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チエ・ゲバラ ボリビア・ゲリラ--「予告された死」

『キューバ現代史』より チエ・ゲバラ--なぜボリビアで死ななければならなかったのか 「第二、第三の、そして多くのベトナムを!」 ゲバラとキューバ革命

ボリビア・ゲリラ--「予告された死」

 “革命が反革命を革命する”

  コンゴのゲリラ運動は失敗し、タンザニアとプラハに隠れ住んだが、カストロの懇願に応えて密かにキューバに戻り、ピネル・デル・リオでゲリラ戦の準備を整え、1966年11月、ゲバラはボリビアヘ向かった。だが、1年後の1967年10月8日、政府軍に捕えられ、銃殺された。

  世界の多くの人々も、妻のアレイダも、また「ゲバラであればこそ」と彼について行った戦士たちも、たとえわずかであれ、生きて帰れる可能性を信じていた。しかし、今から振り返ればそれは「予告された死」であった。ゲバラ自身もほぼ100%の死を覚悟してキューバを出立していた。

  ボリビア・ゲリラ部隊はゲバラのほか40人から成っていた。キューバ人16人、ペルー人3人、ドイツ系アルゼンチン人のタマーラ・ブンケ、そのほかにソ連派のボリビア共産党と袂を分かったインティ・ペレド、日系のフレディ・マイムラなどボリビア人が20人。ゲバラはラテンアメリカ革命の第一弾としてボリビアでゲリラ戦を展開しようとしていたのである。

  ボリビアは南米大陸の中心にあり、貧しい農民の国である。この地でゲリラ闘争を発展させ、その他の諸国で運動が起きれば、「第二、第三の、そして多くのベトナム」という状況が生まれる。このように考えたが、農民の支援を得られないまま、ゲバラのゲリラ部隊は「核」(フォコ)の段階で消滅した。

  なぜ、ボリビア・ゲリラは失敗したのであろうか。

  何よりも、キューバ革命後、米国の反乱抑止能力は大幅に向上していた。「第二、第三のキューバ」を阻止するため、米軍の装備や情報収集能力は格段に強化されていた。ラテンアメリカ諸国の軍部も近代化され、米国で教育を受けた将軍が軍のトップを握っていた。各国の軍部は米軍と連携し合いながら、また地域のネットワークを形成し、反政府ゲリラや反体制派の一掃に乗り出していた。ゲバラの小さなゲリラ部隊は米軍とラテンアメリカ軍部の巨大な力の前には無力であった。

  戦術的問題もあった。ゲバラが入ったサンタ・クルスのニャンカウアスーはほとんど人の住まない地域であり、1952年のボリビア革命の主要な担い手である鉱山労働者の住む地域とも、また人口が集中する首都ラパスのある高地地帯とも、あまりにも遠く離れていた。他方、ソ連派のボリビア共産党は選挙路線を譲らず、最後まで支援を渋った。キューバ政府の説得も無駄であった。農民もまた、貧しいまま放置されていたにもかかわらず、政府系の農民組織に統合され、その影響下にあった。

  ゲリラの「核」は外部の支援を得られないまま孤立し、政府軍の包囲が狭まってからは連絡手段も失われ、米国の支援を受けたボリビア軍の前に敗北した。
 「僕は理想主義者などではない」

  ゲバラは閣僚としての地位も、愛する妻や子どもたちもあとに残して、ラテンアメリカ革命を目指してボリビアで闘い、銃弾に斃れた。しかも、閣僚であるからといって特権を享受することを拒否し、一般国民と同じように配給だけで暮らし、キューバを後にするときにも家族には財産らしいものは何も残さなかった。みずから唱道していた「新しい人間」を体現した人物であった。そのため、ボリビアでの死から半世紀を過ぎても、キューバ革命を知らない世代の心を捉え、最期の地、ボリビアのバジェ・グランデを訪れる人々は絶えない。そればかりか、世界にはコルダが撮影したあの肖像が印刷されたTシャツやコーヒーカップなど「ゲバラ・グッズ」が溢れている。「理想主義者」ゲバラはイデオロギーを超えて世界の人々の心を捉えている。

  しかし、ゲバラは「自分は理想主義者などではない」と言う。

  1962年10月に青年組織の指導者たちの前で、ゲバラは次のように語っていた。キューバがソ連や中国とも異なる「平等主義社会」の建設を目指したときに、「理想主義だ」という国際社会からの批判に応えたものである。インターネットにはこの演説を引用して「理想主義者」ゲバラを讃える言葉が駆け巡っているが、誤訳が世界を席巻してしまったのであろう。実際には、ゲバラはこのとき、キューバの若者たちを前に、次のように語り、ラテンアメリカをはじめ世界の抑圧された人々の解放のために闘うよう訴えていたのである。一見、理想にすぎないとみなされていることであっても、実現のための客観的条件は存在する。人々が力を合わせて一歩一歩努力を重ねていけば、その条件は熟していく、というのである。

