goo

激変(一九五八年) 奇怪な状況

『核の脅威』より 激変(一九五八年)

奇怪な状況

 限りなく増大した無限

  隠喩的な意味では、「無限の力」は昔も存在していた。たとえば植民地戦争には無限の力が見られ、そこでは征服者の力が原住民の武力を何倍も上回っていたため、原住民の武力は(相対的に)無に等しかった。しかし今日問題なのはこういう隠喩的な無限ではない。国家が今日、獲得し所有し得る力は単に個々の敵国に対する関係において最大であるのではなく、つまり相対的に最大であるというのではなく、絶対的に最大のものである。「絶対的に最大のもの」とは以下のことを意味している。

   (a) それ以上に大きな力を持つのは考えられないこと。
   (b) どんなに大きな力でも、実際には、すでに所有されている力より決して大きくないこと。なぜなら、たとえば四千発の水素爆弾の所有者は二千発の所有者より多くを持っていることにはならないからである。どの国でも最低限度以上の核兵器を所有しておれば、それだけですでに全能になっているからである。

  こういう考え方は分かりにくいとは言えない。しかしこういう考え方には明らかに、難解というのとは種類の違う抵抗がある。とにかく、こういう考え方で押し通すわけにはいかない。それどころか、こういうアナロジーはばかげているが、現代の他の産物の性質と全く同じように、全能も当然高められ「改良され」得るとみなされている、つまり無限なものは当然無限に増大され得るとみなされているのである。現代の全く別種の「現代最高の」産物、つまり(理論的にも実践的にも)全く新しい仕方で扱わねばならない産物に 軽率にも(すなわち単に類推にすぎないことも分からず)、普通の古風な産物の大半に妥当する規則を適用しているわけである。

  別の箇所で示したように、現代人は自分が実際に製造したものの本当の規模や実際の効果を想像することができず、現代の産物を過去のカテゴリーや扱い方で処理できると信じて「時代おくれ」になっており、「製造」と「想像」という二つの能力のあいだの「プロメテウス的落差」が、現代人の本質または現代人の破廉恥な本質喪失となっている。現代人が自分の作った「無限なもの」を無限に増大させようと努力していることは、われわれのテーゼが正しいことを補足的に証明するもの、少なくとも新しい仕方で説明するものである。

 全能の複数化

  「核兵器」を所有して全能を獲得したのは一国だけではない。合衆国が核の独占を失って、全能は他の諸国の特質ともなり、全能は「複数化」された。いろいろな国が最大限の力を持っている以上、これは哲学的には、「最大の力」というものはもはや存在しないことを意味する。最上級は意味を失った。「大きな全能」と「小さな全能」とを区別することができないから、考えてみれば比較級も同様に無意味になってしまっている。全能の所有者には「自分たちが所有しているもの(=過去数十年間の出来事が示していたもの)が何であったかがまだ分かっていない」から、同盟国同士の競争にしても敵国との競争にしても、ぱかげた闘争であるか、少なくともそれに類したものになっている。

 全能によって大国に

  (核以外の)あらゆる点で小さくて、比較にならぬほど他国より遥かに小さな国は、この全能を獲得して、列強が持っているのと岡じような力を得ようとするかもしれない。現にすでにそうやっている国がある。(フランスだけではないが)フランスの場合を見れば、列強という階層から転落した国は、そういう地位に迎することがおそらくもうないのは明らかである。それに対して、核以前の政治目標を今日なお努力目標として掲げている国は、全能状態という回り道を通って実質的に大国の状態になろうとしている、つまり絶対的な大国という回り道を通って相対的な大国に立ち返ろうとしている。こういう回り道は極めてばからしいものに思われるが、本当に奇怪なのは、そういうやり方が広く流布していることだ。すなわち、伝統的手段では伝統的意味での大国の状態に到達できない国が、絶対的な力を獲得できることだ。というのは、絶対的な力を獲得することは完全に技術的な課題であって、こういう課題は今日では産業的・科学的に発展した国であればどういう国でも、明日にも解決できる課題だからである。

  「全能によって大国に」なろうとするこういう計画は、たとえばド・ゴールが自分のプログラムにはっきり組み込んだものである。今日ではフランスにとって正しいことが、明日には他のどういう国にとっても安上がりにできるものになり、この方法が広く試みられるようになるのは明らかである。

