『グッバイ・レニングラード』より
封鎖下のエルミタージュ
開館時間を過ぎ、エルミタージュ美術館内は徐々に観光客の姿が見られるようになってきた。
世界各国の言語が飛び交い、天井にはシャンデリアが煌々と輝く。ここにいると、レニングラード封鎖など遥か遠い昔のことのように思えてくる。
では、封鎖中のエルミタージュは、実際どのような状況であったのか。
ドイツのソ連侵攻から一か月後の七月、エルミタージュの特に重要な美術品は、特別列車によりラウル山脈に疎開された。
ピカソ、ダ・ヴィンチ、レンブラントなど、エルミタージュの至宝が次々と額から外され、ホールには空の額縁がずらりと並んだ。絵画だけでなく、金銀財宝、古代金製美術品などを詰め込んだ何トンもの箱がホールに山積みされ、トラックや列車が次々にそれを運んだ。
最終的には、百十一万七千点もの美術品が移管されたという。
そして砲撃が始まると、多くの部屋が被弾。確認されただけでも三十二個の爆弾が落ちて、エルミタージュは甚大なダメージを負った。
最初に「紋章の間」に落とされ、その爆弾の破片が「玉座の間」にも飛んだ。破片によってホール全体が穴だらけになり、天井に輝く巨大なシャンデリアは、修復不可能なまでに破壊されたという。「大使の階段」も砲弾によって階段の支えの部分が大きくへこみ、悲惨な姿となった。
そして当時、このエルミタージュの地下にも死体安置所があったというから驚く。
寒さと飢餓により、当時の館長をはじめ、多くの職員が次々と死亡した。それらの遺体はエルミタージュ美術館の地下に集められ、定期的に運び出されて埋葬された。
さらに驚くのは、封鎖中、エルミタージュの地下室には二〇〇〇人もの人が住んでいたという事実だ。冬宮地下では職員や芸術家が外套にくるまり、研究員たちはそこで研究を続けたという。しかし、毎日、二、三人ずつのぺースで死んでいき、一九四二年の春どろには、生き残っている人間は僅かとなっていた。
しかし、そのような悲惨な状況下でも、心温まるエピソードはある。
パーヴェル・グプチェフスキー氏は、エルミタージュの職員として、封鎖中も館内の管理にあたっていた。
四二年の四月末日、豪華な家具を移動させるために、士官学校の学生グループがエルミタージュにやってきた。彼らはシベリアから召集されたばかりで、まだ体力もあったため、作業はスムーズに終わった。
そこでお礼の意味を込めて、グプチェフスキー氏はこのシベリア出身の若者たちを連れ、エルミタージュを案内して回ったのだという。
そこには、空っぽの額縁しかなかった。床に整然と並べられた空の額縁を前に、彼はそこにかつて存在した名画について、学生たちに語ったという。それはどのような人物によって描かれ、どんな歴史を持ち、どんなに美しい絵だったのか。
後にグプチェフスキー氏は、この時のことをこう語っている。
「それは、私の人生の中でもっとも奇妙な館内ツアーでしたよ。でも、私は知ったのです。空っぽの額縁だって、人に感銘を与えられるんだって!」
地下に無数の遺体を安置しながら、上階では額だけの絵画が人を感動させている。
彼は、あれほどまでに人々が熱心に芸術を鑑賞し、心震わされるガイドを二度と経験することはなかったという。
フィンランド駅ヘ!
