未唯への手紙
未唯への手紙
食料危機の波
『環境と共生する「農」』より
第一の波
戦後の世界の食料危機的な状況については、大きく三つの波としてとらえるとわかりやすい。第二次大戦後まもなくの絶対的な食料危機(戦争終了時からの量的不足の時代、第一の波)から、近代化と生産拡大が進み、国際的な貿易が拡大するなかで絶対量という側面より構造的・質的な食料危機の状況が生じてきた。その象徴的出来事が一九七〇年代初頭の食料危機であり、初期の絶対的不足が克服されて需給が安定するかにみえたなかで、複合的な要素をはらんで生じた危機としてとらえることができる。
それは世界的な天候不順を契機としているが、グローバルな流通の拡大のなかで需給の逼迫(穀物の大量買い付け)などが引き金となりつつ、複合的な要因があわさって国際価格の高騰を招く事態として現れた。一九七二年に旧ソ連の小麦地帯が干ばつによる不作にみまわれ、小麦の大量輸入によって国際的な穀物価格が上昇した。また一九七二~七三年のエルニーニョ現象でペルー沖のカタクチイワシ(アンチョビー)が不漁となり、その多くが飼料として利用されていたことから飼料(穀物)価格の高騰に影響をあたえた。さらに米国でのダイズ不作も起き、そこに飼料需要の圧力からダイズ需要(ダイズ粕の利用)が重なったことで需給が極端に逼迫したのだった。
その結米、ダイズ輸出の制限措置がとられることになり、多くを輸入に頼っていた日本においてダイズ製品が高騰してダイズハニックが引き起こされた(一九七三年)。当時は、ちょうど石油ショック(原油価格の高騰)とも重なったことで、人びとの生活が大きく翻弄される大事件となった。一連の動きをみるかぎり、さまざまな要因が重なり合って、波及的に現象が起きた典型的事例としてとらえることができる。
その後、生産体制が強化され生産量としては再び過剰基調で推移していく経過をたどっていく。しかしながら、他方ではパニック的な食料危機とは異なるもう一つの矛盾も顕在化してきた。すなわち、絶対的な食料生産量は確保されているなかで、飢餓と食料不足に苦しむ人びとを抱える国々が生じていく「飽食と飢餓の並存的状況」が進行するのである(第二の波)。それは量的な問題というより構造的・質的な問題ととらえることができる。
第二の波
構造的・質的という意味は、スーザン・ジョージの有名な著作『なぜ世界の半分が飢えるのか』(邦訳、朝日新聞社、一九八四年)で問題提起されたように、量的な不足という単純な問題ではなく、いわば商品作物として世界流通する構造が作り出す飢餓問題という矛盾を表現している。地域や自国内で基本食料を生産できるにもかかわらず、経済構造とりわけ貿易依存体制(国際分業)によって他国に売る輸出用商品(換金)作物が優良農地を占有してしまい、土地や生産基盤を持たない貧者と弱者が排除されることから、飢えに苦しむ人びとの状況が生じているのである。
それは、従来の経済合理主義的な考え方への批判ないし矛盾として立ち現れている。これまで、「比較優位の経済理論」(互いに有利な産業に特化して貿易すると双方にメリットが生じる)を背景にして、安いもの(基本食料)を他から買い付けて、より高く売れるものを販売することで総体的に経済的豊かさを実現するという考え方(経済合理主義)が主流をなしてきた。それは、国際市場における貿易関係のみならず、いわゆる市場原理主義や規制緩和政策がはらんでいる矛盾としても共通する側面をもつ。結局のところ、そこでは誰のための豊かさがより多く実現されるのか、結果として格差を生じさせる関係性が見過ごされがちとなり、どちらかといえば「儲けの論理」(儲ける人がより有利になる)に偏った考え方に陥りやすい側面を持っていたのである。
より一般化していえば、そこでは往々にして、大金を手にできる人と損を強いられる人、対等性という面では機会から排除される人さえ生み出しやすい矛盾(非対称性)を内在していたということである。そのことは、途上国での貧富の格差拡大の一要因となっており、また昨今のアメリカ社会や中国社会における格差問題を生む背景にもなってきた。これは社会的不平等ないし社会的コストを生じてしまうという意味では、外部不経済(公害問題など、第三者が受ける不利益)という問題としてもとらえることができる。
