『文明史から見たトルコ革命』より 世紀末のテッサロニキ
古代マケドニアの首都テッサロニキは、古来数多くの威圧的な支配者の興亡を間近に見てきた。だから、一四世紀にアナトリア平原からバルカン半島を席巻したオスマン帝国は、それ以前にこの地を支配したマケドニア、ローマ、ビザンツ、ノルマン、ロンバルド、そしてヴェネツィアに続く、新たな支配者であるにすぎない。しかしオスマン人たちは、一四三〇年にこの町を最終的に征服したとき、過去に対する寛容さをほとんどもち合わせていなかった。三日間にわたる略奪の結果、この古代都市の廃墟にはわずか二〇〇〇人が生き残っただけだった。生存者にはまもなく東方から連れてこられたトルコ系遊牧民一〇〇〇人が加わり、テッサロニキの社会構成は完全に変わってしまったのである。のちにオスマン帝国でもっともコスモポリタンな町となるテッサロニキはこうやって作られ、そして現代トルコの建設者の幼少時代に、独特な背景を提供することになるのである。
オスマン支配下のこの町を発展させた第二の、そして決定的な出来事は一五世紀末に起こったスペインおよびポルトガルからのュダヤ教徒追放だった。何千というュダヤ人がオスマン領に押し寄せると、オスマンの統治者たちは彼らの多くをテッサロニキに定住させることにした。こうしてこの町は、凍鴎および地中海世界におけるユダヤ人の中心地のぴとつになってゆく。オスマンによる征服以前から、この町にはアシュケナズィム〔東欧系〕の小さなユダヤ人コミュニティがあったが、このセファルディム系ユダヤ人の新たな、そして大規模な流入により、テッサロニキはヨーロッパにおいてユダヤ人が多数を占める無二の都市へと変貌した。テッサロニキのユダヤ人コミュニティは規模の大きさだけで例外だったのではなく、その構成においても独特だった。一六六六年にメシアを自称したュダヤ教徒のサバタイ・ツヴィが処刑を免れるためにイスラムに改宗すると、テッサロニキでは彼を信奉する多数の人びとが、改宗は彼の預言実現の最終段階であると信じ、彼に続いてムスリムとなった。彼らは表向きはイスラムの信仰を告白するようになったが、一方ではュダヤ教の信仰儀礼を秘密裏に実践し続けた。こうしてサバタイ派のドョンメ〔転向者〕(ヘブライ語では「信仰者」)と呼ばれるコミュニティが生まれ、オスマン領テッサロニキを特徴づける独自の存在となった。敬虔なユダヤ教徒からも、ムスリムからも軽蔑されながら、ドョンメ集団ぱオスマン帝国では統治と徴税の目的からムスリムとして扱われた。
一九世紀末頃には、テッサロニキには三つの主要な宗教グループがあり、それぞれ異なる区域に住んでいた。すなわちュダヤ教徒(約四万九〇〇〇人)、ドョンメを含むムスリム(約二万五五〇〇人)、そしてギリシャ正教徒(約一万一〇〇〇人)である。しかしこのような単純な宗教による区別は、各宗教のはるかに豊かな民族的多様性を覆い隠してしまう。すなわちユダヤ教徒はセファルディム系とアシュケナズィム系。ムスリムはトルコ系、アルバニア系、ボスニア系、ロマ、そしてドョンメ。正教徒はギリシャ系、ブルガリア系、グラフ系、アルバニア系。さらに少数のアルバニア系カトリックにアルメニア人とセルビア人。これらに加えて、テッサロニキはオスマン国籍をもたないヨーロッパ系住民の多さで有名だった。それはイギリス、フランス、イタリア、ロシア、そしてスペイン国籍の七〇〇〇人ほどの住民と、さらにアメリカ、デンマーク、オランダ、スウェーデン領事館に勤務する外交官たち。この現代版バベルの塔は、オスマン帝国のコスモポリタニズムを他のいずれの都市にも増して縮図的に示しており、テッサロニキにかろうじて措抗しうるのは、帝都イスタンブルのみであった。
一九世紀にオスマン帝国のヨーロッパ領ではさまざまな民族運動が高揚したが、テッサロニキは当然そうした運動の豊かな地盤だった。一八二一年にペロポネソス半島でギリシャ人たちがオスマン帝国からの独立を求める戦いを始めると、テッサロニキのギリシャ人も同胞を支援するために立ち上がったが、すぐにオスマン政府によって鎮圧されてしまった。それから半世紀たった一八七〇年、今度はテッサロニキのブルガリア知識人たちが、ギリシャ正教とは別のブルガリア正教主教座の成立を強く支持した。ギリシャ正教会に対するこの宗教的そして民族的な挑戦は、テッサロニキでギリシャ人とブルガリア人との暴力的衝突を引き起こした。八年後、露土戦争(一八七七-七八)の結果、ブルガリアは大ブルガリア公国となり、オスマン政府はテッサロニキの後背地であるマケドニアのほぼ全域をこの新しい自治国に割譲することになった。一八七八年のベルリン会議で、オスマン政府がキリスト教徒のための改革を実施することを条件にマケドニアをオスマン帝国領に再編入することが決まると、この地方のほかの都市と同様に、テッサロニキは競合する民族運動の戦場となっていった。ブルガリア系の革命組織である内部マケドニア・ノドリアノープル革命組織(VMORO)が一八九三年にテッサロニキで設立される一方、市内にあるギリシャ領事館は、この地域のギリシャ系武装闘争の本部として機能した。