目を開けると、既に市内に戻っていた。一時間ほど寝ただろうか。
窓の外に、広場に立つ銅像が見える。真下まで行き、足元からその銅像を見上げてみた。
ウラジーミル・イリイチ・レーニン。ロシア革命において主導的役割を果たし、ソビエト連邦の初代指導者となった人物である。
レーニン像は、フィンランド駅前のレーニン広場に立っている。フィンランド駅は戦時中、ラドガ湖へ通じる脱出ルートの起点でもあった。「命の道」開通後は人々が押し寄せ、この広場はさながら難民キャンプのような酷いありさまだったそうだ。
そしてここフィンランド駅は、この国にとって特別な意味を持つ。
一九一七年四月、二月革命勃発の知らせを受けたレーニンは、亡命先のスイスから封印列車でこの街に凱旋帰国した。フィンランド駅に降り立ったレーニンを、数万の民衆が熱狂的に迎え、この広場は歓喜の声で溢れた。
そして当時少年だったショスタコーヴィチも、フィンランド駅でレーニンを迎えた市民のひとりであった。
ショスタコーヴィチは、帝政ロシアを打倒した二月革命をこの街で迎えた。
労働者によるデモ隊が彼の家の前を通過したとき、デモ隊と警官隊が衝突し、目の前で同年代の少年が殺される場面を目撃したという。
その二か月後、レーニン帰還の噂を聞きつけ、ショスタコーヴィチ少年は級友とともに、フィンランド駅に向かう労働者の列に加わった。
人々はネヴァ川にかかるアレクサンドル二世橋(現リチェーイヌイ橋)を渡りながら、口々に叫んだ。
「フィンランド駅へ!」
橋を渡っても、あまりの人の多さに、遠く離れた公園の隅に立つのが精一杯だったというが、広場を覆う人の波、その熱気や興奮は、少年の心に深く刻み込まれたことだろう。そのとき彼が思い描いたのは、ただ希望に満ちた未来だったのかもしれない。
帰国の翌日に行われたレーニンの演説は、社会主義の誕生の瞬間として伝説となる。
戦争の即時停止・社会主義革命への移行・臨時政府の打倒などの一〇ヵ条の要綱を党の集会で読みあげ、それに注釈をつけた「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について(四月テーゼ)」が、ユリウス暦四月七日付の『フラウダ』紙に発表された。
これがボリシェヴィキの運動指針となり、十月革命へと一気に走り出すのだ。
しかし、こうして実際に目にしたレーニン像は、私のなかのレーニンのイメージよりかなり太っていた。明らかにお腹が出ている。演説の途中なのか、右手を前に突き出し、ピチピチのコートをはためかせている。
当時レーニンは四〇代の後半。年齢的にも立派なおじさんだ。革命は若者の専売特許、という私のなかの固定概念は、学生運動のイメージが強すぎるせいだろうか。
レニングラードという街の名は、レーニンを称えて付けられた。
しかし苦難の歴史を思い出すのだろうか、二〇〇九年には何者かによってこの銅像に爆弾が仕掛けられ、コートの後ろ部分に大きく風穴が空いた事件もあったという。
ソビエト連邦という国は、レーニンの帰還に熱狂した民衆の望む世界だったのだろうか。
私が子供の頃、町内会で防火訓練があると、父はやたらに張り切った。「ヘルメット被ると、昔の血が騒ぐんだよなあ!」とおどけるので、「で、何と戦ってたの?」といじわるく聞くと、大人にはいろいろあんだよ~、といつも言葉を濁すのだった。
両親はほとんど私に学生運動の頃の話をしない。しかしある時、殺人事件か何かのニュースを見て憤慨する私に、父が語った話がある。
「昔セクトの集会所でさ、先輩に夜見張りに立てって言われたんだよ。『向こうの奴らが来たら、頭かち割っちやえ』ってゲバ棒持たせてさ。それで俺、棒持って待ってたんだけど、結局誰も来なかった。もし来てたら俺、『やっちゃってた』と思うんだよなあ。今考えるとバカだけど、人間なんて、自分で善人だなんて思ってても、いつ犯罪者になるかわかんないもんだよ」
