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未唯への手紙

未唯への手紙

教育思想「ソクラテス」

2017年11月05日 | 2.数学
『教育思想事典』より ソクラテス(Socrates、B.C.470/469-B.C.399)

生涯

 古代ギリシャの哲学者でアテナイの人。父ソプロニスコスは彫刻家、母パイナレテは助産婦であった。妻クサンティッべば悪妻伝説で有名だが、誇張された作り話であるといわれる。壮年期までのソクラテスについては知られていないことが多い。彼は著作をまったく残さなかったので、彼の思想についての主たる情報源はプラトン、クセノポン(『ソクラテスの想い出』)、アリストパネス(戯曲『雲』)およびアリストテレスらの諸著作である。このうち最も重要なのはプラトンの対話篇で、なかでも初期対話篇はソクラテスの姿を生き生きと伝えている。 しかし対話篇に描かれたソクラテスについては、史実の忠実な再現なのか、それともプラトンの思想をのべたものなのかが、問題とされてきた(「ソクラテス問題」)。史実とする説(バーネット-テイラー)、プラトンの創作とする説(ギゴン)、一部は史実、一部は創作とする中間的立場(シュライエルマッハー)に分かれる。

 ソクラテスの前半生はアテナイの平和と繁栄の時代であった。しかし彼が40歳の頃ペロポネソス戦争(B.C.431-B.C.404)が始まり、断続的に30年近く続いた。この間ソクラテスも三度にわたって従軍し、戦場において驚嘆すべき忍耐心と沈着の勇を示した。しかしその時以外彼がアテナイの町を離れることはなかった。彼は街頭や体育場で対話の相手を見つけては、倫理的な問題について問いを発し、巧みな問答によって相手をアポリア(論理的窮地)に陥れた。ソクラテスにはまた「夢知らせ」を体験したり、「ダイモンの声」を聞いたりする特異な面があった。ダイモンの声は「いつでも、私が何かをしようとするのを差し止めるのであって、何かをなせと勧めることは、いかなる場合にもない」と彼はのべている。

 ソクラテスの周りには彼を慕う青年たちが集まってきた。プラトンもそのひとりであった。 しかし伝統的価値を重んずる大人たちは、ソクラテスとその仲間たちの活動を何かうさんくさいものとみた。アリストパネスはソクラテスを「新教育」の代弁者として皮肉っぼく描いている。礼儀作法と質実剛健を尊ぶ「旧教育」を嘲笑し、何にでも反対し、弱論強弁の術を教えるのが「新教育」だというのである。「新教育」の原理は、若者に自分で考えさせ、自分で善きものを発見させるということであったが、それが「旧教育」論者には危険思想とうっった。

 ソクラテスにょって論破された者のなかには、彼に反感をいだく者も少なくなかった。彼らは、ソクラテスが自らを無知と称するのを、彼一流の皮肉とみた。おょそこのょうなことが重なって、ソクラテスは告訴された。告発の理由は、ソクラテスが国家の認める神々を認めず、新しいダイモンの祭を導入したこと(不敬罪)、および青年に有害な影響を及ぼしたこと(堕落罪)の二点であった。ソクラテスは、第一の点については誤解であると弁明したが、第二の点に関しては、みずからをアテナイという馬が眠りこけないように、しつこくつきまとう虻にたとえながら、自分の活動は神命に従うものだとして譲らなかった。

 ソクラテスは裁判の結果、有罪になったが、量刑は必ずしも死罪ではなかった。量刑を確定する段階での彼自身の挑発的な言辞が、法廷の憤激を招き、当初予想されなかった死刑に決まったのである。ソクラテスの意図は、量刑を最小限にとどめることにはなく、自身の活動の倫理的正当性を主張することにあった。裁判の後、友人たちはソクラテスに脱獄を勧めたが、ソクラテスは応じなかった。長期にわたり国法にょって護られてきた身が、最後になって都合が悪いからといってそれに背くのは一貫性がないとのべ、従容として毒杯を仰いだ。彼は自分の生命ょりも国法を上においた。しかし、遵法が彼の究極の判断基準ではなく、それょりも上位においていたのは神命を全うすることであった。

思想と教説

 思想家としてのソクラテスの特徴については、二つの対照的な像が示されている。その一つは、アリストテレスが伝え、ニーチェが見た主知主義者としての像である。いま一つは、ソクラテスの主要な関心は倫理の問題にあるとするもので、多くの研究者はこの立場をとっている。二つを併せて、倫理の問題を論理の問題と結びつけたところに、つまり、倫理の問題をできるだけ論理的に考えようとしたところに、ソクラテスの思想的特徴があったといえる。

