『哲学の始原』より
まずはソクラテスを説明しよう。ソクラテスは、プラトン(紀元前四二七~三四七)とクセノポン(紀元前四二七~三五五)によってじつに多くのことが伝えられている。それゆえ、古代中世のほかのどんな哲学者よりもよく知られている。しかしプラトンとクセノポンは同世代であるが、ふたりともソクラテスより四十歳あまり若かった。そのため、ふたりはソクラテス自身が哲学をはじめたと思われる二十歳ないし三十歳のころのようすは知らない。若者が年寄りの若いころの恋愛を知らないようなものである。プラトンとクセノポンのふたりが直接に知っていたのは、六十歳を超えたころからのソクラテスである。
しかし老年のソクラテスに独特の癖があったことがプラトンによって報告されている。それはプラトンの作品『饗宴』にある。ソクラテスはたびたび、ところかまわず人通りを避けてきわめて長い時間ひとりで立ちつづけていたという。またソクラテスは、六十歳を超えてもたいてい裸足でいたことや、長期にわたる空腹にも苦しまなかったともいう(スパルタとの戦争でアテナイは一か月ほど兵糧攻めにあった)。
これらは内容から見て、年をとって身につけたものではなく、若いころからそうであったに違いない。これらの行動を老年になってはじめるのは、肉体的に無理だと思われるからである。
さらにデルポイ市にあったアポロンの神殿に彫られたことば「汝自身を知れ」を、ソクラテスが座右の銘にしていたことも、プラトンとクセノポンによって伝えられている。これは、ソクラテスが若いころから「己を知る」ことにとり組んでいたことを示している。ひとりで立ち尽くして考えていたことを考えあわせると、ソクラテスは若いころから何よりも「己自身を知ろう」と考えていたと推察できる。
では、彼は、自身の何を知ろうとしていたのか。
自分の性格とか運命とかではない。彼自身の言によれば、自分がどれだけのことを知っているか、またどれだけのことを知らずにいるか、ということであった。つまり自分がもつ知にこだわって、それを知ろうとしていたらしい。
裁判の弁明でソクラテスは、神託を受けとったとき、すでに「大なり小なり無知を自覚していた」と述べている。ということは、彼は遅くとも四十歳前後には、このような自覚をもっていたと思われる。彼は、多くのことがらのうちいくつかについては、「知らずにいる」ことを確かめてきたと言う。したがって、ソクラテスは若いころからずっと自分のもつ知識を吟味して、その結果として、さまざまなことについて、自分の無知を自分自身に対して、くりかえし明らかにしていた、ということになる。
しかもこの作業を、ソクラテスはだれかと討議(問答)して行っていたのではなく、自分ひとりのなかで行っていた、そう考えなければならない。なぜなら、プラトンやクセノポンが伝える「他者との問答」は、四十歳前後でソクラテスが神託を受けとったあとで、ようやくはじまったと思われるからである。それは『弁明』における彼の言から推測できる。
彼は神託の意味を知るために、本当に「いやいやながら」、あるいは「躊躇しつつ」他者との問答をはじめたと言っている。そのときになっていやいやはじめたことが、以前からときどきなされていたと考えるのは不合理である(プラトンの対話編はそれ以前になされた著名なソフィストとソクラテスの問答を描いているが、そのほとんどがプラトンの創作であるというのが事実なのだ)。さらに彼が「ひとりで」長いあいだ立ち尽くしていることがよくあったというプラトンの報告であるが、この癖は、すでに述べたように若いころからのものだろう。かれはひとりでじっくりと考えていたのである。それゆえ彼が他人と問答をはじめたのは、彼が哲学をはじめた当初からではないと、あきらかに推測できる。
また、もしもだれかと討議することを通して、ソクラテスが共同で無知の自覚をもっていたとしたら、その人物もソクラテス同様に無知を自覚する哲学者として知れわたり、プラトンやクセノポンによってソクラテスと並び称されていただろう。しかしプラトンは、「ほかに同様の人間を見つけることができないほど特別の人問」(『饗宴』)と報告している。