恐らく、最初はふたりとも理想をもって運動に身を投じたのだろう。しかし最後の方は、何と戦っているのか、本人たちにもよく分からなくなっていたのかもしれない。
この広場は、ふたりの夢の残骸だ。
雪を被ったレーニン像の周辺は人もまばらで、高く掲げられた右手だけが、理想郷の在処を示すように空を指している。
封鎖下のエルミタージュ
開館時間を過ぎ、エルミタージュ美術館内は徐々に観光客の姿が見られるようになってきた。
世界各国の言語が飛び交い、天井にはシャンデリアが煌々と輝く。ここにいると、レニングラード封鎖など遥か遠い昔のことのように思えてくる。
では、封鎖中のエルミタージュは、実際どのような状況であったのか。
ドイツのソ連侵攻から一か月後の七月、エルミタージュの特に重要な美術品は、特別列車によりラウル山脈に疎開された。
ピカソ、ダ・ヴィンチ、レンブラントなど、エルミタージュの至宝が次々と額から外され、ホールには空の額縁がずらりと並んだ。絵画だけでなく、金銀財宝、古代金製美術品などを詰め込んだ何トンもの箱がホールに山積みされ、トラックや列車が次々にそれを運んだ。
最終的には、百十一万七千点もの美術品が移管されたという。
そして砲撃が始まると、多くの部屋が被弾。確認されただけでも三十二個の爆弾が落ちて、エルミタージュは甚大なダメージを負った。
最初に「紋章の間」に落とされ、その爆弾の破片が「玉座の間」にも飛んだ。破片によってホール全体が穴だらけになり、天井に輝く巨大なシャンデリアは、修復不可能なまでに破壊されたという。「大使の階段」も砲弾によって階段の支えの部分が大きくへこみ、悲惨な姿となった。
そして当時、このエルミタージュの地下にも死体安置所があったというから驚く。
寒さと飢餓により、当時の館長をはじめ、多くの職員が次々と死亡した。それらの遺体はエルミタージュ美術館の地下に集められ、定期的に運び出されて埋葬された。
さらに驚くのは、封鎖中、エルミタージュの地下室には二〇〇〇人もの人が住んでいたという事実だ。冬宮地下では職員や芸術家が外套にくるまり、研究員たちはそこで研究を続けたという。しかし、毎日、二、三人ずつのぺースで死んでいき、一九四二年の春どろには、生き残っている人間は僅かとなっていた。
しかし、そのような悲惨な状況下でも、心温まるエピソードはある。
パーヴェル・グプチェフスキー氏は、エルミタージュの職員として、封鎖中も館内の管理にあたっていた。
四二年の四月末日、豪華な家具を移動させるために、士官学校の学生グループがエルミタージュにやってきた。彼らはシベリアから召集されたばかりで、まだ体力もあったため、作業はスムーズに終わった。
そこでお礼の意味を込めて、グプチェフスキー氏はこのシベリア出身の若者たちを連れ、エルミタージュを案内して回ったのだという。
そこには、空っぽの額縁しかなかった。床に整然と並べられた空の額縁を前に、彼はそこにかつて存在した名画について、学生たちに語ったという。それはどのような人物によって描かれ、どんな歴史を持ち、どんなに美しい絵だったのか。
後にグプチェフスキー氏は、この時のことをこう語っている。
「それは、私の人生の中でもっとも奇妙な館内ツアーでしたよ。でも、私は知ったのです。空っぽの額縁だって、人に感銘を与えられるんだって!」
地下に無数の遺体を安置しながら、上階では額だけの絵画が人を感動させている。
彼は、あれほどまでに人々が熱心に芸術を鑑賞し、心震わされるガイドを二度と経験することはなかったという。
フィンランド駅ヘ!
