未唯への手紙
未唯への手紙
自明の理
『アリストテレス はじめての形而上学』より
『わかる幾何学』を見てみよう。定義に続いて公理が並ぶが、その前にちゃんと公理とは何かについて説明してくれている。
これから公理ということを説明する。すべて何事でもその原因(または、理由)を追求して行くと、ついには説明のつかない所に達する。たとえば、「電車はなぜ動くか」「それは電車の床の下にあるモーターが動くからである」「そのモーターはなぜ動くか」「それは電車のポールを伝わって電気が流れ込むからである」「その電気はなぜ流れてくるか」「それは発電所から送ってくるからである」「その発電所ではなぜ電気が起こるか」「それは水力を利用して発電機を動かすからである」「その水力はなぜ起こるか」「それは地球の引力のために水が落下するからである」「では地球にはなぜ引力があるか」「それは地球に……」「地球に……なぜ」「地球に……あるからあるのである」などと、ついには説明がつかずに捨て鉢の返答をしなけれぱならないことになる。
幾何学においてもこのとおりで、あとに説明するピタゴラスの定理だとか、円周角不変の定理だとか、そのほかどんなに複雑なむずかしい事柄でも、これを砕いてその理由は、そのまたもとの理由は、とだんだん理由を追求して行くと、ついにはやはり説明のつかない所に達する。これを公理というのである。(同四頁)
「捨て鉢」ときた。最近ではあまり耳にしなくなったが、「のぞみを失ってどうなってもいいと思うこと。自暴自棄。やけくそ」と『広辞苑』にはある。公理とは、それを説明できるのぞみがなくなってしまって、やけくその答えしかできなくなったものである。
自明の真理などと言うと、これ以上頼もしい拠り所はないような気がするが、ただそれ以上説明できないだけだとなると、むしろ、断崖絶壁に追いつめられているようにも思えてくる。目の前には明るく澄んだ景色が広がるが、振り向けば漆黒の奈落が待ち受けている。自明とは読んで字のごとく「自ずから明らか」という意味であろう。ここではしかし、「自ずから」という言い方が普通連想させるような、何もしなくて放っておいても誰もが自然に認めてくれるといった意味合いはむしろ薄い。誰も疑わないのではなく、疑ってみたけれど疑いきれない。あらんかぎりの方法で反論を試みてみたものの、結局は反論自体が自己矛盾を起こしてしまって論として成り立たなくなってしまう。結果として、お互いがやむなく認めざるを得なくなったものが公理であり、理由を詰問されたあげくに行き着いた説明のつかない所は、詰問した側にしても、それ以上は説明の求めようがないことを認めざるを得ない地点でもある。
やけくそはしかし、でたらめではない。どんなルールでもいいが、しかし、ルールでなければいけない。ルールである以上、ゲーム中のあらゆる事態にうまく対応できなければ困るし(完全性)、逆にそれが無くても何の問題も起きてこないようなルールは不要だし(独立性)、そしてもちろん、こちらのルールによれば正当だが、そちらのルールでは反則だなどということが起きてしまうことは問題外である(無矛盾性)。こうした要件を満たしているならば、しかし逆に、それが一見どんなに奇妙なルールでも、れっきとしたルールと認めてよいわけである。たしかに「捨て鉢」であることに変わりはない。それ以上いくら尋ねてもこう答えるしかない。「だってルールはルールなんだから」。
まだ幾何学の言葉となる以前に、点とは何であり、線とは、そして面とは何であったのか。ユークリッド幾何学が誕生する以前、小学校でそれを習う以前、そして、普段の生活のなかでそれらを幾何学の対象として考える以前、そこにおける点や線や面について、したがって、点や線や面というよりはむしろ、交わりや境界や表面について考え直してみよう。線に幅がなく、面に厚みがなく、点にどんな広がりもないということは、はたして幾何学の対象として捉えるときだけの特殊な意味合いなのだろうか。むしろ、幾何学以前にもともとそうした意味を孕んでいたからこそ、それらはすぐれて幾何学の言葉となっていったのではないだろうか。
それにしても、そもそも幾何学とは何なのか。『わかる幾何学』は「幾何学」を定義して「形、大きさ、位置の3つに関する真理を研究する学科である」と語った後に、すぐに丸括弧でこう付け加えている。「(こんなことはどうでもよい。哲学の先生にまかせておけばよい。)」と。
けだし、名著と言うべきか。皮肉を真に受けて、哲学の先生に尋ねてみることにしよう。線とは何か、面とは、点とは、そして形とは何であるのか。プラトンなら、そしてアリストテレスなら何と答えてくれるだろうか。
ここでプラトンとアリストテレスを引き合いに出したのは、一番有名で古い哲学の先生であるからというだけではない。彼らにあって、この問いは「ある」ということ一般への問いの核心をなしていた。あらかじめ特別な存在領域として切り分けられた数学的なるものとしての点、線、面の存在が問題なのではない。何であれそもそも「ある」とはどういうことであるのか。ほんとうの意味で「ある」と言えるものは何なのか。この問いへの応接のなかで、点、線、面の存在がはじめて問題として浮上してくる。