したがって、ソクラテスは、まずは自分のなかだけで自己の知の吟味を行い、神託を受けとったあとになって、人に問いかけて他者の「知の吟味」を行うようになったのであろう。そして自分ひとりでの「知の吟味」は、おそらく神託を受けたあともつづけられていたはずである。
これはソクラテスの哲学の本質(源泉)理解にかかわっている。ソクラテス自身が彼の哲学を説明している弁明の場でこれらに言及しているからである。他方、プラトンの行動や思索(哲学)は、これらのいずれもまねていない。プラトンは考察するときひとりで立ち尽くしていたとは伝えられていないし、「汝自身を知れ」を座右の銘にもしていない。プラトンはソクラテスの第一の弟子であるかのようにいわれることが多いが、意外にもプラトンの哲学には、ソクラテスの哲学の本質(本源)に一致するものがまるでない。
プラトンの作品の登場人物は、「知の吟味」をもっぱら、ふたり以上の人間が参加する問答ないし討議で行っている。これはソクラテスが神託を受けたあとにはじめたことを、神託の内容とは無関係なものとしてプラトンが受けとっていたことを意味する。
事実は、ソクラテスはみずから哲学し、「己を知った」あと、「無知の自覚」を得て、その後にデルポイの神託を受け、この神託によって他者との問答をはじめた。これに対してプラトンは、ソクラテスが人々に対してはじめた問答を若いころから見聞きして、それをまねて自分の哲学を語った。ソクラテスがそれ以前に行い、アポロンの神から称賛を受けた哲学の作業(自己の知の吟味)を、プラトンは直接には知らないのだ。
ソクラテスがひとりでしていたことは、かなり特別のことであったと思われる。じっさい「己がそれぞれのことについてどれだけ知っているか」を自分ひとりで吟味できる人は、彼のほかにいなかっただろう。
試験を受けて満点がとれなかったとか、本を読んで自分が知らなかったことがたくさんあることに気づいたといったことならば、たいていの人間が経験する。しかしそれは、自分が知っていることと知らないことを全体的に明らかにすることではない。「そのときまでは」自分が知らなかったものがあったことをあらためて知った、ということにすぎない。
知ってはじめて「それ以前は知らなかった」ことに気づいても、それは過去の時点において自分が無知であったことの自覚であって、ソクラテスのいう、いま現在の「無知の自覚」ではない。現在の自分がどれほど知った状態にあるのか、あるいは「知らない」状態にあるのか、それではまったく明らかにならない。過去の自分の無知に気づくことは、現在の自分の知と無知の境界が見えるということではない。
ソクラテスは、とにかく容易にはうかがいしれない方法で、孤独な作業のなかで己の無知を見定めるようになった。その後のことについては、裁判における本人の弁が教えてくれる(プラトン『ソクラテスの弁明』)。
あるとき友人のひとりカイレポンがデルポイの聖所に出かけていき、「ソクラテスより知恵のある者はいるか」とたずねた。巫女の口から出たことばは、「より知恵のあるものはいない」であった。カイレポンは、その神託をソクラテスに伝えた。驚いたソクラテスは、その神託の意味を知ろうと、巷で知者と思われている人々に質問を浴びせてみた。するとどの人物も、とり巻きの人々から知者と思われているし、本人もそうだと思っているが、じつは少しもそうではないことが(ソクラテスには)判明したという。
この経験が何を意味するかを考えたソクラテスは、結局、巷でとにかく人を呼びとめて質問を浴びせ、自分を知者だと思いこんでいる人に、本当は「知者ではない」ことを思い知らせることが、神から自分に与えられた自分の使命なのだ、と合点したという。それ以来、ほかのことはさておき、神を信じて、何よりもこの仕事を一生懸命につづけてきた、と彼は述べている。
