『フランス人の第一次世界大戦』より ⇒ 国民国家から総力戦が生まれた
1916年の解説
1916年のフランス最大の出来事は、ヴェルダンの戦いとソンムの戦いだった。
「ヴェルダン」という言葉は特別な響きをもつ。ヴェルダンで戦ったといえば、それだけで大変な名誉、勲章、誇りになったが、同時に阿鼻叫喚の地獄絵の記憶も呼びさました。
フランス北東部ロレーヌ地方のヴェルダンは難攻不落の要塞都市で、街を取り囲む丘には多数の要塞が配置され、ドイツ軍も最初はあえて攻撃しようとはしなかった。しかし、ドイツ軍を率いるファルケンハイン将軍は、ここを攻撃すればフランス軍は必死に防戦するはずで、そうすれば消耗戦に持ち込み、フランス軍を疲弊させることができると考えた。消耗戦とは、神経を消耗するという意味ではなく、一人でも多くの敵兵を死傷させて敵軍を「すり減らす」という意味である。
1916年2月21日朝、ひそかに集められたドイツ軍の大小さまざまな口径の大砲が一斉に火を吹き、ヴェルダンの戦いが幕を開けた。初日だけでもドイツ軍は100万発の砲弾を浴びせ、複数の村落が跡形もなく消滅、塹壕もすべて破壊された。地面は月面のクレーターのようなすり鉢状の穴があいた状態となり、補給が寸断された状態で兵士たちはこの穴に身を隠し、溜まった水を飲んで生きのびた。
ヴェルダンとその南西のバール=ル=デュックとを結ぶ道は「聖なる道」と呼ぱれ、補給路として兵士や弾薬が続々と運び込まれ、物量戦・総力戦の様相を呈した。他の地域に展開していた部隊も入れ替わり立ち代わりヴェルダンに投入されたので、フランス軍の約4分の3の部隊がヴェルダンを経験した。降りそそぐ砲弾の合間を縫って、突撃が繰り返された。
ヴェルダンの街自体は終始フランス軍の支配下にあったが、街を取り囲む要塞や高地をめぐって激しい攻防戦が展開された。攻撃早々、名高いドゥオーモン要塞がドイツ軍の手に落ち、続いてヴォー要塞も陥落する。しかし、後半は重砲を増強したフランス軍が巻き返し、ほぼ戦い前の勢力範囲に押し戻した。ドイツ軍の攻撃は失敗に終わり、10か月間の戦いでフランス軍の死者は16万人、ドイツ軍の死者は14万人に達した(昔はフランス軍の死者は35万人、両軍あわせて死者70万人ともいわれていた)。
1916年のちょうど後半となる7月1日、北仏ソンム川の流域(アミアンの東40km付近)でソンムの戦いが始まった。フランス軍が単独でドイツと戦ったヴェルダンとは異なり、北仏はイギリスに近いのでイギリス軍が主役となった。7月1日、イギリス軍は引いて守るドイツ軍に欺かれて約6万人の死傷者を出し、イギリス軍史上最大の悪夢の日となった。特筆すべきは、9月15日、膠着する戦線を突撃するためにイギリス軍が史上初めて戦車を実戦に投入したことだった。しかし、ソンムの戦いは英仏軍が戦線を少し東側に移動させただけで終わり、広い地域で戦いが展開されたこともあって、ヴェルダンを上回る両軍あわせて120万人の死傷者を出す凄惨な戦いとなった。1916年は、「人間対人間」だった戦争が「人間対兵器」または「兵器対兵器」に変わった年だったといえるかもしれない。
1917年の解説
前年のヴェルダンの戦いとソンムの戦いによっても決着がつかず、いつ戦争が終わるとも知れない中で、すでに士気の低下の兆候がみられていたが、戦争が始まって足かけ4年目となる、1917年は、前線では兵士たちの命令不服従、銃後では労働者のストライキという形をとって不満が噴出し、フランスにとって危機の年となった。