外部不経済という点では、食の世界での「グローバル化」により、質的な意味で食生活の内容が多様性を失い、地域の農業とのつながりや風土性を育んできた食文化などが急速に失われる事態を生じてきた。食文化の意味内容は形骸化し、味覚や栄養面での単純で画一的な評価が大勢を占めることで、いわゆる西欧化か急速に進んだ。すなわち、肉食傾向を強め、ハンバーガーに象徴されるように画一的、ファッション的な色彩をおびて、風土や地域・文化的な色彩を失っていく状況(ファストフード化現象)を進展させてきたのだった。こうした全体的な動向をみるかぎり、量的な側面のみならず構造的・質的にも、豊かさの中身の変質という問題がそこには横たわっていると考えられる。
第三の波
そしてその後、最近の食料危機的な事態は、さらなる複合的な要因が重なり合うかたちで進行している点に特徴がある(第三の波)。貿易面でいえばものの売買の範躊を逸脱して、まさに投機(マネーゲーム)の対象として穀物(基本食料)が位置づけられる状況や、穀物と食料作物がバイオ燃料として利用される状況が生じた(エネルギー市場との競合)。さらに気候変動(地球温暖化)や生物多様性の危機による生産基盤そのものの脆弱化か進行するといったように、複数の危機的状況が絡み合ってより複合性をもって出現しているのである。
ただし現象的には、ちょうど一九七〇年代初頭の食料危機とよく似た動きが起きているようにみえる。量的な側面でみたとき、世界の穀物の期末在庫が大きく低下して、七〇年代初頭とほぼ同水準にまで落ちており、また当時の石油ショックを彷彿させるような原油価格の高騰も起きたことから、事態の深刻さの再来が予想されるのである。しかしながら、急激に価格高騰した要因のかなりの部分が投機マネーの流入といった人為的影響であったことは、金融危機後の価格低下で明らかになった。とはいうものの、バイオエタノール需要の動向や中国・インドなど新興諸国の需要拡大によっては、多少とも波乱含みの食料危機的な状況が今後とも懸念される。
将来の動向を考えるにあたっては、大きくは世界経済の質的な変質(金融バブルの崩壊)といった状況や、地球規模での資源・環境の制約が顕在化しだしていること、さらに環境の世紀と呼ばれているように、従来の大量生産・大量消費型の経済発展パターン自体(物質的豊かさの追求)がいよいよ限界に直面しだしているといった状況をふまえて見通していく必要がある。
時代は、転換期的な様相をさまざまな局面において呈している。世界人口の動態においても大きな構造的な変化が進行しているが、食料問題とのつながりでは、あまり注目されていない。国連人口統計によると、世界全体で都市人口が農村人口を上回る事態が起きている(二〇〇八~○九年)。すなわち、世界規模で食料の消費人口(都市)が生産人口(農村)を上回ったことを意味しており、食料生産・消費構造の根底が大きく変化しているといってよかろう。とくに中国では、二〇一〇年度に日本を抜いてGDP世界第二位となるとともに、人口動態的にも都市人口が農村人口を上回る状況にある。
人類のフードシステム(食料生産・供給体制)は、現状の推移をみるかぎり、集約化と産業化か進み、少数の巨大穀物メジャーや巨大流通・商業資本(スーパー)の支配下に組み込まれていくことになる。世界的な食料危機が、とくにアメリカを発信源とするグローバリゼーション(「貿易自由化」と「構造調整政策」)によって、各国の自給政策(農村と家族農業の保護)が解体されてきたことで深刻化した経験に学ぶ必要がある。残念ながら農業・農村はますます衰退していき、食料は商品化と貿易品目に組み込まれ、儲けの手段に取り込まれていく現実は今も進行している。かつて一九七〇年代の食料危機と同様、次なる危機でもアグリビジネスは危機をチャンスに、利益拡大を図る状況が起きるだろうことは十分に予想される。
しかし、危機を別のチャンスとする〝もう一つの道〟を展望する機会ととらえるべきではなかろうか。各国・各地域の食料主権を農民や多様な地域社会の人びとの手に取り戻し、真の意味での危機克服の道を築くことが求められている。本章の最後にはそうした展望を見出していくための道筋についてふれるが、まずそのための前提として、世界のフードシステムの状況と、我が国の食と農の変遷を振り返って考えてみることにしたい。
第一の波