まずはソクラテスを説明しよう。ソクラテスは、プラトン(紀元前四二七~三四七)とクセノポン(紀元前四二七~三五五)によってじつに多くのことが伝えられている。それゆえ、古代中世のほかのどんな哲学者よりもよく知られている。しかしプラトンとクセノポンは同世代であるが、ふたりともソクラテスより四十歳あまり若かった。そのため、ふたりはソクラテス自身が哲学をはじめたと思われる二十歳ないし三十歳のころのようすは知らない。若者が年寄りの若いころの恋愛を知らないようなものである。プラトンとクセノポンのふたりが直接に知っていたのは、六十歳を超えたころからのソクラテスである。
しかし老年のソクラテスに独特の癖があったことがプラトンによって報告されている。それはプラトンの作品『饗宴』にある。ソクラテスはたびたび、ところかまわず人通りを避けてきわめて長い時間ひとりで立ちつづけていたという。またソクラテスは、六十歳を超えてもたいてい裸足でいたことや、長期にわたる空腹にも苦しまなかったともいう(スパルタとの戦争でアテナイは一か月ほど兵糧攻めにあった)。
これらは内容から見て、年をとって身につけたものではなく、若いころからそうであったに違いない。これらの行動を老年になってはじめるのは、肉体的に無理だと思われるからである。
さらにデルポイ市にあったアポロンの神殿に彫られたことば「汝自身を知れ」を、ソクラテスが座右の銘にしていたことも、プラトンとクセノポンによって伝えられている。これは、ソクラテスが若いころから「己を知る」ことにとり組んでいたことを示している。ひとりで立ち尽くして考えていたことを考えあわせると、ソクラテスは若いころから何よりも「己自身を知ろう」と考えていたと推察できる。
では、彼は、自身の何を知ろうとしていたのか。
自分の性格とか運命とかではない。彼自身の言によれば、自分がどれだけのことを知っているか、またどれだけのことを知らずにいるか、ということであった。つまり自分がもつ知にこだわって、それを知ろうとしていたらしい。
裁判の弁明でソクラテスは、神託を受けとったとき、すでに「大なり小なり無知を自覚していた」と述べている。ということは、彼は遅くとも四十歳前後には、このような自覚をもっていたと思われる。彼は、多くのことがらのうちいくつかについては、「知らずにいる」ことを確かめてきたと言う。したがって、ソクラテスは若いころからずっと自分のもつ知識を吟味して、その結果として、さまざまなことについて、自分の無知を自分自身に対して、くりかえし明らかにしていた、ということになる。
しかもこの作業を、ソクラテスはだれかと討議(問答)して行っていたのではなく、自分ひとりのなかで行っていた、そう考えなければならない。なぜなら、プラトンやクセノポンが伝える「他者との問答」は、四十歳前後でソクラテスが神託を受けとったあとで、ようやくはじまったと思われるからである。それは『弁明』における彼の言から推測できる。
彼は神託の意味を知るために、本当に「いやいやながら」、あるいは「躊躇しつつ」他者との問答をはじめたと言っている。そのときになっていやいやはじめたことが、以前からときどきなされていたと考えるのは不合理である(プラトンの対話編はそれ以前になされた著名なソフィストとソクラテスの問答を描いているが、そのほとんどがプラトンの創作であるというのが事実なのだ)。さらに彼が「ひとりで」長いあいだ立ち尽くしていることがよくあったというプラトンの報告であるが、この癖は、すでに述べたように若いころからのものだろう。かれはひとりでじっくりと考えていたのである。それゆえ彼が他人と問答をはじめたのは、彼が哲学をはじめた当初からではないと、あきらかに推測できる。
また、もしもだれかと討議することを通して、ソクラテスが共同で無知の自覚をもっていたとしたら、その人物もソクラテス同様に無知を自覚する哲学者として知れわたり、プラトンやクセノポンによってソクラテスと並び称されていただろう。しかしプラトンは、「ほかに同様の人間を見つけることができないほど特別の人問」(『饗宴』)と報告している。