帰納法と定義の問題

 ソクラテスの業績は帰納法と定義の論理的機能を発見したところにある、という説がある。その例として『ラケス』篇における、勇気をめぐる問答がしばしば挙げられる。アテナイの将軍ラケスとニキアスは、勇気とは何かというソクラテスの問いかけに、はじめ「戦列に踏みとどまり退却しないこと」と答える。それに対してソクラテスは、それは戦場における勇気をのべたものにすぎず、戦場においてさえ常に妥当するわけではないとした上で、自分が知りたいのは、ある特定の事柄についての勇気ではなく、すべての事柄について勇気と名づけられるものだと問い直す。この求めに応じて、ふたりの将軍は勇気の普遍的な定義を試みる。ソクラテスは彼らの提出する定義をそのつど吟味し、どの定義も狭すぎるか広すぎて、十分でないことを示す。結局、問答は答えのないまま終わり、ソクラテスは、私たちには勇気とは何かがわかっていなかったと結ぶ。

 ソクラテスは勇気の普遍的で本質的な特徴を問題にした。その前提は、個々の勇敢な行動や態度とはべつに、勇気そのものがあるということである。しかし、具体的に存在する個々の勇敢な態度や行動とはべつに、勇気それ自体があるわけではない。勇気の本質、つまりいろいろな種類の勇敢な態度・行動に共通する特徴とは、実は勇気という言葉の意味にすぎない。「勇気とは何か」というのは擬似問題である、と分析哲学者なら答えるであろう。また、ソクラテスを帰納法の発見者と見なすことには疑問の余地もある。なぜなら、もし彼が本当に帰納的に思考したのなら、歩兵の勇気、騎兵の勇気、知識人の勇気……と問い続け、そこから共通の特徴を論じたはずである。けれども実際にソクラテスがしたことは、不完全な定義に一、二の反例を挙げたにとどまるからである。

無知の知

 「無知の知」はソクラテスの最も重要な教説の一つで、普通次のように説明される。ソクラテスの友人のカイレポンが、あるとき聖地デルポイヘ行き、アポロンの神にソクラテスー彼はこのときすでに有名だったと推測される一以上の知者がいるかと尋ねたところ、神は巫女を通してそれを否定した。ソクラテスに優る知者はいないという神託を聞いて、ソクラテスは大いに驚き困惑した。彼は、世間で知者と評判の高い人を訪ねてみれば、自分以上の知者が存在することは証明されるだろうと考えた。しかしこの期待は空しかった。知者とされている人々も彼と同様に無知であることが判明したからである。しかし彼らにはその自覚がなかった。そこでソクラテスは、自分が無知だということをよく承知している点で、自分は彼らに優っているのだと考えた。

 「無知の知」はこのように説明されるが、田中美知太郎は、ここで問題とされている知(以下、〈知〉と表記する)の性質に注意すべきであるという。〈知〉は無限定な知一般を指すのではない。(何についての知でもよいのなら、ソピステスたちは決して無知ではなかった。)それは理論知・科学知・専門知ではない。ソクラテスに優る知者はいないとは、ソクラテスは誰よりも博識だという意味ではない。要するに、〈知〉とは「善美の事柄」に関する知なのである。

 無知とはまた、単に〈知〉の欠如をいうのではなく、知らないのに知っていると思い込んでいる状態をいう。 したがって、神ならぬ身の人間にとって何よりも大事なのは、自分が知らないことを知らないとすることであり、そのことをソクラテスは無知の自覚とか、人間的な知恵と呼んだのである。無知の。自覚はさらに、無知であるが故に〈知〉を愛し求めるべきことをも意味する。神託の真意はソクラテスに名を借りて、すべての人間に無知を自覚させることにある。そう考えたソクラテスは、以後の生涯をそのための活動に捧げることになる。

魂の世話

 〈知〉を愛し求めれば、于に入れられる、とはソクラテスは考えていない。人間に許されているのは飽〈ことなく〈知〉を求めることだけであって、獲得できる保証は何もない。だとしたら、それは空しいことではないのか。 しかし人間は、ただ生きることを望むだけではなく、善く生きることを望む。「吟味なき生活は生きるに値しない」。なぜ善く生きることを望むのかといえば、そこにこそ幸福があるからである。このように、獲得できるかどうかに関係なく〈知〉を求め続けることは、人間の根源的な欲求なのだと説明される。〈知〉についての一種の不可知論と独特の幸福観とが結びついているのである。

 以上の前提のもとに「魂の世話」という主張がのべられる。魂(プシュケー)はこれを精神といっても、自己といっても、生命といいかえてもよい。魂と対置されるのは金銭・評判・名誉・肉体などである。魂の世話をするとは、魂を善い状態に保つように努力することである。魂が善い状態にあるとは、外的評価にまどわされずにく知卜を愛し求めることである。魂を可能なかぎり善くするように努めよ、なぜならそこにこそ真の幸福があるのだから、とソクラテスは説く。これを逆にいえば、魂は放置されると、〈知〉ではなく富や名誉を求めたがる。「世話」とは、欲望の方に顔を向けがちな魂を〈知〉の方に向け変えることである。「真の幸福」のための欲求禁圧の理論がここに見られる。