前線で危機の引き金を引いたのは、1916年末にジョッフル将軍に代わって最高司令官に就任したニヴェル将軍が敢行したシュマン・デ・ダムの戦い(「ニヴェル攻勢」)だった。1917年4月16日、ニヴェル将軍は準備砲撃が不十分なまま突撃を開始、その後も突撃を繰り返して死者の山を築いた。こうした人命を軽視する軍指導部への兵士の不平不満が爆発し、フランス軍の多くの部隊で命令不服従(特に前線に赴くことへの集団拒否)が頻発した。
ただし、一部の筋金入りの社会主義者を除き、大多数の兵士にとっては、これは戦争反対というよりも、無意味な死を強いられることへの抗議であり、祖国にとって役立つ死であるならば受け入れると考えていた点は強調しておく必要がある。この後、ニヴェルのあとを継いだペタン将軍が兵士の待遇改善に取り組み、たとえば休暇を兵士の権利として認めたことで、夏には不穏な動きは収まることになる。
銃後でも戦争による物価高騰が人々の生活を圧迫していた。戦争中はストライキをしないという暗黙のタブーを破り、1月8日、パリの縫製業で働く女性(お針子)が賃上げを求めるデモを開始し、軍需産業にも波及したが、いったんは政府による介入によって収まった。しかし、ドイツが無制限潜水艦作戦を開始して輸入が滞ったことで、食料難とインフレに拍車がかかり、5月1日のメーデーを機に再びデモが活発化し、フランス各地の工場で賃金の引き上げを求めてストライキが頻発した。ストの参加者は、公式の記録でも1917年で合計30万人弱とされているから、実際にはもっと多かったと考えられる。
折からロシア革命(二月革命)が勃発し、これに便乗してフランス国内でも社会主義者や共産主義者が「革命」を煽る動きを見せた。しかし、赤旗を振ったりインターナショナルを歌ったりというエピソードがあったとしても、それは必ずしも革命を信奉していたわけではなく、多くの場合は借りものの衣装にすぎず、それ以上革命が追求されることはなかった。
革命に伴ってロシアが戦争から離脱したことはフランスにとって痛手となったが、逆に1917年4月のアメリカ参戦はよい知らせとなった。とはいえ、長びく戦争による厭戦気分の蔓延は目を覆うべくもなかった。こうした危機を乗り切るため、1917年11月、大統領ポワンカレは76歳のカリスマ政治家クレマンソーに首相となるよう要請する。「虎」の異名をとる対独強硬派のクレマンソーのもとで国内の引き締めが図られ、翌1918年にはまたフランス兵たちはドイツ軍の最後の攻勢に立ち向かうことになる。
1918年の解説
1917年にニヴェル将軍に代わって最高司令官に就任したペタン将軍は、兵士の待遇改善を優先し、目立った攻撃は仕掛けていなかった。どうするつもりなのかと問われたペタン将軍は、「私はアメリカ軍と戦車を待っているのだ」と答えたという逸話が残っている。この2つが揃うまでは、従来と同じ攻撃を繰り返しても無駄だというわけだ。アメリカは1917年に参戦したが、事前にキャンプで軍事訓練を積む必要があり、すぐには前線に兵を送り込むことはできなかった。
ドイツとしては、アメリカ軍が本格的に前線に登場する前に決着をつけたかったから、1918年3月3日にロシアと講和条約を結ぶと、ドイツ軍を率いるルーデンドルフは東部戦線の部隊の多くを西部戦線に移動させ、春の攻勢を開始した。こうして膠着した塹壕戦に終止符が打たれ、大戦初期と同じような動きの激しい展開となってゆく。
まず3月21日、ルーデンドルフは北仏ピカルディー地方で1回目の攻勢を仕掛けて大勝利を収め、イギリス軍は英仏海峡方面、フランス軍はパリ方面に退却し、英仏両軍が分断されそうになる。危機感を覚えた連合国軍は、それまで英仏別々だった指揮系統を一元化してフォッシユ将軍に一任し、かろうじて分断が回避された。3月23日にはドイツ軍が長距離砲によるパリヘの砲撃を開始した。5月27日の3回目の攻勢も大勝利を収め、パリ市民はパニックに陥った。しかし、腹をすかせたドイツ兵が奪った食糧をむさぼるのに夢中になり、また補給と増援が追いっかず、追撃できずに好機を逸してしまう。