テッサロニキは帝国のほかの都市と同じように、T九世紀半ばにはオスマン政府による野心的な改革から多大な影響を受けた。タンズィマート期として知られる一八三九年から七六年にかけての改革期に、オスマン国家の近代化に向けた努力が続けられた。専門化した官僚たちは、平等な市民権の導入から官僚機構の再編にいたる幅広い変革を実現しようとした。改革の模範はヨーロッパであった。改革派官僚は帝国最大のライバルであるロシアのピョートル大帝の近代化改革を模倣し、オーストリアのクレメンス・フォン・メッテルニヒの国政術の才を真似、さらにイギリスの工業化を追いかけようとした。そしてフランスからは啓蒙主義、法典編纂、中央集権化などを受容した。改革派官僚たちが最終的にめざしたのは、オスマン帝国を西洋化し、ナポレオン後のヨーロッパ政治において、列強と対等な国家として受け入れてもらうことであった。こうした目標を達成するために改革者たちは、新しい統治制度や教育機関をいくつも作り出した。彼らは既存の世界観に大変革をもたらし、帝国内部のさまざまなコミュニティ間の関係を作りかえる新しい考え方を広めた。こうした変革はオスマン帝国の政治と社会のあり方を大幅に変えることになる。しかし新しい秩序を作り上げるために改革派官僚たちは、旧いものを否定し破壊することは得策でもないし可能でもないとわかっていた。そこで彼らは、人びとが進歩の恩恵を実感するにつれて旧い制度を自然と忘れ去ることに期待し、旧いものと新しいものの併存を許すことにした。たとえば、オスマン政府はヨーロッパから近代的法廷制度を導入する一方、シャリーア法廷を廃止することはしなかった。同じように、フランス式の教育制度が新たに作られたものの、従来の宗教的な学校も存続していたのである。
イスタンブルやテッサロニキのようなバルカン地方の諸都市では、改革運動によって非常に西洋化したムスリム上流階層が誕生した。西洋風として一括されるヨーロッパのマナーや規範、言葉や科学を習得することがこの新しい社会階層に加わるために不可欠であったし、社会的成功の鍵でもあった。だから、このような新エリートたちは一連の改革を全面的に受け入れた。しかしムスリム大衆はそうではなかった。彼らには近代化改革は、ムスリムの特権を奪う一方で非ムスリムに利益を授けるための、ヨーロッパにそそのかされた陰謀と見えたのである。実際に近代化改革はムスリム社会を分断し、世俗的エリートと敬虔な大衆との断絶を広げた。オスマン官僚がヨーロッパの規範を熱心に受容する中、敬虔なムスリムたちは、商業においても道徳規範の上でもキリスト教徒にその地位を脅かされていることに不満を募らせていた。こうしたことからテッサロニキでは一八七六年、イスラムヘの改宗を望んだギリシャ正教徒のブルガリア人少女をキリスト教徒の暴徒から[ムスリム住民が〕奪い取ろうとする騒ぎの中で、ムスリムの群衆がフランスとドイツの領事に暴行した上で殺害するという事件が発生した。同じような激しい衝突は、ギリシャ人とブルガリア人が教会の木製の鐘を金属製の鐘に置きかえようとしつこく試みたことでも引き起こされた。キリスト教徒は木製の鐘を、彼らの劣等性を示す歴史的標識として忌み嫌っていたのであった。
タンズィマートを推進する官僚たちの政策にイスラム宗教界が強く反発したのは当然として、非ムスリムの宗教エリートまでもが異を唱えたのはなぜだろう。その理由は、改革者たちが非ムスリムの宗教コミュニティを内部から作りかえようと熱心に試みることで、あらゆる既存の宗教にさりげなく挑戦したためである。何世紀にもわたって宗教コミュニティのさまざまな問題に対処してきた聖職者層に正面から戦いを挑むのではなく、改革者たちはより洗練された、間接的な方法を選んだ。つまり、各宗教コミュニティの一般信徒に世俗化と近代化の任務を与えることで、彼らがコミュニティの中で改革に反対する蒙昧な聖職者を権力の座から追い落とすようにしむけたのである。同時にオスマン政府は宗教コミュニティに普遍的な法律を適用し、数世紀もの間それらが享受してきた自律性を突き崩したのである。進歩的な一般信徒の力を強め、すべてのオスマン臣民を普遍的な制度に取り込もうとしたタンズィマート改革は、種々の宗教コミュニティおよび社会全体における人びとの生活を大きく変えた。タンズィマー卜改革の主要な目的のひとつぱ、中央集権化によって民族的分離主義を抑え込むことであったが、皮肉なことにコミュニティに対して強い力を行使する世俗的エリートの登場は、急激に拡大するさまざまな民族運動に、逆に勢いを与えることになったのである。
〔帝国内で〕宗教界と一般信徒が特に厳しく対立したのが教育問題でめった。一般信徒は、子供たちを現代社会になじませ民族意識を植えつけるために、世俗的カリキュラムの導入を求めた。一方の宗教界は、宗教教育の維持を主張した。ジャン=ヴィクトル・デュリュイによるフランスの教育世俗化改革の影響を受けた国民教育綱領が二八六九年に成立すると、小中高、および大学からなる新しい教育制度の青写真が描かれ、外国語を含む現代的教育課程が導入された。同時に軍事学校も中学、高校、大学レベルで設置されることとなったほか、各宗教共同体や個人による学校設立も承認された。