。アレマンの旗は「白地に染めぬいた赤の十字」。「赤の十字」は「塩の道」とオーストリアからフライブルクに至る「ヨーゼフ皇帝街道」を意味している。
「ドイツで最も美しい環境都巾」という栄誉が与えられているフライブルクは、戦後の復興の時間に住民たちが一大議論をして「旧街街には車を入れない」ことを決定した。票差は僅差であったが決定には反対派も従った。旧市街には歩道に沿って浅い水道が造られていて、そのせせらぎが独特の落ち着きを生んでいる。夏には子供が手を浸して遊び、散歩に連れ出された犬が喜々として水飛沫を立てながら跳ねまわっている。広場では老若男女が気ままに語り合ったり、楽器を奏して夕べの一時を楽しんでいたりする。
最後に大聖堂。赤色の砂岩で造られたドイツ・ゴシック建築の最大傑作とされている。大聖堂の外壁にはパンの形や度量衡の目盛りが刻まれている。この町が商取引で栄えていた中世の名残である。大聖堂は一二〇〇年ころに建築され始め一五ご二年に基本型ができあがった。この広場は再建された古い家々に囲まれている。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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第一回がフライブルグでしたよね。
北欧を良かったけど、ドイツに行きたかった。
九月には行こうね。車とか電柱がない街をイメージしましょう。