   「われわれに対し、どうしようもない理想主義者であるとか、できもしないことを考えているという人々があるかもしれない。……これに対し、われわれは何度でも答えなければならない。いや、それはできることなのだ。本当にできるのだ、と。革命の4年間のキューバがそうであったように、人民が平凡となれば、前進し続け、人間のちっぽけさを解消していくことができる」

 ゲバラがゲバラであるために

  これまで述べてきたように、ゲバラもラテンアメリカ革命のためには多様な戦略が可能であることは認識していた。しかし、ほとんどの諸国ではゲリラ戦略の条件は整っているとして、ラテンアメリカ革命を目指して出立した。

  ボリビア行きについて、カストロは「少し待つように」と説得していた。これはタイボⅡ著の『エルネスト・チエ・ゲバラ伝』でも明らかにされていることだが、ゲリラ路線に反対するボリビア共産党の支持を取りつけるには時間が必要だったのである。ボリビア共産党が最終的に拒否した場合には、少なくとも他の左翼勢力の支援を得る必要があった。ゲリラは人民の支援なくして闘えない。ゲバラのボリビア・ゲリラには、キューバ人やペルー人などのほか、ボリビア共産党の方針に反対するボリビア人が加わっていたが、ゲリラの発展のためには、その他の左翼勢力や地域農民の支援が不可欠であった。

  では、なぜ、ゲバラは制止を振り切りボリビアに向かったのであろうか。コンゴでのゲリラ戦の失敗のあとに、カストロは何度も帰国を促したが、ゲバラは頑なに拒んでいた。退路を断ってハバナを後にしたゲバラにとってキューバヘ戻ることはできなかったのである。最終的には、ボリビア・ゲリラの訓練のために一時的にでも帰国した方がよいのではないかというカストロの提案を受け入れ、キューバに戻ったが、そこには「ゲバラであればこそ」とつき従う覚悟を固めた多くのキューバ人が待っていた。「ゲバラがゲバラである」ためにはボリビアに赴く以外に選択肢はなかった。

  キューバ革命はキューバ固有のものである。ラテンアメリカ諸国は共通の歴史や社会経済構造を持つとはいえ、それぞれの地域や国の違いは大きい。特にキューバは砂糖プランテーションを基盤にした米国の政治的経済的支配が確立していた国である。これに対しボリビアは鉱業が経済の中心を占め農村では先住民共同体が根強く残っている。特に、1952年には革命が起き、不完全なものであり、不十分な結果に終わったとはいえ、土地改革によって多くの農民が土地を手に入れ、革命政権がなし崩し的に右傾化したあとも政府系の農民組織に統合されていた。農民とともに革命の主要な勢力であった錫鉱山労働者は、依然として戦闘性を維持してはいたものの、鉱山地帯に集住していた。このようなボリビアで農村に基盤を置くゲリラ戦略は有効であったのかどうか。

  1956年にグランマ号でキューバ東部海岸に上陸したあと、カストロらがシエラ・マエストラ山頂にたどり着くことができたのは農民の支援網によるところが大きかった。農民の組織化はセリア・サンチェスの努力のたまものであったとはいえ、キューバ東部は独立運動揺藍の地であり、革命意識は強かった。カストロらの救出に力を尽くしたペレス一族はオルトドクソ党の支持者であったが、その無力ぶりに不満を募らせていた。

  これに対し、当時のボリビアは軍人のバリエントス政権下(1964~69年)にあった。右傾化を進めていた革命政権のパス・エステンソロ政権を1964年にクーデターで倒して「革命の垣根」を取り払い、鉱山などに米国資本を積極的に導入し、米軍と協力して反乱抑止政策を強化した政権である。錫鉱山の労働者管理制度を解体し、1967年にはこれに抵抗するカタビ・シグロ・ベインテ鉱山労働者に対する虐殺事件を起こしている。しかし、その一方では、ケチュア語を話す大統領として、農村をこまめに回り農民の支持を集めていた。農民組織は政府と協定を結び、軍部傘下の組織として農民の民兵隊を形成していた。

  ゲバラはこのような状況のもとでニャンカウアスーに入り込んだことになる。土地改革によってわずかな土地を与えられただけで、政府の支援もなく放置され、農民は依然として貧しいままであったが、ゲバラが『ボリビア日記』に1967年4月30日に記しているように、「農民の基盤は発展していない。計画的に脅し、中立化するのがせいぜいのところであり、支持はそのあとのことだ」。

  21世紀に入り、ボリビアでは史上初めて先住民大統領が誕生し、そのもとで先住民共同体を評価し、混血(メスティソ)すら一つの民族乏みなした、民族共同体を基礎とする、多民族国家が形成された。ゲバラはラテンアメリカの旅でペルー、ボリビア、グアテマラにおいて先住民社会に接している。青年時代にペルーを訪問したときにも、先住民共同体を基礎に独自の社会主義理論を発展させたマリアテギの理論を知る機会もあったはずだ。しかし、20世紀半ばには、ゲバラだけではなく、世界の多くの人々にとっても、21世紀のボリビアのような「新しい社会主義概念」は想定しがたいものであった。
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