戦後の世界の食料危機的な状況については、大きく三つの波としてとらえるとわかりやすい。第二次大戦後まもなくの絶対的な食料危機(戦争終了時からの量的不足の時代、第一の波)から、近代化と生産拡大が進み、国際的な貿易が拡大するなかで絶対量という側面より構造的・質的な食料危機の状況が生じてきた。その象徴的出来事が一九七〇年代初頭の食料危機であり、初期の絶対的不足が克服されて需給が安定するかにみえたなかで、複合的な要素をはらんで生じた危機としてとらえることができる。
それは世界的な天候不順を契機としているが、グローバルな流通の拡大のなかで需給の逼迫(穀物の大量買い付け)などが引き金となりつつ、複合的な要因があわさって国際価格の高騰を招く事態として現れた。一九七二年に旧ソ連の小麦地帯が干ばつによる不作にみまわれ、小麦の大量輸入によって国際的な穀物価格が上昇した。また一九七二~七三年のエルニーニョ現象でペルー沖のカタクチイワシ(アンチョビー)が不漁となり、その多くが飼料として利用されていたことから飼料(穀物)価格の高騰に影響をあたえた。さらに米国でのダイズ不作も起き、そこに飼料需要の圧力からダイズ需要(ダイズ粕の利用)が重なったことで需給が極端に逼迫したのだった。
その結米、ダイズ輸出の制限措置がとられることになり、多くを輸入に頼っていた日本においてダイズ製品が高騰してダイズハニックが引き起こされた(一九七三年)。当時は、ちょうど石油ショック(原油価格の高騰)とも重なったことで、人びとの生活が大きく翻弄される大事件となった。一連の動きをみるかぎり、さまざまな要因が重なり合って、波及的に現象が起きた典型的事例としてとらえることができる。
その後、生産体制が強化され生産量としては再び過剰基調で推移していく経過をたどっていく。しかしながら、他方ではパニック的な食料危機とは異なるもう一つの矛盾も顕在化してきた。すなわち、絶対的な食料生産量は確保されているなかで、飢餓と食料不足に苦しむ人びとを抱える国々が生じていく「飽食と飢餓の並存的状況」が進行するのである(第二の波)。それは量的な問題というより構造的・質的な問題ととらえることができる。
第二の波
構造的・質的という意味は、スーザン・ジョージの有名な著作『なぜ世界の半分が飢えるのか』(邦訳、朝日新聞社、一九八四年)で問題提起されたように、量的な不足という単純な問題ではなく、いわば商品作物として世界流通する構造が作り出す飢餓問題という矛盾を表現している。地域や自国内で基本食料を生産できるにもかかわらず、経済構造とりわけ貿易依存体制(国際分業)によって他国に売る輸出用商品(換金)作物が優良農地を占有してしまい、土地や生産基盤を持たない貧者と弱者が排除されることから、飢えに苦しむ人びとの状況が生じているのである。
それは、従来の経済合理主義的な考え方への批判ないし矛盾として立ち現れている。これまで、「比較優位の経済理論」(互いに有利な産業に特化して貿易すると双方にメリットが生じる)を背景にして、安いもの(基本食料)を他から買い付けて、より高く売れるものを販売することで総体的に経済的豊かさを実現するという考え方(経済合理主義)が主流をなしてきた。それは、国際市場における貿易関係のみならず、いわゆる市場原理主義や規制緩和政策がはらんでいる矛盾としても共通する側面をもつ。結局のところ、そこでは誰のための豊かさがより多く実現されるのか、結果として格差を生じさせる関係性が見過ごされがちとなり、どちらかといえば「儲けの論理」(儲ける人がより有利になる)に偏った考え方に陥りやすい側面を持っていたのである。
より一般化していえば、そこでは往々にして、大金を手にできる人と損を強いられる人、対等性という面では機会から排除される人さえ生み出しやすい矛盾(非対称性)を内在していたということである。そのことは、途上国での貧富の格差拡大の一要因となっており、また昨今のアメリカ社会や中国社会における格差問題を生む背景にもなってきた。これは社会的不平等ないし社会的コストを生じてしまうという意味では、外部不経済(公害問題など、第三者が受ける不利益)という問題としてもとらえることができる。
