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ブレジネフの愚行 バム(BAM)鉄道

『鉄道の歴史』より ブレジネフの愚行

むこうみずな鉄道建設計画が数あるなかで、最もばかげた、そして最もコス卜が高くついたものは全長3700kmのバイカルアムール鉄道だ。シベリア横断鉄道の支線だが、建設の難しさもコストも本家をはるかに上回る。この鉄道はソビエト政権が共産主義の卓越性を世に示すために思いっいた、最も野心的な超巨大プロジェクトのひとっだった(他に宇宙計画、シペリアの川の流れを逆にする計画などがあったが、幸いにも計画段階で中止となった)。バイカル・アムール鉄道は頭文字をとってバム(BAM)鉄道と呼ばれ、完成までに4分の3世紀、建設費用は140億米ドルもかかっている。だが、その価値はいまだにはっきりとは認められていない。

バム鉄道は、ヨーロッパロシアからアジアの太平洋岸までを結ぶ既存のシベリア横断鉄道に代わるルートを提供するのが目的だった。最初に議題に上ったのは1930年代、スターリンの時代だった。ウラジオストクに至るシベリア横断鉄道の一部区間が中国領を通っているため、中国や日本と論争になったことを受け、政府は戦略的代案としてこの鉄道を提案した。1916年にはソビエト連邦内だけを通るアムール鉄道が完成していたが、中国との国境にあまりに近く、攻撃されやすいと見なされたのだ。予測される脅威に対抗するため、スターリン政権は既存のシベリア横断鉄道より800km北を並行に走る新たな路線を建設すると極秘に決定した。シベリア横断鉄道から分岐する地点はタイシェトとし、終点はソヴィエツカヤ・ガヴァニ(ウラジオストクより北で太平洋に面する)と決まったが、途中のルートについては未定だった。

新路線が通ることになる地方は実質上の無人地帯だった。シペリアの住民のほとんどがシベリア横断鉄道から160km圏内で暮らしていたため、この大プロジェクトに取り組む意義には(中国・日本の脅威があったとはいえ)疑問の余地があった。ソビエト政府は五ヵ年計画でバム鉄道の経済目標を発表し、1933年から1937年の第二次五ヵ年計画ではその経済的利点を強調した。鉄道は「ほとんど調査が行われていないシペリア東部を横断し、広大な土地と莫大な富--琥珀、金、石炭--に命を吹き込み、さらには農業に適した多くの土地で作物の栽培を可能にするだろう」と五ヵ年計画は謳った。

現実的な問題はいくらでもあった。スキルの求められる作業であっても新人はほとんど訓練を受けられない。詳細なルー卜が用意されていない。物理的条件も思っていた以上に過酷だ。イデオロギーが絡んでいるだけに、早期の完成をめざして冬の間も作業しなければならないが、気温が-20℃になると作業ができない。そこまで冷え込まなくてもブルドーザーは動かなくなり、斧は砕けてしまう。今までの作業から得たはずの教訓は忘れ去られたようで、線路全体が徐々にぬかるみのなかに沈んでいく。不安定な土地に建てた駅や倉庫は崩壊する。

すでに完成した区間の状態は非常に悪く、列車は速度をおもいきり落とさなければならないうえに脱線もしばしば起きる。タイシェトとティンダ間の188kmを行くのに8時間もかかる。トンネルを掘る大変さも予想をはるかに超えた。10年で全線開通など所詮は夢物語だった。バイカル湖の東方にある全長15kmのセペロムイスキー・トンネル〔ロシア最長のトンネル〕は完成不能かと思われるほどの難関だった。掘削を開始した1977年、地下湖からの水があふれ出た。液体窒素をトンネルの壁に注入して水を凍らせ、内壁をコンクリートシェルで裏打ちするというみごとな方法で解決したものの、完成までに26年も要した。その間に急勾配の迂回路が2本作られたが、どちらを通るにしても時間がかかった。このような状況でありながら、バム鉄道をどうしてもプロパガンダに利用したい共産党幹部は1984年の開通にこだわり、この年に開通式を開催し、建設作業の締めくくりとして黄金の犬釘を打ち込むパフォーマンスまで行った。まったく名ばかりの開通式で、外国人ジャーナリストはひとりも招かれなかった。完成とは程遠い状況なのが明らかだったからだ。

結局、バム鉄道は3回も公式に開通している。ブレジネフは1982年に死去し、1985年に跡を継いだミハイル・ゴルバチョフはプロジェクトを続行させた。当時の建設工事費はすでに国内総生産の1%を吸い上げていた。最初の開通式から7年後、ゴルバチョフはバム鉄道の開通を宣言し、日露間を結ぶ新たな絆となるだろうと豪語した。だが、その時点でも難関のセペロムイスキー・トンネルはまだ完成していなく、数区間は建設資材を運ぶ速度の遅い列車しか通れなかった。ソ連崩壊後に大統領となったウラジーミル・プーチンは2001年、鉄道が完成したと発表した。トンネルが実際に開通したのは2003年である。

バム鉄道はブレジネフの期待に応えていない。農業に適した広大な地が開けるという謳い文句はただの妄想にすぎなかった。シベリアの天候はそれほど厳しい。また、シベリア横断鉄道の負担の軽減にもなっていない。最も混雑するのは分岐駅タイシェトよりも西側の、バム鉄道と線路を共有している区間だからだ。さらに、アジアとョーロッパを結ぶルートとしても実用的な選択肢とはなっていない。

シベリア横断鉄道が帝政崩壊の一因となったように、資金を注ぎ込みすぎたバム鉄道は共産主義体制崩壊の一因となった。コムソモールのボランティアその他の建設作業員50万人のほとんどは、共産主義の理想にも、その壮大なプロジェクトにも深い疑念を抱くようになっていた。約束されていた住宅や車が支給されず、激怒した者も大勢いた。ソ連崩壊後にはボランティア証明書の約束事項の履行を求め、かつてのバム建設作業員たちがデモを行っている。

21世紀には約束の地に人びとを運んでいるというスローガンとは裏腹に、バム鉄道は明らかに暗礁に乗り上げていた。国の指導者の失敗と無力さを象徴するものとして、ソ連時代に国民はこの鉄道を物笑いの種にしていた。バム鉄道の歴史を描いたクリストファー・J・ウォードの『ブレジネフの愚行』は次のようにまとめている。バムの経済的、社会的、文化的な重要性をうんざりするほど繰り返してきたコムソモール、共産党、そしてソ連政府は、国内の若者全体が体制に対する信念を失わないためにはこのメッセージを送る必要があると固く信じて疑わなかった。だが皮肉なことに、鉄道の現実を目の当たりにした若者たちは、ソ連の政治的・経済的システム全般に対する信念を失っていった。
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