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アレクサンドリア図書館の栄枯盛衰

 『書物の破壊の世界史』より アレクサンドリア図書館の栄枯盛衰
 前二八五年頃、上エジプトでブロンズ色の肌をしたギリシャ人男性がエジプトコブラに噛まれて死んだ。その名はファレロンのデメトリオス。地元当局が地面に横だわった遺体を発見したが、検死をした医師たちには、彼がヘビに手首を噛まれた原因が、自殺か事故か、あるいは他殺かを特定する勇気はなく、沈黙を選ぶことにした。三つの可能性のうち、少なくともふたつは十分考えられることだった。死亡男性は、王位に就いたプトレマイオス二世ピラデルポスから目の敵にされ、アレクサンドリアを追われたばかりだったのだ。死に顔は実年齢よりもずっと老げ、六〇歳から七〇歳に見えたという。遺体は何の敬意も払われず、ディオスポリス近郊のブシリス地区に埋葬された。
 デメトリオスの死はその後、何週間も人々の語り草となり、作家や哲学者のなかには残念がる声も多かった。彼は非常に優れた人物で、何十冊もの著作を執筆した。偉大な思想家たちの弟子であり、影響力ある政治家でもあったが、それにも増して古代世界で最も有名だった図書館、アレクサンドリア図書館の創設に貢献したからだ。デメトリオスの没後、栄華を極めた叡智の殿堂の運命は、やがて王族同士の勢力争いと国同士の征服戦争に翻弄されるようになる。そこで本章の幕開けに、立役者デメトリオスの足取りをたどってみようと思う。彼の生涯はこの傑出した図書館の起源と終焉をつかむのに最適だからだ。
 デメトリオスについては詳細がほとんどわかっていないが、いくつかの文献に記された情報から、ある程度の人となりはうかがえる。前三五〇年頃にギリシャの港町ファレロンで、コノン将軍宅の奴隷ファノストラトスの息子として生まれた。アテナイに行き、アリストテレスがアテナイ郊外に創設した学園リュケイオンに入学。アリストテレス本人から直接学び、その後、テオフラストスから教えを受けた。美男子で自信に満ち溢れ、勘が鋭く妄想好きな青年だった。演説がうまかったため、逍遥学派(アリストテレス学派、ペリパトス学派ともいう)の哲学者だちから推されて、前三一七年、マケドニアのギリシャ総督アンティパトロス朝の力丿サンドロスよりアテナイの統治を任された。前三〇七年までの一〇年間はこの統治者の地位に就いている。
 その間に彼は人口調査を実施し、法律を制定、時機よく憲法・財政上の措置を行ない、市民に評判がよかった。人気者となった彼は、哲学者や詩人、劇作家など大勢の友人に囲まれ、三〇〇の彫像が立つほどの名声を得た。ところがそんな栄光の日々も前三〇七年、〝攻城者〟とあだ名されるアンティゴノス朝デメトリオス一世にカッサンドロスが敗れ、アテナイが攻略されたときに終わりを告げた。デメトリオスの彫像は倒されて汚され、彼の名はすべての記録から抹消された。
 デメトリオスは通行許可証を手に入れてエジプトの古都テーベに逃れ、毎日読書や執筆、ホメロスの詩の検討に費やして過ごしたという。アテナイヘの帰還が絶望的だとわかると、衣類と自身の手稿を携えアレクサンドリアに移る。そこが未曽有の大都市だとは、さすがのデメトリオスも予想だにしていなかったことだろう。アレクサンドリアとは、マケドニアのアレクサンドロス大王が征服した各地にギリシャ人を入植させて建設した都市の名だ。なかでも前三三一年にナイル川デルタの西岸、マレオティス湖畔に創設されたエジプトのアレクサンドリアは有名で、大王亡きあと、部下だったプトレマイオス一世がエジプトを支配すると、プトレマイオス朝エジプトの首都として栄えた。都市計画を担当したのは、ロドス島出身の建築家デイノクラテスだ。デイノクラテスはこの町を、縁飾りのついたマケドニアのクラミス(古代ギリシャの男性用の短い肩衣)状に設計しようと決めて、市街地を五つの区画に分け、それぞれにギリシャ語アルファベットの最初の五文字、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロンと名づけた。それら五文字はギリシャ語で〝アレクサンドル、神から生まれし王がこの町を興した〟の頭文字となっている。
