『ギリシア思想入門』より
ペルシア戦争の意味
王の中の王、ダリウス大王がペルシア帝国の支配者となったのは、前五二一年である。この時点で、アジアとヨーロッパを分けているエーゲ海がダリウスの世界のへりであった。強大な、世界の唯一の支配者であるはずのダリウスにとって、海辺に点在する独立のギリシア人植民都市は、当然、好ましからざる汚点であった。だから、かれは、間もなくヨーロッパに介入し始める。ダリウスがギリシア本土の侵攻をめざしたかどうかは、はっきりしない。なぜなら、小アジアのイオニア植民都市が結束してダリウスに反抗し、この反乱の鎮圧にかれは手を焼いているからである。反乱を起こしたイオニア人はギリシア本土に救援を求め、アテナイとエレトリアが援軍を送った。この救援軍は内陸に侵攻し、サルディスの都を陥れるという目ざましい戦果をあげた。このニュースを遥かに聞いたダリウスは、アテナイ人とは何者か、と側近にたずねたという。答えをきくや、かれは弓矢をとり寄せ、天に向かってヒョウと射てから、こう言った。「主なる神よ、アテナイ人への復讐を成就せしめたまえ」。そして、日に三度、食事のたびに、「ご主人様、アテナイ人を忘れないでください」と下僕に言わしめたという(ヘロドトス『歴史』第五巻一〇五)。こうして、前四九〇年にダリウスは処罰のためにアテナイとエレトリアヘ遠征軍を送った。ペルシア軍は簡単にエレトリアを蹂躙したが、アッティカの東海岸マラトンに上陸したとき、アテナイ人の抵抗は頑強を極めた。外国軍によるギリシア本土への最初の侵攻は、こうして、ほとんどアテナイ人の独力によりくい止められたのである。--ちなみに、ギリシア軍の勝利を人々に伝えるために、マラトンの野からアテナイまで走り続けて息絶えた伝令の故事が、今日のオリンピック競技におけるマラソンの由来である。-以後、マラトンはアテナイの伝統のなかで、もっとも誇り高き名として残ることとなった。アイスキュロスの墓碑銘は、悲劇作家としての輝かしい生涯には無言で、ただ次のように彫られている。アテナイ人にしてエウフォリオンが子アイスキュロス麦みのるゲラの地に朽ちてここに眠るいと著きその剛勇は、マラトンの森これを語らむ髪深きメディア人もまたこれを知れり
ダリウスはギリシア遠征を果たさずに死んだ。そして、それは息子クセルクセスの仕事となった。かれは、ヘロドトスによれば、二六四万の軍勢を率いてギリシアに攻め入ったという。もちろん、この数字を文字どおりに信用する必要はまったくない。とにかく、世界の支配者が、アジアに存在するあらゆる民族の男たちを駆り出すことによって構成した恐るべき大軍であったのである。この大軍が押し寄せたとき、北方と中央のギリシア諸都市は戦わずしてクセルクセスの軍門に降った。しかし、アテナイとスパルタの麿下にあったペロポネソス諸都市は抵抗を決意したのであった。
デルフォイの神託の謎
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所より「ソクラテス以上の賢者はいない」という託宣を受けた。この神託に直面してソクラテスはこう自問する。「いったい、神はなにを言おうとしておられるのか。なんの謎をかけておられるのか。なぜなら、私は自分が知恵のある者ではないことを自覚しているのだから」(『ソクラテスの弁明』)。もちろん、ソクラテスは神を信ずることの篤い人で、その信仰にはオリュムポスの神々をそのままに崇拝する世間並みの神観念に対する批判的な意識があったにもせよ、とにかく、普通のギリシア人と同様にアポロンも信じ、デルフォイの神託も信じていたのである。そこで、この謎を解くことが神から自分に課せられた天職である、とソクラテスは理解した。なぜなら、神は決して偽りを言うはずがないのだから、無知なる者ソクラテスを「最高の賢者」と語るこの一見矛盾的な神託のうちには、なにか深い意味が隠されているに違いないからである。こうして、思い悩んだ末に、かれは世に賢明の誉れ高い人々を歴訪し、かれらから賢さを学ぶことにより、この謎の意味を解こうとしたのであった。この対話活動の開始がかれの哲学の出発点であり、また、かれを死罪にまで逐い込む運命の第一歩であった。さて、対話活動の結果、やがてかれが発見したことは、かれらは自分でもそう思い他人にもそう思われているが、事実は少しも賢くないということであった。すなわち、この謎によって神アポロンが教えようとしたことは、「人間の知恵が無に等しい」ということ、「ソクラテスのように自己の無知を自覚することが人間の賢さである」ということだったのである。
ペルシア戦争の意味