逆に、7月18日、フランスのマンジャン将軍がヴィレール=コトレの森に隠していた多数のルノー製戦車を先頭にして反撃し、8万5千人のアメリカ軍も参加して勝利を収める。8月8日には北仏ピカルディー地方で510両の戦車と1、425機の飛行機で奇襲を仕掛けて英仏軍が圧倒的勝利を収め、ドイツの敗北が決定的となった。一部のドイツ軍は9月以降も頑強に抵抗したものの、投降するドイツ兵が相次ぐようになった。
10月になるとドイツがアメリカに休戦を要求し、休戦の条件について意見が交わされるようになる、当時のフランスの世論は、条件が折り合えば休戦を受け容れるべきだとする意見と、まだ講和せずにドイツ領まで攻めていってドイツ軍を壊滅すべきだという意見に分かれていた。ポワンカレ大統領は強硬派だったが、クレマンソー首相はアメリカの意向に沿って交渉を受け容れざるをえないと考え、実際アメリカに押し切られる形となった。開戦以来、多くの血を流してきたフランスやイギリスよりも、長らく中立を守って戦争特需で経済大国にのし上がり、大戦末期になって初めて前線に立ったアメリカの方が、休戦交渉では主導権を握ることになったのだから皮肉なものである。この大戦の勝者は、フランスでもイギリスでもなく、アメリカだったとさえ言えるかもしれない。
1918年11月11日午前11時、ようやくすべての戦闘が終わった。
フランスでは140万人近い戦死者、顔面崩壊者を含む280万人の負傷者、建物の破壊などの甚大な被害が出たから、今回の戦争が「最後の最後」だという意識を多くの人々が抱いた。しかしそれは「大いなる幻想」にすぎず、20年後には第二次世界大戦が始まることになる。
1916年の解説
1916年のフランス最大の出来事は、ヴェルダンの戦いとソンムの戦いだった。
「ヴェルダン」という言葉は特別な響きをもつ。ヴェルダンで戦ったといえば、それだけで大変な名誉、勲章、誇りになったが、同時に阿鼻叫喚の地獄絵の記憶も呼びさました。
フランス北東部ロレーヌ地方のヴェルダンは難攻不落の要塞都市で、街を取り囲む丘には多数の要塞が配置され、ドイツ軍も最初はあえて攻撃しようとはしなかった。しかし、ドイツ軍を率いるファルケンハイン将軍は、ここを攻撃すればフランス軍は必死に防戦するはずで、そうすれば消耗戦に持ち込み、フランス軍を疲弊させることができると考えた。消耗戦とは、神経を消耗するという意味ではなく、一人でも多くの敵兵を死傷させて敵軍を「すり減らす」という意味である。
1916年2月21日朝、ひそかに集められたドイツ軍の大小さまざまな口径の大砲が一斉に火を吹き、ヴェルダンの戦いが幕を開けた。初日だけでもドイツ軍は100万発の砲弾を浴びせ、複数の村落が跡形もなく消滅、塹壕もすべて破壊された。地面は月面のクレーターのようなすり鉢状の穴があいた状態となり、補給が寸断された状態で兵士たちはこの穴に身を隠し、溜まった水を飲んで生きのびた。
ヴェルダンとその南西のバール=ル=デュックとを結ぶ道は「聖なる道」と呼ぱれ、補給路として兵士や弾薬が続々と運び込まれ、物量戦・総力戦の様相を呈した。他の地域に展開していた部隊も入れ替わり立ち代わりヴェルダンに投入されたので、フランス軍の約4分の3の部隊がヴェルダンを経験した。降りそそぐ砲弾の合間を縫って、突撃が繰り返された。
