『オリジナリティ』より
フランス料理は数学と同じだ
聞違いなく、今、日本トップクラスのレストランです。
予約を取るのが難しいだけではありません。来店客の9割は海外から。世界中から、わざわざ大阪にあるこのレストランに食事に来る人が絶えないのです。お店のホームページを見ると、11カ国語に対応しています。
それが「HAJIME」です。
どうしてこれほど世界から人々がやって来るのかというと、HAJIMEでしか食べられない料理が出てくるからです。似たような料理はどこにもない。どんな料理のカテゴリーにも属しません。HAJIMEならではの、オリジナル料理なのです
ミシュランでは2つ星ですが、僕はこの「どこのカテゴリーにも属していない」ことが、3つ星ではない理由だと感じています。僕自身は、十分に3つ星に値するレストランだと思いますが、もはやHAJIMEの場合、外からの評価は関係ないのかもしれません。
客単価も日本トップクラス。東京ではなく、大阪のお店で、です。
HAJIMEの料理は、驚くほど緻密です。シンプルに見えますが、よくよく見ると極めて複雑。ものすごく手間がかかっています。味もそうですが、込められているのは、彼独自の哲学です。その哲学から、ここでしか食べられない料理が生まれています。
僕が初めてHAJIMEに行ったのは、2014年。
世界中でいろいろな料理を体験してきましたが、HAJIMEの料理には驚かされました。緻密な設計図に、クリエイティブがのっている。そんな印象でした。オーナーシェフの米田肇さんとは以前からお付き合いが少しだけあったのですが、HAJIMEを体験して以来、毎年お店に行っています。
それ以外にも、一緒に食事をしたり、大阪で飲みに行ったり、ハワイでご飯を食べたり、と頻繁に会っています。イタリアで開かれたミラノサローネのレクサスブースは、彼がプロデュースしました。そのイタリアでも一緒に食事をしました。
米田さんは、料理人として異例の経歴を持っています。緻密な料理は、その経歴が影響しているのかもしれません。大学で電子工学を学んでいたのです。
理系出身の元エンジニア。そこからなぜ料理人になったのか。しかも、世界が認めるシェフになったのか。彼のキャリアそのものが、実にオリジナリティにあふれています。
就職したのに、まったくワクワクしなかった
米田さんの父親は繊維関係の仕事をしていて、よくヨーロッパに出張に行っていたのだそうです。お土産にチョコレートなど、海外の品物をもらっていた。この幼い頃の体験が料理人への道とつながったと、米田さんは語ります。
「小学校の頃、テレビの特集で、ニューヨークで仕事をしている日本人シェフを取り上げていたのを見たんです。そのシェフは向こうで有名になって、アメリカの大統領にも表彰されて、ニューヨークでカッコ良く暮らしていた。この番組の印象と、父のヨーロッパ土産とが自分の中でリンクしました。いずれ海外で働きたい。料理人になってみたい、と思うようになったんです」
海外で料理人になりたい。米田さんは、その気持ちをずっと持ち続けました。ところが、両親が期待していたのは、大学進学。料理の学校に行きたいなら自分で工面しなさい、と言われてしまいます。
「調べてみたら、料理学校の学費は年間219万円。自宅からの交通費を合わせると、400万円くらいはかかるんじやないか、と思いました。とても自分では負担できません。それで、じやあとりあえず大学に行くか、ということで大学に進学することにしたんです」
高校時代、数学が好きでした。先生からは、数学者になったらどうだい、と言われるほど得意科目だったそうです。ただ、大学に入ってからは勉強に力が入らず、毎日入り浸っていたのが、空手の正道会館。格闘技をやっていたのです。実は今も筋肉ムキムキ。格闘家みたいな身体つきです。そもそもストイックなところがあったのかもしれません。
「大学を卒業して、一応就職するか、と電子精密機器の会社に入って、設計業務をするんです。でも、1ヵ月くらいで、何か違うな、と。ちっともワクワクしないんです。それで、そもそもどうしてこの会社に入ったのか、と振り返ってみたら、理由は海外に研究所が多かったことだったんですね。そこで思い出しました。そうだ、海外に行きたかったんだ。料理人になりたかったんだ、と」