外部不経済という点では、食の世界での「グローバル化」により、質的な意味で食生活の内容が多様性を失い、地域の農業とのつながりや風土性を育んできた食文化などが急速に失われる事態を生じてきた。食文化の意味内容は形骸化し、味覚や栄養面での単純で画一的な評価が大勢を占めることで、いわゆる西欧化か急速に進んだ。すなわち、肉食傾向を強め、ハンバーガーに象徴されるように画一的、ファッション的な色彩をおびて、風土や地域・文化的な色彩を失っていく状況(ファストフード化現象)を進展させてきたのだった。こうした全体的な動向をみるかぎり、量的な側面のみならず構造的・質的にも、豊かさの中身の変質という問題がそこには横たわっていると考えられる。
第三の波
そしてその後、最近の食料危機的な事態は、さらなる複合的な要因が重なり合うかたちで進行している点に特徴がある(第三の波)。貿易面でいえばものの売買の範躊を逸脱して、まさに投機(マネーゲーム)の対象として穀物(基本食料)が位置づけられる状況や、穀物と食料作物がバイオ燃料として利用される状況が生じた(エネルギー市場との競合)。さらに気候変動(地球温暖化)や生物多様性の危機による生産基盤そのものの脆弱化か進行するといったように、複数の危機的状況が絡み合ってより複合性をもって出現しているのである。
ただし現象的には、ちょうど一九七〇年代初頭の食料危機とよく似た動きが起きているようにみえる。量的な側面でみたとき、世界の穀物の期末在庫が大きく低下して、七〇年代初頭とほぼ同水準にまで落ちており、また当時の石油ショックを彷彿させるような原油価格の高騰も起きたことから、事態の深刻さの再来が予想されるのである。しかしながら、急激に価格高騰した要因のかなりの部分が投機マネーの流入といった人為的影響であったことは、金融危機後の価格低下で明らかになった。とはいうものの、バイオエタノール需要の動向や中国・インドなど新興諸国の需要拡大によっては、多少とも波乱含みの食料危機的な状況が今後とも懸念される。
将来の動向を考えるにあたっては、大きくは世界経済の質的な変質(金融バブルの崩壊)といった状況や、地球規模での資源・環境の制約が顕在化しだしていること、さらに環境の世紀と呼ばれているように、従来の大量生産・大量消費型の経済発展パターン自体(物質的豊かさの追求)がいよいよ限界に直面しだしているといった状況をふまえて見通していく必要がある。
時代は、転換期的な様相をさまざまな局面において呈している。世界人口の動態においても大きな構造的な変化が進行しているが、食料問題とのつながりでは、あまり注目されていない。国連人口統計によると、世界全体で都市人口が農村人口を上回る事態が起きている(二〇〇八~○九年)。すなわち、世界規模で食料の消費人口(都市)が生産人口(農村)を上回ったことを意味しており、食料生産・消費構造の根底が大きく変化しているといってよかろう。とくに中国では、二〇一〇年度に日本を抜いてGDP世界第二位となるとともに、人口動態的にも都市人口が農村人口を上回る状況にある。
人類のフードシステム(食料生産・供給体制)は、現状の推移をみるかぎり、集約化と産業化か進み、少数の巨大穀物メジャーや巨大流通・商業資本(スーパー)の支配下に組み込まれていくことになる。世界的な食料危機が、とくにアメリカを発信源とするグローバリゼーション(「貿易自由化」と「構造調整政策」)によって、各国の自給政策(農村と家族農業の保護)が解体されてきたことで深刻化した経験に学ぶ必要がある。残念ながら農業・農村はますます衰退していき、食料は商品化と貿易品目に組み込まれ、儲けの手段に取り込まれていく現実は今も進行している。かつて一九七〇年代の食料危機と同様、次なる危機でもアグリビジネスは危機をチャンスに、利益拡大を図る状況が起きるだろうことは十分に予想される。
しかし、危機を別のチャンスとする〝もう一つの道〟を展望する機会ととらえるべきではなかろうか。各国・各地域の食料主権を農民や多様な地域社会の人びとの手に取り戻し、真の意味での危機克服の道を築くことが求められている。本章の最後にはそうした展望を見出していくための道筋についてふれるが、まずそのための前提として、世界のフードシステムの状況と、我が国の食と農の変遷を振り返って考えてみることにしたい。
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