徳は知である

 アリストテレスは『エウデモス倫理学』(第1巻第5章)および『二コマコス倫理学』(第6巻第13章)において、ソクラテスが「すべての徳はプロネーシスもしくは知識である」と主張した、とのべている。ソクラテスは道徳や倫理の問題を知識の問題に還元する主知主義者である、という主張の有力な根拠はここにある。

 「徳は知である」という命題は、ソクラテス研究者たちを悩まし続けてきた。なぜ徳が知であるのか。徳(アレテー)とは、一般に、ものの優秀性・卓越性・有能性を示す概念である。なぜ、これらの特性が知であるのか。そのままでは説明がつかないので、研究者たちは徳を「魂の徳」と解釈した。しかしそれでも、説明としては不十分である。そこで、魂の働きは知ることにあるとか、徳のうちにあって知は特別な地位を占めているといった注釈が加えられてきたが、いずれも苦しい説明である。知を知識一般ととらえるから、このょうな説明をしなければならなくなる。「徳は知である」の知を〈知〉(=善美の事柄に関する知)と考えれば、ソクラテスがいったのは「人間の徳は〈知〉を求めることにある」というふうに解釈できる。ものにはそれぞれの美点があるけれども、人間(あるいは魂)の美点は、〈知〉を愛し求めるところにある。徳=知の説がいっているのは、こういうことである。こう考えれば、この命題の意味は無理なく理解でき、「無知の知」や「魂の世話」との関連もはっきりする。

想起としての学習

 ソクラテスが教育的働きかけをおこなう独特のスタイルは、産婆(助産)術と呼ばれているが、その前提は独特の学習概念である。学ぶとは、ソクラテスにょると、忘れていたことを想い出すことである。人間の肉体は有限だが、魂は不死であって、この世に生まれてくる前に過去の世界でさまざまな経験をしている。だから、魂は知らないことは何もないのだが、この世に生まれてくるときに、すべてを忘れてしまう。しかし、知らないのではなく、忘れているだけなのだから、何かのきっかけがあれば想い出すことができる。教育的働きかけとは、適切な質問をおこなうことにょって、このきっかけを与えることだ、とソクラテスはいう。

 学習は想起であるという説の証拠としてよく引かれるのは、『メノン』篇の、奴隷の少年が問いに導かれてピュタゴラスの定理を発見する話である。しかし、ここで重要なのは、学習者がみずから発見するということであって、それが想い出したからなのかどうかは副次的な問題である。想起という概念の前提は、既知と忘却にあるが、必ず知にいたることが確信されているのなら、必ずしも想起にこだわる必要はない。要は、適切な質問の繰り返しによって導かれるなら、学習者は俗見から解放されて真知にいたることができるという点にある。いずれにしても、学習者がみずから知を発見(産出)できることを前提として、産婆術は成立するから、「想起」説と産婆術は一対のものと考えられる。

産婆(助産)術

 ソクラテスにおいて知の獲得は、出産との類比で、つまり知の産出ととらえられる。人間はエロスに衝き動かされて知を産む。エロスは一般に価値への愛と理解されているが、その特徴は美しいもののなかに生産しようとするところにあるから、価値を生産することへの愛といった方が正確である。そして知はそのような価値あるものの一つである。エロスに衝き動かされて人間は価値を生産するが、それを単独でおこなうのではなく、共同でおこなうところにエロス的生産の特徴がある。エロス的生産において、生産される価値は知であり、知を生産するのは学習者であるが、そのほかに学習者の生産を助ける産婆役の教師が必要である。

 生産者と助産者の間での交わりのなかから知が産まれる。換言すれば、知は対話を通して獲得され、助産者の役割は対話をリードして知の生産へと導くところにある。学習者を助けて知を産ませる術としての産婆術は次の過程から成る。第一は、「陣痛」を起こさせる働きとしての〈論破〉であり、その目的は学習者を俗見(ドクサ)から解放するところにある。第二は、出産の助力としての狭義の〈助産〉であるが、さらに第三として、出産された知を吟味して真正のものだけをとりあげる〈吟味〉を加えるべきだとする意見もある。しかし、〈助産〉の仕事は見えにくく、〈論破〉の仕事は目立ちやすい。ソクラテスが人々の反感を買い、死を招くこととなったのも、そのためである。村井実は「厳しい口ゴスと激しいエロスとの稀に見る調和」という言葉でソクラテスの教育的個性を特徴づけている。

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