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米軍による東京空爆とナパーム焼夷弾

『視覚都市の地政学』より

一九四五年三月一〇日、というかむしろ九日深夜というべきだろうが、大東京の人々が大方寝静まっていた頃、新型のナパーム焼夷弾M69約三八万発、一七八三トンを搭載したB29約三〇〇機が、低高度で東京湾上から都心東部の人口密集地域に侵入した。米軍の主目的は、日本の軍需工業の基盤となっていた下町の町工場を焼き払うことだった。日本のレーダーは、この大編成の部隊の侵入を察知することすらできず、東京は「突如の」大空襲で降り注ぐナパーム弾の餌食となった。最初の爆弾が深川、本所、浅草、日本橋に投下され始めたのは午前零時八分、ようやく空襲警報が鳴り始めたのはそれから七分後だった。警報もなく、寝静まった深夜、低空で来襲した三〇〇機のB29から数十万発のナパーム弾が豪雨のように投下されていったのである。

このナパーム焼夷弾は、三年前に開発された新兵器で、六トンの爆薬で市街地一平方マイルを焼き尽くし、約九万人の住民にダメージを与えるとされていた。この爆薬一七八三トンを積んだ米軍は、すでに無防備化していた東京で、潜在的には約二七〇〇万人を殺傷できたはずである。この数は、現在の東京都の全人口よりも多く、首都圏総人口の約半分に当たる。米空軍は、たった一度の空爆でそれだけの殺傷能力を一九四五年の時点で保有していた。

三月一〇日、夜明けにはまだ時間があり、真っ暗の東京で、下町の至るところから火の手が上がり、都心全域が業火で焼き尽くされた。運の悪いことに、この夜、激しい北北西の風が吹いており、火の海をさらに拡げた。風が火を呼び、火が風を呼び、あちこちで乱気流が渦巻き、灼熱の竜巻となり、逃げまどう人々は次々に黒焦げの死体となっていった。そして実は、この「運の悪さ」は、米軍にとっては最初から計算されたことだった。米軍は気象予報で、この日の東京では風が強く、延焼効果が高いことを知っており、だからこそ空爆による殺戮効果至局めるためにこの日を選んでいたのだ。実際、綿密な計画通り、米軍機の空爆はわずか約二時間であったが、被害は死者約一〇万人、罹災者一〇〇万人に上り、火災はほぼ丸一日続いて東京は広大な廃墟と化した。この破壊され尽くした風景は、約一〇年後、「大怪獣」ゴジラに踏み潰された後の東京の姿に似てもいた(映画『ゴジラ』の主題が、この東京大空襲のメタファーであることは言うまでもない。だからこそ、あの映画にアメリカ軍は登場してはならない)。

この三月一〇日の空爆後も、米軍による東京空爆は続いた。そもそも東京への空爆は、一九四四年一一月に始まり、同一二月に三回、翌年一月に七回、二月に一二回、三月に八回、四月に一七回、五月に一二回、六月に九回、七月に一六回、八月前半に九回と、総計一〇〇回近くに及んだ。一九四五年三月以降に絞ると、東京はほぼ数日に一回は空爆を受け続けていたのだ。なかでも激しい空爆は四月から五月に集中しており、四月一三日深夜にB29三三〇機が豊島、渋谷方面を空爆し、焼失家屋二〇万戸、死者二四〇〇人、翌一五日深夜には同二〇〇機が大森、荏原方面を空爆し、焼失家屋約七万戸、死者八四〇人、五月二四日未明にはB29五二五機が品川、大森、目黒、渋谷、世田谷方面を空爆して焼失家屋約七万戸、死者七六〇人、翌二五日にはB29四七〇機が中野、四谷、牛込、赤坂方面を空爆し、焼失家屋一七万戸、死者三六五〇人を出した。これらの継続的な空爆で、東京の市街地の五〇%以上が焼け野原となり、米軍はもはや東京には焼き払うべき建物はなくなったと判断し、東京を主要な空爆リストから除外する。こうして五月末以降は、散発的な空爆はあるものの、米軍空爆の主要な照準は東京ではなくむしろ地方都市に向かい、最終的には八月六日と九日の広島、長崎への原爆投下に至るのである。