王の中の王、ダリウス大王がペルシア帝国の支配者となったのは、前五二一年である。この時点で、アジアとヨーロッパを分けているエーゲ海がダリウスの世界のへりであった。強大な、世界の唯一の支配者であるはずのダリウスにとって、海辺に点在する独立のギリシア人植民都市は、当然、好ましからざる汚点であった。だから、かれは、間もなくヨーロッパに介入し始める。ダリウスがギリシア本土の侵攻をめざしたかどうかは、はっきりしない。なぜなら、小アジアのイオニア植民都市が結束してダリウスに反抗し、この反乱の鎮圧にかれは手を焼いているからである。反乱を起こしたイオニア人はギリシア本土に救援を求め、アテナイとエレトリアが援軍を送った。この救援軍は内陸に侵攻し、サルディスの都を陥れるという目ざましい戦果をあげた。このニュースを遥かに聞いたダリウスは、アテナイ人とは何者か、と側近にたずねたという。答えをきくや、かれは弓矢をとり寄せ、天に向かってヒョウと射てから、こう言った。「主なる神よ、アテナイ人への復讐を成就せしめたまえ」。そして、日に三度、食事のたびに、「ご主人様、アテナイ人を忘れないでください」と下僕に言わしめたという(ヘロドトス『歴史』第五巻一〇五)。こうして、前四九〇年にダリウスは処罰のためにアテナイとエレトリアヘ遠征軍を送った。ペルシア軍は簡単にエレトリアを蹂躙したが、アッティカの東海岸マラトンに上陸したとき、アテナイ人の抵抗は頑強を極めた。外国軍によるギリシア本土への最初の侵攻は、こうして、ほとんどアテナイ人の独力によりくい止められたのである。--ちなみに、ギリシア軍の勝利を人々に伝えるために、マラトンの野からアテナイまで走り続けて息絶えた伝令の故事が、今日のオリンピック競技におけるマラソンの由来である。-以後、マラトンはアテナイの伝統のなかで、もっとも誇り高き名として残ることとなった。アイスキュロスの墓碑銘は、悲劇作家としての輝かしい生涯には無言で、ただ次のように彫られている。アテナイ人にしてエウフォリオンが子アイスキュロス麦みのるゲラの地に朽ちてここに眠るいと著きその剛勇は、マラトンの森これを語らむ髪深きメディア人もまたこれを知れり
ダリウスはギリシア遠征を果たさずに死んだ。そして、それは息子クセルクセスの仕事となった。かれは、ヘロドトスによれば、二六四万の軍勢を率いてギリシアに攻め入ったという。もちろん、この数字を文字どおりに信用する必要はまったくない。とにかく、世界の支配者が、アジアに存在するあらゆる民族の男たちを駆り出すことによって構成した恐るべき大軍であったのである。この大軍が押し寄せたとき、北方と中央のギリシア諸都市は戦わずしてクセルクセスの軍門に降った。しかし、アテナイとスパルタの麿下にあったペロポネソス諸都市は抵抗を決意したのであった。
デルフォイの神託の謎
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所より「ソクラテス以上の賢者はいない」という託宣を受けた。この神託に直面してソクラテスはこう自問する。「いったい、神はなにを言おうとしておられるのか。なんの謎をかけておられるのか。なぜなら、私は自分が知恵のある者ではないことを自覚しているのだから」(『ソクラテスの弁明』)。もちろん、ソクラテスは神を信ずることの篤い人で、その信仰にはオリュムポスの神々をそのままに崇拝する世間並みの神観念に対する批判的な意識があったにもせよ、とにかく、普通のギリシア人と同様にアポロンも信じ、デルフォイの神託も信じていたのである。そこで、この謎を解くことが神から自分に課せられた天職である、とソクラテスは理解した。なぜなら、神は決して偽りを言うはずがないのだから、無知なる者ソクラテスを「最高の賢者」と語るこの一見矛盾的な神託のうちには、なにか深い意味が隠されているに違いないからである。こうして、思い悩んだ末に、かれは世に賢明の誉れ高い人々を歴訪し、かれらから賢さを学ぶことにより、この謎の意味を解こうとしたのであった。この対話活動の開始がかれの哲学の出発点であり、また、かれを死罪にまで逐い込む運命の第一歩であった。さて、対話活動の結果、やがてかれが発見したことは、かれらは自分でもそう思い他人にもそう思われているが、事実は少しも賢くないということであった。すなわち、この謎によって神アポロンが教えようとしたことは、「人間の知恵が無に等しい」ということ、「ソクラテスのように自己の無知を自覚することが人間の賢さである」ということだったのである。
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