料理学校に通うため、600万円をためてみよう、と考えます。ここから猛烈な節約生活が始まりました。
「1日200円しか使いませんでした。食事は自炊。本は図書館。水と紙がもったいないから、とトイレもなるべく家でしないで、会社のトイレやスーパーのトイレを使う(笑)。やると言ったらとことんやる性格なので。仕事も任され、残業もたくさんできたので、夜中まで毎日、働いていました」
なんと2年で600万円をためてしまいます。手取り30万円ほどで、そのうち20万円を貯金していたと言います。ボーナスが年4回出る会社で、それも全部、貯金。そしてためたお金で、会社を辞めて、料理学校に行きたいと両親に相談しました。
案の定、ずいぶん反対されたそうです。
「ばかか、と。料理人なんて休みもないし、長時間労働だし、給料は少ないし、そんなの大変だぞ、と。もうI回考えろ、と言われましたが、もう1回考えても考えは変わりませんでした。それで3回くらい親に会って説得して、会社を辞め、専門学校に行くことを決めるんです」
勤めていた会社は待遇の良い会社でした。お休みもしっかり取れる制度があった。そのときの経験があったからこそ、後に米田さんは、「料理人は休みが少ない」というイメージを覆すべく、さまざまな取り組みを自分の店で推し進めることになります。
最も厳しいところで働きたい
26歳で料理学校に入った米田さん。
周りには10代の若者たちが並ぶ中で、一番前でかぶりついて授業を聞いていたそうです。そして、料理の本質に気づいていきます。
「料理には法則性がある。これは数学と一緒だな、と思いました。何をどうすればどういうバランスになるのか、だんだん見えていきました。極めて論理的な世界だったんです。フランス料理が世界中に広まっていったのは、明確な法則があるからだ、ということもわかりました」 理系出身で、エンジニア経験がある米田さんならではの視点です。フレンチヘの興味も一層高まり、料理学校に1年通った後、最も厳しいところで働きたい、と考えるようになります。
「周りより自分は9年は遅れていると思いました。だから、人の3倍は仕事をしないといけないと考えたんですね。それができる店がいい、と」
米田さんは大阪のフレンチレストランで働き始めますが、この店が本当に厳しかった。仕事が終わるのは毎日午前3時。出勤は午前6時半。休みは週1回。掃除をして、厨房の作業台の上にうっすら指紋が残っているだけで、激しく叱られました。
「料理は昔のシンプルなフランス料理でした。料理で任されたのは、アイスクリームをスプーンで抜いていくこと。形がゆがんでいるだけで、蹴飛ばされる毎日でした」
次々に人が辞めていきました。彼は空手もやっていたし、精神力も強かったはずですが、それでも1年半で追い詰められてしまったのだそうです。78キロあった体重は、62キロまで落ちてしまいました。
「まったく仕事ができなくて、眠いし、身体もボロボロだし、半分うつみたいになってしまって。でも、親の反対を押し切って会社を辞めて、同僚たちもみんな応援して送り出してくれたのに、1年目で音を上げるのか、と悩みました。3年は働くつもりでしたから」
選択肢は3つしかない、と言うほど、米田さんは追いつめられます。
料理人を辞める。お店を辞める。人生を辞める。
3ヵ月悩み抜いて、2つ目を選びました。
「両親に相談したら、フランス料理なんて世界中にお店がある、と言われてハッとしたんです。このとき勤めていた店は、料理もたしかに素晴らしいし、厨房もきれいでしたし、一流と言われていましたけど、スタッフを大切にしない。そんな店が本当に一流なのか、と思って。最後はシェフとケンカして辞めたんです」
この店では料理のスキルはさっぱり上がりませんでした。ただ、アイスクリームは世界一と思えるくらいにきれいに抜けるようになりました。学んだのは厨房をきれいにすることでした。
「新米の頃は、キッチンや皿に付いた指紋って見えないんですよ。ここだ、と先輩に指摘されても見えない。ところが、1年もたつと見えるようになるんです。本当に厳しかったけれど、見る力を養ってもらえましたね」
フランス料理は数学と同じだ