  大国が全能を独占しているのは間違いがなく、「大国=全能」という等式は今日ではまだ正しい。しかしこの等式を不朽のものにしようとどう試みても、明日にはおそらく、遥かにもっと悪魔的な等式が、つまり従来のものとは逆の等式が支配的になるだろう。明日の等式は「大国はすべて核大国である」ではなく、「どの核保有国も大国である」というものになるだろう。全能の領域に踏み込むのに成功すれば、ある国が大国をステップにして激変したのか、それとも小国をステップにして激変したのかを問題にする者はもういないだろう。なぜなら、全能の状態に達すると、量)になってしまうか無視できるくらいの質になっていない差はなく、量的な差も質的な差もなくなり、およそ差というものがなくなっているからである。

  昔からさまざまな宗教が教えていたことだが、神の全能の前では王と乞食との力の差も大きさの違いも消えてしまうということが、われわれがその所有者となった全能を見れば正しいことになるだろう。全能を手中に収めた者たちの王座を前にすれば、以前なら小さな力のあいだにあった力の差は微小なものになるだろう。「非核保有国」はすべて、偶然にも政治的または肉体的な存在は抹消されていないが、余命いくばくもないものとして我慢強く生き続けることになるだろう。

 無力な大国

  これまでの記述では、脅迫されたりカを奪われたりするのは「非核保有国」だけのように思われる、これは全く不完全どころか、完全に間違っている。この状況の奇怪さの本質は、脅迫する側も自動的に脅迫される側になるところにあるからだ。すなわち、「保有」が「非保有」より少しも良くなく、おそらくもっと悪い状況になるところにあるからだ。「ミサイル発射台はミサイルの攻撃目標である」、すなわち、全能の道具を持てばたちまち攻撃されやすくなるからである。このことが示しているのは、(他国に対しては脅迫を強化する以上)脅迫する側はすべて間接的に自分自身を脅迫しているということにほかならない。

  脅迫する側が脅迫されているこの状況は、もう十分に不安なものになっている。しかし脅迫されている脅迫者が増えるにつれて、もちろん世界全体が脅迫されるようになる。互いに脅迫し合うこの現在のシステムを解体するチャンスがあるとすれば、それは当然、脅迫者の数を可能な限り少なくしておく場合だけである。

  言い換えれば、全能を有する側はすべて、他の保有国を全体的に消滅させ得るだけでなく、他の保有国によって消滅させられることもあり得る以上、どの保有国もすべて完全に強力であるだけでなく、完全に無力でもある。この種の無力も昔は存在していなかった。在ったとしても相対的なものでしかなかった。完全な全能が同時に完全な無力であれば、完全な全能というものそのものが奇怪なものであるのは明らかである。

われわれが全能なのは、われわれが無力だからである

 われわれが成し遂げた怖ろしい「激変」について繰り返し述べてきた。

 問うてきたのは、「激変」が問題ではないかということだけである。われわれがいま直接出遭って大いに驚いている状況は、われわれ自身が激変したから起こったのではないか。おそらく、技術の自動的な進歩こそ、われわれを新しい状態に投げ込んで激変させた元凶だとみなすのも、それに劣らず正しいかもしれない。いかにプロメテウス的であろうと、われわれはまさに惨めであって、ブレーキのきかない盲目のプロメテウス的存在だからである。自分のしていることを見ることができず、自分が好きこのんでやっていることを止められないプロメテウス的存在だからだ。これはわれわれは強力であるにもかかわらず無力であるという--すでに時代おくれになっている--「魔法使いの弟子」の真実を繰り返しているのではなく、逆に、われわれが全能であるのは、われわれが(自分の作った自動機関と比べると)無力だからである。われわれには、自動機関を制御するのに不十分な力しかないからである。

 こういう考え方に注意していただきたい。それこそまさに「核の神学」と名づけたものの基本的定式だからである。したがって繰り返して言っておく。われわれの全能の根源、つまりわれわれの「神のごとき状態」の根源はわれわれの無力である。

 もちろんこの命題が慰めになるわけではない。われわれの破局は、破局に陥ったのは偶然だということでどうかなるものではない。--ましてや、この命題を良心をいだくための薬に使う過ちを犯してはならない。われわれは(少なくとも数百万人は)、(飛び込んだか押し出されてか)新しい状態に達したときその状態を歓迎した、しかも自発的にその状態に飛び込んで途方もない大声で歓迎の意を表明しただけに、そういう過ちを犯してはならない。その状態が始まったのは、不必要だった(〔一九四五年六月十一日にシカゴ大学の七人の科学者による『政治的・社会的問題に関する委員会報告』である〕フランクレポート参照)ばかりか、宗教的に祝福され国民の誇りともされた原爆投下だったのだから、倫理的には、それは単に魔法使いの弟子のように偶々やった始まりではなく、意図的に始められたと判定されねばならない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 図書館クラウド ソクラテスと... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。