『自己啓発の名著30』より
実際、「少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである」という考えを強くもっていたショウペンハウエルらしく、本書には彼が多量な事柄について長い時間をかけて深く考え抜いた思索の跡が、彼独特の研ぎ澄まされた最小限の言葉で極めて精緻に表現されています。
無数の読書論が出版されてきましたが、本書の内容の濃厚さと充実ぶりは突出しています。凡百の読書論を何百冊読んだところで、私たちの読書生活には大して役に立ちません。そんなものを読むぐらいであれば、究極の読書論である本書一冊だけを繰り返し読むことを強くお勧めしたいと思います。
ショウペンハウエルが読書や思索について、具体的にどのように考えていたのか見ていくことにしましょう。これについて、ショウペンハウエルが最も重要視したことを一言でいうならば、それは“Selbstdenken”(自ら考えること)というドイツ語になります。
ショウペンハウエルにとっては、「自ら考えること」が至高の価値をもっていたわけですが、そのことと読書とはどのように繋がるのか。これに関して、ショウペンハウエルは、「思索する精神」と「読書する精神」という興味深い概念を提示しています。
読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。いろいろなことを次々と考えていかなければならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押しつけず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。
漫然とした読書に見られるような「読書する精神」のままでは、自由な意思によって自ら積極的に思索することはできず、著者がすでに考えたことについて、そのあとをなぞるようなかたちで、無理やりに考えさせられるはめに陥ります。
それに対して、「思索する精神」というのは、「読書する精神」とは自らの積極的な意思によって、何物にも拘束されずに自由に物事を考えていくことです。「読書する精神」と「思索する精神」との間には極めて大きな差があるというのがショウペンハウエルの基本的な考えであり、「読書する精神」によって読書をしているかぎりは、その読書は無意味どころか、それ以上に、「精神から弾力性をことごとく奪い去る」極めて有害なものであると考えたのでした。
実際、ショウペンハウエルは、「自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安仝確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである」と述べたあと、あの有名な、「読書とは他人の頭で考えること」という読書に対する極めて辛辣な言葉を吐きます。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
ショウペンハウエルにとっては、「その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであること」が「第一級の精神にふさわしい特徴」であり、それを達成できるのは、自分自身の力で真剣に思索すること以外にはありませんでした。その意味では、思索を伴わない多読というのは無意味どころか有害なものであり、読書人として最も避けなければならないというのがショウペンハウエルの強い信念たったのです。
、ここで一つ留意しておくべきことがあります。それは、ショウペンハウエルが必ずしも多読そのものを否定していないということです。
ショウペンハウエルが真に戒めたかったのは、多読そのものの弊害ではなく、思索を伴わない多読によって思考能力を失い、他人が思索したことが自分の頭を占領してしまうことだったのです。その意味では、ショウペンハウエルは、多読を含めた読書そのものに異議を唱えた反読書論者ではなく、あくまでも読書を思索のための手段であると位置づけた、思索至上主義の読書手段論者であったと考えるべきでしょう。
実際、「少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対して、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである」という考えを強くもっていたショウペンハウエルらしく、本書には彼が多量な事柄について長い時間をかけて深く考え抜いた思索の跡が、彼独特の研ぎ澄まされた最小限の言葉で極めて精緻に表現されています。
無数の読書論が出版されてきましたが、本書の内容の濃厚さと充実ぶりは突出しています。凡百の読書論を何百冊読んだところで、私たちの読書生活には大して役に立ちません。そんなものを読むぐらいであれば、究極の読書論である本書一冊だけを繰り返し読むことを強くお勧めしたいと思います。
ショウペンハウエルが読書や思索について、具体的にどのように考えていたのか見ていくことにしましょう。これについて、ショウペンハウエルが最も重要視したことを一言でいうならば、それは“Selbstdenken”(自ら考えること)というドイツ語になります。
ショウペンハウエルにとっては、「自ら考えること」が至高の価値をもっていたわけですが、そのことと読書とはどのように繋がるのか。これに関して、ショウペンハウエルは、「思索する精神」と「読書する精神」という興味深い概念を提示しています。
読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。いろいろなことを次々と考えていかなければならないのである。しかし自ら思索する精神は、厳密な意味では外界あるいは何らかの警告によって拘束はうけても、読書する精神とは逆に自らの衝動に従って動く。すなわち目に映る世界は読書とは違って精神にただ一つの既成の思想さえ押しつけず、ただ素材と機会を提供してその天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。
漫然とした読書に見られるような「読書する精神」のままでは、自由な意思によって自ら積極的に思索することはできず、著者がすでに考えたことについて、そのあとをなぞるようなかたちで、無理やりに考えさせられるはめに陥ります。
それに対して、「思索する精神」というのは、「読書する精神」とは自らの積極的な意思によって、何物にも拘束されずに自由に物事を考えていくことです。「読書する精神」と「思索する精神」との間には極めて大きな差があるというのがショウペンハウエルの基本的な考えであり、「読書する精神」によって読書をしているかぎりは、その読書は無意味どころか、それ以上に、「精神から弾力性をことごとく奪い去る」極めて有害なものであると考えたのでした。
実際、ショウペンハウエルは、「自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安仝確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである」と述べたあと、あの有名な、「読書とは他人の頭で考えること」という読書に対する極めて辛辣な言葉を吐きます。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
ショウペンハウエルにとっては、「その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであること」が「第一級の精神にふさわしい特徴」であり、それを達成できるのは、自分自身の力で真剣に思索すること以外にはありませんでした。その意味では、思索を伴わない多読というのは無意味どころか有害なものであり、読書人として最も避けなければならないというのがショウペンハウエルの強い信念たったのです。
、ここで一つ留意しておくべきことがあります。それは、ショウペンハウエルが必ずしも多読そのものを否定していないということです。
ショウペンハウエルが真に戒めたかったのは、多読そのものの弊害ではなく、思索を伴わない多読によって思考能力を失い、他人が思索したことが自分の頭を占領してしまうことだったのです。その意味では、ショウペンハウエルは、多読を含めた読書そのものに異議を唱えた反読書論者ではなく、あくまでも読書を思索のための手段であると位置づけた、思索至上主義の読書手段論者であったと考えるべきでしょう。
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