聞違いなく、今、日本トップクラスのレストランです。
予約を取るのが難しいだけではありません。来店客の9割は海外から。世界中から、わざわざ大阪にあるこのレストランに食事に来る人が絶えないのです。お店のホームページを見ると、11カ国語に対応しています。
それが「HAJIME」です。
どうしてこれほど世界から人々がやって来るのかというと、HAJIMEでしか食べられない料理が出てくるからです。似たような料理はどこにもない。どんな料理のカテゴリーにも属しません。HAJIMEならではの、オリジナル料理なのです
ミシュランでは2つ星ですが、僕はこの「どこのカテゴリーにも属していない」ことが、3つ星ではない理由だと感じています。僕自身は、十分に3つ星に値するレストランだと思いますが、もはやHAJIMEの場合、外からの評価は関係ないのかもしれません。
客単価も日本トップクラス。東京ではなく、大阪のお店で、です。
HAJIMEの料理は、驚くほど緻密です。シンプルに見えますが、よくよく見ると極めて複雑。ものすごく手間がかかっています。味もそうですが、込められているのは、彼独自の哲学です。その哲学から、ここでしか食べられない料理が生まれています。
僕が初めてHAJIMEに行ったのは、2014年。
世界中でいろいろな料理を体験してきましたが、HAJIMEの料理には驚かされました。緻密な設計図に、クリエイティブがのっている。そんな印象でした。オーナーシェフの米田肇さんとは以前からお付き合いが少しだけあったのですが、HAJIMEを体験して以来、毎年お店に行っています。
それ以外にも、一緒に食事をしたり、大阪で飲みに行ったり、ハワイでご飯を食べたり、と頻繁に会っています。イタリアで開かれたミラノサローネのレクサスブースは、彼がプロデュースしました。そのイタリアでも一緒に食事をしました。
米田さんは、料理人として異例の経歴を持っています。緻密な料理は、その経歴が影響しているのかもしれません。大学で電子工学を学んでいたのです。
理系出身の元エンジニア。そこからなぜ料理人になったのか。しかも、世界が認めるシェフになったのか。彼のキャリアそのものが、実にオリジナリティにあふれています。
就職したのに、まったくワクワクしなかった
米田さんの父親は繊維関係の仕事をしていて、よくヨーロッパに出張に行っていたのだそうです。お土産にチョコレートなど、海外の品物をもらっていた。この幼い頃の体験が料理人への道とつながったと、米田さんは語ります。
「小学校の頃、テレビの特集で、ニューヨークで仕事をしている日本人シェフを取り上げていたのを見たんです。そのシェフは向こうで有名になって、アメリカの大統領にも表彰されて、ニューヨークでカッコ良く暮らしていた。この番組の印象と、父のヨーロッパ土産とが自分の中でリンクしました。いずれ海外で働きたい。料理人になってみたい、と思うようになったんです」
海外で料理人になりたい。米田さんは、その気持ちをずっと持ち続けました。ところが、両親が期待していたのは、大学進学。料理の学校に行きたいなら自分で工面しなさい、と言われてしまいます。
「調べてみたら、料理学校の学費は年間219万円。自宅からの交通費を合わせると、400万円くらいはかかるんじやないか、と思いました。とても自分では負担できません。それで、じやあとりあえず大学に行くか、ということで大学に進学することにしたんです」
高校時代、数学が好きでした。先生からは、数学者になったらどうだい、と言われるほど得意科目だったそうです。ただ、大学に入ってからは勉強に力が入らず、毎日入り浸っていたのが、空手の正道会館。格闘技をやっていたのです。実は今も筋肉ムキムキ。格闘家みたいな身体つきです。そもそもストイックなところがあったのかもしれません。
「大学を卒業して、一応就職するか、と電子精密機器の会社に入って、設計業務をするんです。でも、1ヵ月くらいで、何か違うな、と。ちっともワクワクしないんです。それで、そもそもどうしてこの会社に入ったのか、と振り返ってみたら、理由は海外に研究所が多かったことだったんですね。そこで思い出しました。そうだ、海外に行きたかったんだ。料理人になりたかったんだ、と」