ヴェルダンの街自体は終始フランス軍の支配下にあったが、街を取り囲む要塞や高地をめぐって激しい攻防戦が展開された。攻撃早々、名高いドゥオーモン要塞がドイツ軍の手に落ち、続いてヴォー要塞も陥落する。しかし、後半は重砲を増強したフランス軍が巻き返し、ほぼ戦い前の勢力範囲に押し戻した。ドイツ軍の攻撃は失敗に終わり、10か月間の戦いでフランス軍の死者は16万人、ドイツ軍の死者は14万人に達した(昔はフランス軍の死者は35万人、両軍あわせて死者70万人ともいわれていた)。
1916年のちょうど後半となる7月1日、北仏ソンム川の流域(アミアンの東40km付近)でソンムの戦いが始まった。フランス軍が単独でドイツと戦ったヴェルダンとは異なり、北仏はイギリスに近いのでイギリス軍が主役となった。7月1日、イギリス軍は引いて守るドイツ軍に欺かれて約6万人の死傷者を出し、イギリス軍史上最大の悪夢の日となった。特筆すべきは、9月15日、膠着する戦線を突撃するためにイギリス軍が史上初めて戦車を実戦に投入したことだった。しかし、ソンムの戦いは英仏軍が戦線を少し東側に移動させただけで終わり、広い地域で戦いが展開されたこともあって、ヴェルダンを上回る両軍あわせて120万人の死傷者を出す凄惨な戦いとなった。1916年は、「人間対人間」だった戦争が「人間対兵器」または「兵器対兵器」に変わった年だったといえるかもしれない。
1917年の解説
前年のヴェルダンの戦いとソンムの戦いによっても決着がつかず、いつ戦争が終わるとも知れない中で、すでに士気の低下の兆候がみられていたが、戦争が始まって足かけ4年目となる、1917年は、前線では兵士たちの命令不服従、銃後では労働者のストライキという形をとって不満が噴出し、フランスにとって危機の年となった。
前線で危機の引き金を引いたのは、1916年末にジョッフル将軍に代わって最高司令官に就任したニヴェル将軍が敢行したシュマン・デ・ダムの戦い(「ニヴェル攻勢」)だった。1917年4月16日、ニヴェル将軍は準備砲撃が不十分なまま突撃を開始、その後も突撃を繰り返して死者の山を築いた。こうした人命を軽視する軍指導部への兵士の不平不満が爆発し、フランス軍の多くの部隊で命令不服従(特に前線に赴くことへの集団拒否)が頻発した。
ただし、一部の筋金入りの社会主義者を除き、大多数の兵士にとっては、これは戦争反対というよりも、無意味な死を強いられることへの抗議であり、祖国にとって役立つ死であるならば受け入れると考えていた点は強調しておく必要がある。この後、ニヴェルのあとを継いだペタン将軍が兵士の待遇改善に取り組み、たとえば休暇を兵士の権利として認めたことで、夏には不穏な動きは収まることになる。
銃後でも戦争による物価高騰が人々の生活を圧迫していた。戦争中はストライキをしないという暗黙のタブーを破り、1月8日、パリの縫製業で働く女性(お針子)が賃上げを求めるデモを開始し、軍需産業にも波及したが、いったんは政府による介入によって収まった。しかし、ドイツが無制限潜水艦作戦を開始して輸入が滞ったことで、食料難とインフレに拍車がかかり、5月1日のメーデーを機に再びデモが活発化し、フランス各地の工場で賃金の引き上げを求めてストライキが頻発した。ストの参加者は、公式の記録でも1917年で合計30万人弱とされているから、実際にはもっと多かったと考えられる。
折からロシア革命(二月革命)が勃発し、これに便乗してフランス国内でも社会主義者や共産主義者が「革命」を煽る動きを見せた。しかし、赤旗を振ったりインターナショナルを歌ったりというエピソードがあったとしても、それは必ずしも革命を信奉していたわけではなく、多くの場合は借りものの衣装にすぎず、それ以上革命が追求されることはなかった。