 アレクサンドリアの都に眩惑されたデメトリオスは、ブルケイオン地区の王宮に向かった。プトレマイオス一世ソテルのエジプト王即位から間もない、前三〇六年のことだ。プトレマイオス一世は前三六七年頃の生まれ。マケドニア王国の貴族ラゴスとその妻アルシオネの息子で、成長後アレクサンドロス大王の将軍のひとりになった。インド遠征に参加し、その忠誠心は征服者本人から称賛されている。ソテル(救済者)の称号は、前三〇四年にデメトリオス一世によるロドス島包囲戦で、島民側に加勢して島を守りきった武勲によるものだ。動乱の世にあって大王の部下のなかでは長生きし、八五歳で天寿を全うしている。
 伝記作家プルタルコスによると、デメトリオスはプトレマイオス一世に、君主制に関する書物を読むよう勧めた。王にその知識を進言できるほど、勇気のある者がいなかったからだ。一方、アイリアノス(ローマのギリシャ語作家)の著述では、彼は法律や規則も練り上げたという。デメトリオスは偉大な作家でもあったので、宮廷内での働きは自然と知的な領域へと向かった。彼は万能で役に立つ人物だった。のちに芸術から政治まですべてを一冊に網羅した大著『プトレマイオス』を王に献上している。ある時、デメトリオスは王を説き伏せ、学問・芸術の女神ムーサに捧げる建物の建造に着手させた。そうしてムーサたちの殿堂、ムセイオンと名づけられた建物は、王宮の一角をなすようになる。エジプト文化をギリシャの文化に入れ替えると同時に、自身の評判も高めることができる。そんな学術研究機関の構想は、王にとって願ってもないものだった。ムセイオンには数学者エウクレイデス(ユークリッド)、科学者エラトステネス、アルキメデスら当代きっての賢人たちが集まり、学問の一大中心地となった。やがてそこに途方もない規模の図書館が併設されることになる。
 デメトリオスはまず逍遥学派の学校を作り、次いで図書館を建設するという昔ながらの手法を用いた。プトレマイオス一世はアテナイのリュケイオンで学頭を務めるテオフラストスをアレクサンドリアに招こうとしたが、老哲学者は招聘に応じることができず、代わりに弟子のランプサコスのストラトンを派遣した。ストラトンは王子、つまり未来のプトレマイオスニ世の家庭教師となり、八〇タラント(一タラントは数年から数十年分の収入)の報酬を得たらしい。デメトリオスはアレクサンドリアにリュケイオンの姉妹校を設立するための橋渡し的な存在であった。
 王からムセイオン付属の図書館運営を任されたデメトリオスは、蔵書の充実を図るべく書物を買い求め、写本を借りて転写させた。前二世紀の宮廷人アリステアスからその兄弟フィロクラテスに宛てた手紙には、《王の図書館の都にいたファレロンのデメトリオスは、世界中のあらゆる書物を金に糸目をつけずに入手するよう命じられていた》とある。
 蔵書を五〇万冊に増やすという王の意図の達成に努めていたデメトリオスは、別の目標を打ち立てることになる。アリステアスの手紙には、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の存在を知ったデメトリオスが、ギリシャ語訳の実現に向けて動き出す経緯が語られている。彼は王に、図書館の蔵書を完璧にするには、ギリシャ語の聖書が是か非でも必要だと進言。プトレマイオス一世がアレクサンドリア東地区にあるユダヤ人コミュニティと良好な関係を築いていたことも幸いし、提案は快諾され、エルサレムのユダヤ教大祭司エレアザルに、翻訳者集団の手配を依頼することになった。その後、七二人のユダヤの長老だちがアレクサンドリアに到着。晩餐会でプトレマイオスニ世と宗教や政治に関して歓談したのちに、今はなきアレクサンドリアの大灯台で有名だったファロス島の館に移動し、デメトリオスの指揮のもと、七二日間で任務を全うした。こうして「創世記」から「マラキ書」まですべてギリシャ語に翻訳され、写本も作られた。これがセプトゥアギンタとも呼ばれる、現存する最古の聖書の翻訳のひとつ『七十人訳聖書』である。役目を終えると一行は、山ほどの褒美とともにエルサレムヘと帰っていったという。

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