料理学校に通うため、600万円をためてみよう、と考えます。ここから猛烈な節約生活が始まりました。
「1日200円しか使いませんでした。食事は自炊。本は図書館。水と紙がもったいないから、とトイレもなるべく家でしないで、会社のトイレやスーパーのトイレを使う(笑)。やると言ったらとことんやる性格なので。仕事も任され、残業もたくさんできたので、夜中まで毎日、働いていました」
なんと2年で600万円をためてしまいます。手取り30万円ほどで、そのうち20万円を貯金していたと言います。ボーナスが年4回出る会社で、それも全部、貯金。そしてためたお金で、会社を辞めて、料理学校に行きたいと両親に相談しました。
案の定、ずいぶん反対されたそうです。
「ばかか、と。料理人なんて休みもないし、長時間労働だし、給料は少ないし、そんなの大変だぞ、と。もうI回考えろ、と言われましたが、もう1回考えても考えは変わりませんでした。それで3回くらい親に会って説得して、会社を辞め、専門学校に行くことを決めるんです」
勤めていた会社は待遇の良い会社でした。お休みもしっかり取れる制度があった。そのときの経験があったからこそ、後に米田さんは、「料理人は休みが少ない」というイメージを覆すべく、さまざまな取り組みを自分の店で推し進めることになります。
最も厳しいところで働きたい
26歳で料理学校に入った米田さん。
周りには10代の若者たちが並ぶ中で、一番前でかぶりついて授業を聞いていたそうです。そして、料理の本質に気づいていきます。
「料理には法則性がある。これは数学と一緒だな、と思いました。何をどうすればどういうバランスになるのか、だんだん見えていきました。極めて論理的な世界だったんです。フランス料理が世界中に広まっていったのは、明確な法則があるからだ、ということもわかりました」 理系出身で、エンジニア経験がある米田さんならではの視点です。フレンチヘの興味も一層高まり、料理学校に1年通った後、最も厳しいところで働きたい、と考えるようになります。
「周りより自分は9年は遅れていると思いました。だから、人の3倍は仕事をしないといけないと考えたんですね。それができる店がいい、と」
米田さんは大阪のフレンチレストランで働き始めますが、この店が本当に厳しかった。仕事が終わるのは毎日午前3時。出勤は午前6時半。休みは週1回。掃除をして、厨房の作業台の上にうっすら指紋が残っているだけで、激しく叱られました。
「料理は昔のシンプルなフランス料理でした。料理で任されたのは、アイスクリームをスプーンで抜いていくこと。形がゆがんでいるだけで、蹴飛ばされる毎日でした」
次々に人が辞めていきました。彼は空手もやっていたし、精神力も強かったはずですが、それでも1年半で追い詰められてしまったのだそうです。78キロあった体重は、62キロまで落ちてしまいました。
「まったく仕事ができなくて、眠いし、身体もボロボロだし、半分うつみたいになってしまって。でも、親の反対を押し切って会社を辞めて、同僚たちもみんな応援して送り出してくれたのに、1年目で音を上げるのか、と悩みました。3年は働くつもりでしたから」
選択肢は3つしかない、と言うほど、米田さんは追いつめられます。
料理人を辞める。お店を辞める。人生を辞める。
3ヵ月悩み抜いて、2つ目を選びました。
「両親に相談したら、フランス料理なんて世界中にお店がある、と言われてハッとしたんです。このとき勤めていた店は、料理もたしかに素晴らしいし、厨房もきれいでしたし、一流と言われていましたけど、スタッフを大切にしない。そんな店が本当に一流なのか、と思って。最後はシェフとケンカして辞めたんです」
この店では料理のスキルはさっぱり上がりませんでした。ただ、アイスクリームは世界一と思えるくらいにきれいに抜けるようになりました。学んだのは厨房をきれいにすることでした。
「新米の頃は、キッチンや皿に付いた指紋って見えないんですよ。ここだ、と先輩に指摘されても見えない。ところが、1年もたつと見えるようになるんです。本当に厳しかったけれど、見る力を養ってもらえましたね」
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