goo

図書館の歴史におけるイスラムの図書館

『中世イスラムの図書館と西洋』より

このキリスト教西洋に対して、偶然と言うか、それこそ知の後退を嘆く神の御業によるものか、かつて知の芽生え栄えた中東にイスラム教が成立する。この宗教はキリスト教と同じく唯一神を戴く兄弟の宗教といえるものだが。知や学問に対する姿勢が全く異なっていて、知を尊び学問を奨励し、「知を求めよ、それがムスリムの努め」(ハディース:ムハンマドの言行録)としm「真理の探究は神により近づく方法」であるとした。学問への対処法がキリスト教とは正反対だった。

占代の伝統を引き継ぐ図書館は、イスラム世界が負うようになり、図書館と知の連続性がここに繋がった。東西7000kmに及ぶ広大な帝国内にやがて外種の図書館が林立するようになる。イスラムの図書館に蓄えられた、古代の知が改良を加えられ、技術開発され、より洗練されたものとなった。また新たな発見も加わった。特に化学分野における業績は、ほとんどの物がイスラム地域を起源とする。

自分たちの祖先がエジプト、バビロニアで最古の文明を生み、数学、幾何学、天文学、哲学、医学などの分野で輝かしい業績を残しギリシア及びその他の地域に移植された。その伝統を再び中東の地--イスラム地域--に回帰させるという彼らの思いが、図書館や夥しい写本の製作に駆り立てるのである。イスラムによって保存され、改良され、新たな知見を加えられ、一歩も二歩も「知」の歴史を前進させた成果が、やがてアラビア語からラテン語への翻訳活動によって西洋に伝達され、ルネサンスと科学技術革命を促した。知はこうして、からくも繋がったのである。

グラント(Grant Edward)は「ヨーロッパの17世紀の科学革命は、ギリシア語からアラビア語に移転されていた科学を、ラテン語への翻訳が開始される12世紀初頭のままであったなら起こらなかった。イスラムによる翻訳がなければ、西洋人の知の形成が欠け、続いておこる出来事はなく、従って17世紀の科学革命は不可能であった。(略)イスラムによる中世の科学に対する探求や考察がなければ、近代の科学の進展はなかった」と書いている。またクレーマーも「ムスリムはアテネやアレクサンドリアは外国と考えていなくて、ギリシア人は東洋から学んだと考えていた。ファラービ(イスラム初期の科学者)は哲学の祖をイラクに置き、そこからエジプトにそしてギリシアに移植され、その後シリアを経てアラブに伝わり、そしてバグダッドにおいて哲学のルネサンスが興ったと、完全な円環による伝播を述べている。

ギリシア人自身も数学と幾何学はエジプト起源であることを告白している。天文学、日時計や、1日を12区分するのは、バビロニアからギリシアに伝わった。ピタゴラスは東方に旅をして、科学の知識をギリシアに持ちかえったと古代に信じられていた。これらは事実である。ギリシア人は乗算や有理数概念をエジプト人から学び、トレミーはバビロニア人から受け継いだ60進法で計算し,天文学者は60進法を用いて分と秒を表した。これは現在の我々も使っている。現在使われている数は西アラビアの記数法であるが、古くはインドからもたらされたものである。そしてイスラムはこれらすべてを図書館に回帰させることになる。

これほど大きく世界に貢献したイスラムの図書館活動が、アレクサンドリアやギリシア世界の図書館ほど歴史の舞台で、なぜその輝きや業績が評価されないのかという素朴だが重要な疑問が著者に常に付きまとってきた。これは世界史を西洋キリスト教歴史観が支配してきたことと深い関係がある。図書館の歴史もこれに準じてきた結果、一言で言えば、イスラム地域の図書館は等閑視されてきたのである。

ユダヤ教(旧約:トーラ、モーセ五書)、キリスト教(新約:福音書)、イスラム教(クルアーン)は、唯一の神から授けられた啓典を戴く兄弟宗教である。教義においても大きな差異がなく、むしろ共通する部分のほうが多く存在する。単純化すると、近しいこと、まさにここに人間が本源的に持つ優劣感情にもとづく反目関係が生じたのだろうか。

この反目関係を決定的にした事件が, 1095年11月にクレルモン公会議において、ウルバヌス2世の演説から始まった。十字軍である。大義はともかく実情は、顔をそむけ目を覆うばかりの暴力的理不尽な侵略であった。ダマスクスや地中海沿岸地域にあった図書館もこのとき破壊された。イスラム教徒ばかりでなくユダヤ教徒やビザンツのキリスト教徒までも巻き込まれ、多くの人々、女性、幼児まで殺戮されるという修羅場をなして、しかも8回にわたって繰り返された。この事件を契機としてイスラムとキリスト教の反目関係が決定的となる。 14世紀が生んだ最も有名な歴史家であり、社会学者で自制心に富んだイブン・ハルドゥーン(lbn Khaldun, 1332-1406)でさえ。その箸『歴史序説』のなかで「憎むべきキリスト教徒」という言い回しを何度も使っている。これは十字軍によってイスラムに根付いたものである。この彫響は不幸にして今日にまで及んでいる。

これより前、キリスト教徒はイスラムの文化・知の先進性を讃え称賛し、アンダルス(スペイン)の首都コルドバに子女を留学させる者、アラビア語による音楽や詩に傾倒し、図書館に入り浸る若者が急増し、これを見たカソリックの司祭たちがため息をついていた。イスラムの哲学、科学にあこがれ、学びとるためイングランドや西洋中からパリを飛び越えて、コルドバやトレドのイスラム支配地域にやって来る者が後を絶たなかった。何世紀間か両教徒たちは互いに平和的に共存していたのである。それがキリスト教司祭たちによる様々な宗教的プロパガンダの刷り込みにより(この刷り込みには、もともとイスラム教を知らない上での、多くの誤解や偏見があった)、西洋のイスラム礼讃が次第に妬みに変わる。そして憎悪し、あるいは無視するという姿勢を鮮明にしたのが十字軍だった。8回180年にわたっての戦乱は、双方に憎しみと土地の荒廃(図書館を含む)と人心の疲弊だけをもたらした(しかも十字軍の多くは失敗した)。

西洋に、イスラムは敵とする考えが広がると、清潔さや豊かな食生活等をイスラムから学び、生活様式の恩恵を享受する一方で、イスラムの膨大な業績を無視するか、または初めから自分たちが所有していたと言い、相手に触発・啓発され、恩恵を被ってきた事実を故意に忘れ、あるいは事実を捻じ曲げることさえいとわなかった。

こうした文脈から図書館も例外ではなかった。イスラム地域に展開した無数の図書館やその知の歴史上での輝かしい成果は無視され、イスラムに図書館はなかったかのようになった。西洋の図書館史上で取り上げられることは稀であり、ほんの数行で済ますことが常となった。西洋中世には一館の図書館もなかったにもかかわらず、中世に存在した修道院の写本室をもってこれに代えたのである。これは知の伝播の上で、重大な疑問を生み、到底説明のつかないことであった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 晩婚化・未婚... 国家たらんと... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。