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サルトル ヒトラーという衝撃 知らないことがあった

『サルトル、存在と自由の思想家』より 転覆する世界--戦場の哲学者

 一九三九年九月一日午前、臨時に召集されたドイツ第三帝国議会で、五十歳の総統アドルフ・ヒトラーは、前夜ドイツ・ポーランド国境において、ポーランド正規軍による数多くの侵略があり、今朝五時四十五分以来、ドイツ軍が反撃に出ている旨を述べた。しかしこの「ポーランド軍による侵略」は、もちろんヒトラー秘密部隊による偽装襲撃であり、そのころナチス・ドイツ軍は、帝国全兵力の五六パーセント、機甲師団のすべてを含む五十七個師団をもって、いっせいにポーランド国境を突破、首都ワルシャワに向け進撃していたのである。

そのとき本編の主人公、パリのリセ(高等中学)、パストゥール校教授ジャン=ポール・サルトルは三十四歳で、女子リセのモリエール校教授、三十一歳のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに、パリにいた。二人は南仏の海辺の保養地、ジュアン日レトパンにある知人の別荘で避暑中だったが、独ソ不可侵条約締結を知り、ヒトラーによる大戦勃発、対独動員がかかる可能性を考えて、八月二十三日に憂鬱な心でパリに戻ったばかりだった。

それにもかかわらずサルトルは、一年前の一九三八年九月、英仏がチェコスロバキアに屈辱的妥協を強いたミュンヘン協定により、ぎりぎりのところで大戦が回避された前例もあり、当時の恋人「ルイーズ・ヴェドゥリーヌ」(ボーヴォワールの教え子、本名ピアンカ・ビーナンフェルド)宛の八月末の手紙にもあるように、「本当に戦争が起こるとは思っていな」かったようである。八月三十一日付ルイーズ宛の手紙にも、「信用してほしい。ドイツ国民の今の精神状態でヒットラーが戦争を始めようとすることなどありえない。これはこけおどし塔」と断定的に書いている。

しかし、この手紙の書かれた八月三十一日、ヒトラーの秘密工作機関によって、「ポーランド軍によるドイツ国境侵犯事件」が握造され、翌暁には一五〇〇機の航空機、二五〇〇両の戦車が、ポーランド国境を越えたのだった。

九月二日、フランス全土で動員令発動。サルトルはフランス東部ロレーヌにある都市ナンシーの第七〇師団配属のため、早朝七時五十分にパリ東駅を出発した。さらに翌三日には、午前十一時にイギリスが、また午後五時にはフランスが対独宣戦を布告、第二次世界大戦の勃発である。

この戦争はサルトルにとって、その勃発自体がヒトラーに対する完全な「敗北」でもあった。なぜなら、世界を自らの意識の光で隅々まで照らし、インドのもアトス山の正教の司教も、ニュー・ファウンドランドの漁夫たちまでも、知らないことがおよそこの世にないことを目指していたサルトルにとって、ヒトラーとその第三帝国の巨大なうごめきを、全く捉えることができなかったからである。

それだけではない。厄災はたちまちサルトル自身にも襲いかかった。彼はすでに長編小説『嘔吐』でゴンクール賞候補になり、短編集『壁』では文壇の重鎮ジッドの激賞を受け、また、哲学書『想像力』を刊行し、さらには『NRF』に評論「フランソワ・モーリヤック氏と自由」ほかを続々と発表して、着実に文名をあげていた。このフランス文化界のニューフェースは、アグレガシオン(教授資格試験)を一番で通った、エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)卒業の秀才であり、新進作家・批評家・哲学者として嘱望されていたにもかかわらず、軍隊手帳を持ち九月二日早朝の列車ですし詰めにされながら、一兵卒としてドイツ国境に近いナンシーに向かわねばならなかったからである。

後にサルトルは、九月一日の衝撃を、『シチュアシオンⅣ』所収の「ポール・ニザン」の中で振り返る。

九月になって……私は仰天した。……私は、立ったまま居眠りをしていた一つの世代--われわれの世代--全体の、途方もない過失をも同時に発見したのだ。大戦前夜の狂暴な一時期を通じて、われわれは虐殺へとかり立てられていたのに、自分では〈平和〉の芝草の上を悠々と歩いているつもりだったのだ。

サルトルは、「ぼくはどんなことをも、もっともよく知っている人間でありたい」と願い、自分では「外交問題についてはいっぱしの知識を自負していた!」。しかも彼はドイツに留学もして、彼の地と人々のことは多少なりとも理解していると自信を持っていた。にもかかわらずこの九月一日を予想できなかった失策は、政治に目を開く絶対的必要性をサルトルに目覚めさせた。この失策から半年あまりたった一九四〇年二月、「奇妙な」膠着状態の前線から休暇でパリに戻ったサルトルについて、それはヒトラーのさらなる悪意に決定的に襲われる三ヵ月前であったが、ボーヴォワールは次のように記している。
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