革命に伴ってロシアが戦争から離脱したことはフランスにとって痛手となったが、逆に1917年4月のアメリカ参戦はよい知らせとなった。とはいえ、長びく戦争による厭戦気分の蔓延は目を覆うべくもなかった。こうした危機を乗り切るため、1917年11月、大統領ポワンカレは76歳のカリスマ政治家クレマンソーに首相となるよう要請する。「虎」の異名をとる対独強硬派のクレマンソーのもとで国内の引き締めが図られ、翌1918年にはまたフランス兵たちはドイツ軍の最後の攻勢に立ち向かうことになる。
1918年の解説
1917年にニヴェル将軍に代わって最高司令官に就任したペタン将軍は、兵士の待遇改善を優先し、目立った攻撃は仕掛けていなかった。どうするつもりなのかと問われたペタン将軍は、「私はアメリカ軍と戦車を待っているのだ」と答えたという逸話が残っている。この2つが揃うまでは、従来と同じ攻撃を繰り返しても無駄だというわけだ。アメリカは1917年に参戦したが、事前にキャンプで軍事訓練を積む必要があり、すぐには前線に兵を送り込むことはできなかった。
ドイツとしては、アメリカ軍が本格的に前線に登場する前に決着をつけたかったから、1918年3月3日にロシアと講和条約を結ぶと、ドイツ軍を率いるルーデンドルフは東部戦線の部隊の多くを西部戦線に移動させ、春の攻勢を開始した。こうして膠着した塹壕戦に終止符が打たれ、大戦初期と同じような動きの激しい展開となってゆく。
まず3月21日、ルーデンドルフは北仏ピカルディー地方で1回目の攻勢を仕掛けて大勝利を収め、イギリス軍は英仏海峡方面、フランス軍はパリ方面に退却し、英仏両軍が分断されそうになる。危機感を覚えた連合国軍は、それまで英仏別々だった指揮系統を一元化してフォッシユ将軍に一任し、かろうじて分断が回避された。3月23日にはドイツ軍が長距離砲によるパリヘの砲撃を開始した。5月27日の3回目の攻勢も大勝利を収め、パリ市民はパニックに陥った。しかし、腹をすかせたドイツ兵が奪った食糧をむさぼるのに夢中になり、また補給と増援が追いっかず、追撃できずに好機を逸してしまう。
逆に、7月18日、フランスのマンジャン将軍がヴィレール=コトレの森に隠していた多数のルノー製戦車を先頭にして反撃し、8万5千人のアメリカ軍も参加して勝利を収める。8月8日には北仏ピカルディー地方で510両の戦車と1、425機の飛行機で奇襲を仕掛けて英仏軍が圧倒的勝利を収め、ドイツの敗北が決定的となった。一部のドイツ軍は9月以降も頑強に抵抗したものの、投降するドイツ兵が相次ぐようになった。
10月になるとドイツがアメリカに休戦を要求し、休戦の条件について意見が交わされるようになる、当時のフランスの世論は、条件が折り合えば休戦を受け容れるべきだとする意見と、まだ講和せずにドイツ領まで攻めていってドイツ軍を壊滅すべきだという意見に分かれていた。ポワンカレ大統領は強硬派だったが、クレマンソー首相はアメリカの意向に沿って交渉を受け容れざるをえないと考え、実際アメリカに押し切られる形となった。開戦以来、多くの血を流してきたフランスやイギリスよりも、長らく中立を守って戦争特需で経済大国にのし上がり、大戦末期になって初めて前線に立ったアメリカの方が、休戦交渉では主導権を握ることになったのだから皮肉なものである。この大戦の勝者は、フランスでもイギリスでもなく、アメリカだったとさえ言えるかもしれない。
1918年11月11日午前11時、ようやくすべての戦闘が終わった。
フランスでは140万人近い戦死者、顔面崩壊者を含む280万人の負傷者、建物の破壊などの甚大な被害が出たから、今回の戦争が「最後の最後」だという意識を多くの人々が抱いた。しかしそれは「大いなる幻想」にすぎず、20年後には第二次世界大戦が始まることになる。
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