これらの大戦末期の米軍による都市空爆で何よりも注目すべきは、爆撃の正確さである。米軍機は、精密に爆撃目標を特定し、その地点を目かけて大量のM69焼夷弾を投下した。だからたとえば、三月一〇日の約二週間前、米軍が初めてM69を大規模に使用した二月二五日の空爆では、攻撃目標には神田、浅草、本所、深川などが含まれていたが、天候の影響があり、甚大なダメージを与えたのは神田だけであった。米軍は空爆のこの結果を確認し、二週間後の三月一〇日空爆では、すでに効果を上げた神田を爆撃目標から外し、その代わりに日本橋を入れ、他方で浅草や本所、深川は再度空爆することにより目的を達成していった。そして、これらの地域が焼き尽くされると、爆撃目標を品川から大田にかけての一帯に南下させていったのである。もはや勝敗は決し、降伏は時間の問題だった大戦末期、このように日本の諸都市はアメリカの軍事技術の効果を試す格好の実験場となっていた。そして、東京や広島、長崎の数十万の人々を無差別殺戮することで試された空爆技術は、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争から湾岸戦争、イラク戦争やアフガニスタンヘの空爆までつながる歴史の出発点となるのである。日本占領とイラク占領は、占領政策以上に空爆技術において連続する。まったく異なったのは、占領終了後の結果のほうである。

それにしても、第二次大戦の時点で、これはどの空爆能力を可能にしていたのはいかなる技術であったのか。実は、ここで決定的な役割を果たしたのが、F13と呼ばれた写真偵察機であった。F13の機体はB29と同じだったが、これを改造し、数種の大型カメラを装備していた。第一は、地上の三〇-五〇キロ平方の比較的広い範囲を撮影するトライメトロゴン用カメラ三台である。「トライメトロゴン」というのは地図製作用の技術で、中央のカメラは下方、左右のカメラは水平面から三〇度傾け、各カメラで撮影された写真をカメラの位置を光源として水平面上に投影することで正確な地図を作成できた。第二に、F13は同じ範囲に照準して鉛直軸からわずかに傾く二台のカメラも装備していた。これらのカメラで約三キロ平方を撮影し、そのフィルムを合成して地上の凹凸を立体視できる写真が出来上がった。さらに、この二台よりも広い範囲を直下で撮影するために、もう一台の直下撮影用のカメラも搭載されていた。これらは昼間撮影用のカメラであったが、さらにF13には夜間撮影用のカメラも載せられ、照明弾とセットで使用された。偵察機はまず照明弾を投下し、地上近くで照明弾が発光すると、その光を光電管が感知して磁石式のシャッターが切られる仕組みになっていた。

このF13が、東京上空に最初に飛来したのは一九四四年一一月一日のことであった。午後一時頃に房総半島から東京に侵入し、東京近郊の航空関連工場、京浜の軍需工場や横浜近郊の海軍施設を撮影した。その後もF13は、一一月に二七回、一二月にも二七回出撃し、東京と名古屋を上空から徹底的に写真化した。これらの撮影によって、すでに東京は、敗戦の一年近く前から「占領」されていたようなものである。たとえば、一一月七日に撮影された中島飛行機武蔵製作所の写真と、翌四五年八月八日に行われた同製作所の空爆の結果を比較すれば、撮影された膨大な数の航空写真が、その後の米軍の日本空爆にどれほど決定的な意味を持ったのかが理解できる。F13はさらに、写真撮影だけでなく、気象観測や海洋のレーダースクリーン画像作成も行った。前述した三月一〇日が、風が強く爆撃の効果がきわめて大きくなることを予測できたのも、F13による観測の成果であった。これらを総合すると、写真偵察機F13は、今日でいえばNASAが打ち上げて地球軌道を周回している観測衛星ランドサットの原型であったと言うこともできよう。実際、図終-3の武蔵製作所の空爆前と空爆後の画像は、今日のアフガニスタンやイラクでの米軍空爆の成果を示す画像と酷似している。日本空爆からアルカイダやイスラム国の秘密施設空爆まで、このくまなざし〉には、強い一貫性がある。

一九四四年から四五年にかけての頻繁な飛行で撮影された膨大な枚数の航空写真は、サイパンにあった米空軍第三写真偵察隊で現像され、システマティックな分析と地図や模型の製作が進められていった。同隊は、一九四五年五月には隊員一〇〇〇人を擁する大部隊に膨れあがっていたというから、F13の写真が米軍の日本空爆でいかに重視されていたかがわかる。撮影されたフィルムにはまずネガの段階で整理記号が印字された。その上でプリントされたが、それらはまずどの地域を撮影したものかが検証され、地図と写真の対応を示す評定図が作成されていった。同時に専門チームが写真を判読し、様々な情報が引き出されていく。さらに、空爆の目標地域全体を覆うことのできる写真を一枚のネガから得ることは難しかったので、複数の写真を貼り合わせて全体を俯瞰するモザイク写真を作成していくチームも存在した。
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