『わかる幾何学』を見てみよう。定義に続いて公理が並ぶが、その前にちゃんと公理とは何かについて説明してくれている。
これから公理ということを説明する。すべて何事でもその原因(または、理由)を追求して行くと、ついには説明のつかない所に達する。たとえば、「電車はなぜ動くか」「それは電車の床の下にあるモーターが動くからである」「そのモーターはなぜ動くか」「それは電車のポールを伝わって電気が流れ込むからである」「その電気はなぜ流れてくるか」「それは発電所から送ってくるからである」「その発電所ではなぜ電気が起こるか」「それは水力を利用して発電機を動かすからである」「その水力はなぜ起こるか」「それは地球の引力のために水が落下するからである」「では地球にはなぜ引力があるか」「それは地球に……」「地球に……なぜ」「地球に……あるからあるのである」などと、ついには説明がつかずに捨て鉢の返答をしなけれぱならないことになる。
幾何学においてもこのとおりで、あとに説明するピタゴラスの定理だとか、円周角不変の定理だとか、そのほかどんなに複雑なむずかしい事柄でも、これを砕いてその理由は、そのまたもとの理由は、とだんだん理由を追求して行くと、ついにはやはり説明のつかない所に達する。これを公理というのである。(同四頁)
「捨て鉢」ときた。最近ではあまり耳にしなくなったが、「のぞみを失ってどうなってもいいと思うこと。自暴自棄。やけくそ」と『広辞苑』にはある。公理とは、それを説明できるのぞみがなくなってしまって、やけくその答えしかできなくなったものである。
自明の真理などと言うと、これ以上頼もしい拠り所はないような気がするが、ただそれ以上説明できないだけだとなると、むしろ、断崖絶壁に追いつめられているようにも思えてくる。目の前には明るく澄んだ景色が広がるが、振り向けば漆黒の奈落が待ち受けている。自明とは読んで字のごとく「自ずから明らか」という意味であろう。ここではしかし、「自ずから」という言い方が普通連想させるような、何もしなくて放っておいても誰もが自然に認めてくれるといった意味合いはむしろ薄い。誰も疑わないのではなく、疑ってみたけれど疑いきれない。あらんかぎりの方法で反論を試みてみたものの、結局は反論自体が自己矛盾を起こしてしまって論として成り立たなくなってしまう。結果として、お互いがやむなく認めざるを得なくなったものが公理であり、理由を詰問されたあげくに行き着いた説明のつかない所は、詰問した側にしても、それ以上は説明の求めようがないことを認めざるを得ない地点でもある。
やけくそはしかし、でたらめではない。どんなルールでもいいが、しかし、ルールでなければいけない。ルールである以上、ゲーム中のあらゆる事態にうまく対応できなければ困るし(完全性)、逆にそれが無くても何の問題も起きてこないようなルールは不要だし(独立性)、そしてもちろん、こちらのルールによれば正当だが、そちらのルールでは反則だなどということが起きてしまうことは問題外である(無矛盾性)。こうした要件を満たしているならば、しかし逆に、それが一見どんなに奇妙なルールでも、れっきとしたルールと認めてよいわけである。たしかに「捨て鉢」であることに変わりはない。それ以上いくら尋ねてもこう答えるしかない。「だってルールはルールなんだから」。
まだ幾何学の言葉となる以前に、点とは何であり、線とは、そして面とは何であったのか。ユークリッド幾何学が誕生する以前、小学校でそれを習う以前、そして、普段の生活のなかでそれらを幾何学の対象として考える以前、そこにおける点や線や面について、したがって、点や線や面というよりはむしろ、交わりや境界や表面について考え直してみよう。線に幅がなく、面に厚みがなく、点にどんな広がりもないということは、はたして幾何学の対象として捉えるときだけの特殊な意味合いなのだろうか。むしろ、幾何学以前にもともとそうした意味を孕んでいたからこそ、それらはすぐれて幾何学の言葉となっていったのではないだろうか。
それにしても、そもそも幾何学とは何なのか。『わかる幾何学』は「幾何学」を定義して「形、大きさ、位置の3つに関する真理を研究する学科である」と語った後に、すぐに丸括弧でこう付け加えている。「(こんなことはどうでもよい。哲学の先生にまかせておけばよい。)」と。
けだし、名著と言うべきか。皮肉を真に受けて、哲学の先生に尋ねてみることにしよう。線とは何か、面とは、点とは、そして形とは何であるのか。プラトンなら、そしてアリストテレスなら何と答えてくれるだろうか。
ここでプラトンとアリストテレスを引き合いに出したのは、一番有名で古い哲学の先生であるからというだけではない。彼らにあって、この問いは「ある」ということ一般への問いの核心をなしていた。あらかじめ特別な存在領域として切り分けられた数学的なるものとしての点、線、面の存在が問題なのではない。何であれそもそも「ある」とはどういうことであるのか。ほんとうの意味で「ある」と言えるものは何なのか。この問いへの応接のなかで、点、線、面の存在がはじめて問題として浮上してくる。
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