目を開けると、既に市内に戻っていた。一時間ほど寝ただろうか。
窓の外に、広場に立つ銅像が見える。真下まで行き、足元からその銅像を見上げてみた。
ウラジーミル・イリイチ・レーニン。ロシア革命において主導的役割を果たし、ソビエト連邦の初代指導者となった人物である。
レーニン像は、フィンランド駅前のレーニン広場に立っている。フィンランド駅は戦時中、ラドガ湖へ通じる脱出ルートの起点でもあった。「命の道」開通後は人々が押し寄せ、この広場はさながら難民キャンプのような酷いありさまだったそうだ。
そしてここフィンランド駅は、この国にとって特別な意味を持つ。
一九一七年四月、二月革命勃発の知らせを受けたレーニンは、亡命先のスイスから封印列車でこの街に凱旋帰国した。フィンランド駅に降り立ったレーニンを、数万の民衆が熱狂的に迎え、この広場は歓喜の声で溢れた。
そして当時少年だったショスタコーヴィチも、フィンランド駅でレーニンを迎えた市民のひとりであった。
ショスタコーヴィチは、帝政ロシアを打倒した二月革命をこの街で迎えた。
労働者によるデモ隊が彼の家の前を通過したとき、デモ隊と警官隊が衝突し、目の前で同年代の少年が殺される場面を目撃したという。
その二か月後、レーニン帰還の噂を聞きつけ、ショスタコーヴィチ少年は級友とともに、フィンランド駅に向かう労働者の列に加わった。
人々はネヴァ川にかかるアレクサンドル二世橋(現リチェーイヌイ橋)を渡りながら、口々に叫んだ。
「フィンランド駅へ!」
橋を渡っても、あまりの人の多さに、遠く離れた公園の隅に立つのが精一杯だったというが、広場を覆う人の波、その熱気や興奮は、少年の心に深く刻み込まれたことだろう。そのとき彼が思い描いたのは、ただ希望に満ちた未来だったのかもしれない。
帰国の翌日に行われたレーニンの演説は、社会主義の誕生の瞬間として伝説となる。
戦争の即時停止・社会主義革命への移行・臨時政府の打倒などの一〇ヵ条の要綱を党の集会で読みあげ、それに注釈をつけた「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について(四月テーゼ)」が、ユリウス暦四月七日付の『フラウダ』紙に発表された。
これがボリシェヴィキの運動指針となり、十月革命へと一気に走り出すのだ。
しかし、こうして実際に目にしたレーニン像は、私のなかのレーニンのイメージよりかなり太っていた。明らかにお腹が出ている。演説の途中なのか、右手を前に突き出し、ピチピチのコートをはためかせている。
当時レーニンは四〇代の後半。年齢的にも立派なおじさんだ。革命は若者の専売特許、という私のなかの固定概念は、学生運動のイメージが強すぎるせいだろうか。
レニングラードという街の名は、レーニンを称えて付けられた。
しかし苦難の歴史を思い出すのだろうか、二〇〇九年には何者かによってこの銅像に爆弾が仕掛けられ、コートの後ろ部分に大きく風穴が空いた事件もあったという。
ソビエト連邦という国は、レーニンの帰還に熱狂した民衆の望む世界だったのだろうか。
私が子供の頃、町内会で防火訓練があると、父はやたらに張り切った。「ヘルメット被ると、昔の血が騒ぐんだよなあ!」とおどけるので、「で、何と戦ってたの?」といじわるく聞くと、大人にはいろいろあんだよ~、といつも言葉を濁すのだった。
両親はほとんど私に学生運動の頃の話をしない。しかしある時、殺人事件か何かのニュースを見て憤慨する私に、父が語った話がある。
「昔セクトの集会所でさ、先輩に夜見張りに立てって言われたんだよ。『向こうの奴らが来たら、頭かち割っちやえ』ってゲバ棒持たせてさ。それで俺、棒持って待ってたんだけど、結局誰も来なかった。もし来てたら俺、『やっちゃってた』と思うんだよなあ。今考えるとバカだけど、人間なんて、自分で善人だなんて思ってても、いつ犯罪者になるかわかんないもんだよ」
恐らく、最初はふたりとも理想をもって運動に身を投じたのだろう。しかし最後の方は、何と戦っているのか、本人たちにもよく分からなくなっていたのかもしれない。
この広場は、ふたりの夢の残骸だ。
雪を被ったレーニン像の周辺は人もまばらで、高く掲げられた右手だけが、理想郷の在処を示すように空を指している。
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