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中国の計画経済の特徴 地方分権

『現代中国経済』より 中国の計画経済の特徴

こうした国防優先の政策は国民生活に大きな犠牲を強いた。もとはと言えば、中国がソ連と異なる独特の社会主義を目指しはじめたことが問題の発端なのであるが、中国がソ連との対立と孤立という代価を払ってまで推し進めようとした独特の社会主義とはどのようなものであろうか。

その最大の特徴は地方分権的であるということである。ソ連のように中央政府に権限が集中し、末端まで中央の指令に基づいて動くような経済体制に対して、毛沢東は1956年に行った「十大関係を論じる」という演説のなかで違和感を表明し、もっと地方政府や大衆の自発性を生かすことが必要だと主張していた。1958年には実際に、中央政府に所属していた国有企業をほとんど地方政府に移管するとともに、経済計画の作成と実行、投資の実施といった権限も大幅に地方に移管する急激な地方分権化を行った。同じ年の8月に、毛沢東は同年の鉄鋼生産を前年に比べて2イ音に増やすという無謀な方針を突然打ち出した。分権化によって投資権限を獲得した地方政府はこの方針に積極的に反応し、鉄鋼業のみならずさまざまな工業の建設に邁進した。

工業に急激な投資がなされたため、第2次産業(鉱工業と建設業)の労働者数は1957年の2115万人から58年には7034万人へ一気に増加した。この労働者たちは農業から引き抜かれてきたので、農業の就業者は逆に2割も減少した。この影響で穀物生産は翌59年以降急減し、中国全体が深刻な食料不足に陥った。人口統計から1959~61年の3年間に2000万人以上が飢餓など不正常な理由で死亡したと推定できる。1958年から60年までの、無謀な工業化方針、地方分権化、それに伴う経済の混乱を指して、皮肉な表現であるが「大躍進」と呼ぶ。[大躍進]がもたらした混乱を収拾するために1961年には地方政府に移管された企業を再び中央政府に戻すなど中央集権を行った。ところが、1970年にはそれまで1万社以上あった中央政府直属の国有企業を、わずか500社ほどを残して残りはすべて地方政府に移管するという極端な地方分権が再度実施された。

「大躍進」の失敗にもかかわらず、その後も中国で繰り返し地方分権化が行われたのは、「工業化」あるいは「共産主義社会の実現」といった国家目標に向かって、中央政府が指令を出して地方政府や国民が命令通り動くような社会主義ではなく、むしろ地方政府や大衆がそれぞれ独自に能動性を発揮するという社会主義像に毛沢東が強いこだわりを持っていたからである。

また、ここには中国経済学者の中兼和津次が「根拠地の思想」と呼ぶような、毛沢東独特の戦略も反映されている。すなわち、戦争によってたとえ中国の大きな部分が壊滅したとしても、生き残る部分があればそこから国を立て直せるという思想である。こうした思想は国土全体が戦場となった抗日戦争や国共内戦を経るなかで形成されたものであろう。この戦略に従えば、国全体で完結するよ,うな産業構造では脆弱であり、むしろ自己完結的な産業構造を国内に多数作るべきだということになる。こうして地域ごとに独自のフルセット型の産業構造と軍事力を形成する政策が進められていった。前述した「三線建設」も内陸地域だけでフルセットの産業を持ち、敵と長期間戦える態勢を作ることが目的だったし、1970年に分権化が行われた際には全国をそれぞれにフルセット型の産業構造を持った10の地域に分ける構想も示されていた。
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