したがって、ソクラテスは、まずは自分のなかだけで自己の知の吟味を行い、神託を受けとったあとになって、人に問いかけて他者の「知の吟味」を行うようになったのであろう。そして自分ひとりでの「知の吟味」は、おそらく神託を受けたあともつづけられていたはずである。
これはソクラテスの哲学の本質(源泉)理解にかかわっている。ソクラテス自身が彼の哲学を説明している弁明の場でこれらに言及しているからである。他方、プラトンの行動や思索(哲学)は、これらのいずれもまねていない。プラトンは考察するときひとりで立ち尽くしていたとは伝えられていないし、「汝自身を知れ」を座右の銘にもしていない。プラトンはソクラテスの第一の弟子であるかのようにいわれることが多いが、意外にもプラトンの哲学には、ソクラテスの哲学の本質(本源)に一致するものがまるでない。
プラトンの作品の登場人物は、「知の吟味」をもっぱら、ふたり以上の人間が参加する問答ないし討議で行っている。これはソクラテスが神託を受けたあとにはじめたことを、神託の内容とは無関係なものとしてプラトンが受けとっていたことを意味する。
事実は、ソクラテスはみずから哲学し、「己を知った」あと、「無知の自覚」を得て、その後にデルポイの神託を受け、この神託によって他者との問答をはじめた。これに対してプラトンは、ソクラテスが人々に対してはじめた問答を若いころから見聞きして、それをまねて自分の哲学を語った。ソクラテスがそれ以前に行い、アポロンの神から称賛を受けた哲学の作業(自己の知の吟味)を、プラトンは直接には知らないのだ。
ソクラテスがひとりでしていたことは、かなり特別のことであったと思われる。じっさい「己がそれぞれのことについてどれだけ知っているか」を自分ひとりで吟味できる人は、彼のほかにいなかっただろう。
試験を受けて満点がとれなかったとか、本を読んで自分が知らなかったことがたくさんあることに気づいたといったことならば、たいていの人間が経験する。しかしそれは、自分が知っていることと知らないことを全体的に明らかにすることではない。「そのときまでは」自分が知らなかったものがあったことをあらためて知った、ということにすぎない。
知ってはじめて「それ以前は知らなかった」ことに気づいても、それは過去の時点において自分が無知であったことの自覚であって、ソクラテスのいう、いま現在の「無知の自覚」ではない。現在の自分がどれほど知った状態にあるのか、あるいは「知らない」状態にあるのか、それではまったく明らかにならない。過去の自分の無知に気づくことは、現在の自分の知と無知の境界が見えるということではない。
ソクラテスは、とにかく容易にはうかがいしれない方法で、孤独な作業のなかで己の無知を見定めるようになった。その後のことについては、裁判における本人の弁が教えてくれる(プラトン『ソクラテスの弁明』)。
あるとき友人のひとりカイレポンがデルポイの聖所に出かけていき、「ソクラテスより知恵のある者はいるか」とたずねた。巫女の口から出たことばは、「より知恵のあるものはいない」であった。カイレポンは、その神託をソクラテスに伝えた。驚いたソクラテスは、その神託の意味を知ろうと、巷で知者と思われている人々に質問を浴びせてみた。するとどの人物も、とり巻きの人々から知者と思われているし、本人もそうだと思っているが、じつは少しもそうではないことが(ソクラテスには)判明したという。
この経験が何を意味するかを考えたソクラテスは、結局、巷でとにかく人を呼びとめて質問を浴びせ、自分を知者だと思いこんでいる人に、本当は「知者ではない」ことを思い知らせることが、神から自分に与えられた自分の使命なのだ、と合点したという。それ以来、ほかのことはさておき、神を信じて、何よりもこの仕事を一生懸命につづけてきた、と彼は述べている。
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