『浄土真宗は仏教なのか?』より 大乗仏教という問題 ⇒ 仏陀は小乗仏教しか言っていないと。ずっと思っている。大乗仏教は生活のための創作物。
そのように注意していても、やはり世に出てきたからには人目にもつき、読む人も現れ、大乗経典はやがて人口に檜灸していくのです。
仏教の歴史の中では、大乗仏教は、インドですでに、じわじわと仏教徒の中に溶け込んでいきました。しかし日本では、明治になってはじめて、大乗経典はどれもお釈迦様にまで遡れない「創作」経典だと分かりました。そのショックはやはり大きかったようで、識者の間から「大乗は仏説にあらず(大乗非仏説)」と、日本伝統の大乗仏教各宗派を丸ごと批判する動きも出ました。
しかし明治時代は、新政府が江戸時代までの仏教中心の政治を改めて国家神道を国教にしようとしていた時代でしたので、日本仏教の各宗派が一致団結して、これに対処しなければならないときでした。そして、その仏教復興運動の中で、大乗非仏説の問題はなんとなくうやむやのまま、沙汰やみになりました。「大乗経典は『偽物』でも、大乗経典に説かれている内容はお釈迦様以来の仏教に基づくものであるから、これはこれで、仏教ということでよいではないか」という好意的な見方が大勢を占めたおかげでもありました。本当は、悟りを真っ向から説く「般若経」などの大乗経典は、「従来の阿羅漢果を目指す悟りは不充分で、ブッダになる成仏の教えこそが本当の大乗の悟りである」などと、ブッダ・お釈迦様も到達した最高の阿羅漢果とは別に第五の「仏果?」を立てようとするなどトンデモな内容なのですが、そういう細かい議論に至る前に、「大乗も小乗も仏教でよいではないか」という日本人特有の曖昧な態度が効を奏したというべきでしょう。
それよりむしろ、浄土教が大変でした。浄土教は一見すると神話めいていて、大乗どころか仏教にさえ見えない面もありますが、在家信者に対する悟りの道への導入となる「施論、戒論、生天論」という、お釈迦様の順次の説法にピッタリの内容なのです。
その浄土教の神話的な表現が受け入れられなくて、「阿弥陀仏や浄土があるから私がそれを信じるのではなく、私がそれを信じるから阿弥陀仏や浄土が存在するのだ」などと、当時はやった観念的な哲学のように、あるいはまるっきり主観的に、いわば脳内浄土とか脳内阿弥陀みたいに、浄土教を空想・観念として受け入れようとする動きもありました。
しかし、その必要はありません。西洋哲学などを援用しなくても、初期仏教以来の仏教の尺度で、受け入れられるかどうかを測ればよいのです。浄土教も仏教なら、その検証に耐えられるはずです。
明治以後の百数十年は、波風は立ちましたが、大乗や浄土教が正当な仏教であるのかどうか、なんとなく真偽をはっきりさせない、情報を明確にしない、うやむや状態のまま過ぎてきました。しかし現代日本では、もはやそうはいきません。
世間一般の動向を見ても、この変化はよく分かります。明治維新から現代まで、戦争に突き進み、第二次世界大戦の困窮を経て、人々は、政府や企業が人々のためになるように活動しているのかどうか、真偽を見極める目を養うようになりました。公害物質や放射能の問題、政府の予算の使い方や議員の収支の問題など、そしてそのような情報を隠し立てせず公開しているかどうかなど、事実と、それを知る権利について、人々の意識は格段に高まりました。
同じような真偽を見極める目を、人々は宗教、仏教に対しても向けるようになりました。僧侶の言動が人々を導く者としてふさわしいかどうかをチェックすることは、当たり前のことです。布施や葬儀や供養がどういうものか、する意味があるのかどうかも、僧侶に聞かなくても、書物やインターネットのおかげで欲しい情報はいくらでも手軽に手に入れることができるようになりました。
明治以来くすぶり続けてきた「大乗非仏説」の問題も、個々の僧侶の資質の問題と相侯って、日本仏教の根幹に関わる大問題だと人々は考え始めています。「大乗仏教はお釈迦様の教えと違う偽物ではないのか。こんなものを信じて大丈夫なのか」という根本的な疑いが、仏教をある程度知る人々の心の中にあります。
仏教に関心を持てば持つほど、人は日本仏教に疑問を持ち、「阿弥陀如来とか浄土って、フィクションでしょ? そんなものを本気で信じてるんですか?」と根本的な疑問を突き付けるのです。その中で百年一日のごとく、「浄土真宗の教えは、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ……」などと同じ言葉を繰り返すだけでは、誰も見向いてくれなくなるでしょう。
仏教で最も重い罪は、殺生でも盗みでも不倫でもなく、嘘です。嘘・ごまかし・編しが横行する世の中で、仏教の現場にだけは嘘・偽りがあってはなりません。日本の大乗仏教、その中でも、少なくとも私にも責任がある浄土真宗は、嘘・偽りのない堂々とした教えで生きたいものです。
私たちがこれまで確かなものだと思って帰属していた浄土真宗が、信頼できる本物の仏教なのか、仏教とは名ばかりの、わけの分からない新興宗教なのか、きちんと検証しなくてはいけない時代が来ました。「真実なんかどうでもいいから、これまでのように、ただ念仏だけ唱えてお浄土に往けると信じて死んでいければよかったのに」という時代は、とっくに過ぎ去ってしまいました。
検証の結果、浄土真宗が偽物で、ただの新興宗教だと分かったなら、未練もなくただ捨てればいいのです。私たちの正しい安楽な生き方のために仏教があるのであって、各宗派の利益のために私たちがいるのではないのです。
しかし、どうぞご安心ください。検証結果を先に申しますと、「浄土真宗は、初期仏教以来の在家信者が生きるべき道をしっかり踏まえた立派な仏教」だと言えます。大乗経典を拠りどころにしているのですが、仏教の本質をきちんと読み取っているのです。
念のため補足しますと、「初期仏教=小乗仏教=自分の悟りだけを目指す出家至上主義の厳しい修行の教え」、そして「大乗仏教=一切衆生の救済を目指す素晴らしい教え」という図式は、日本仏教の僧侶の中には今もそう考えている人がいますが、まったくのデタラメです。
仏教は、お釈迦様の最初期の時代からずっと、出家して今生での悟りを目指し、同時に在家の人々を教え導く比丘サンガと、比丘サンガをお布施で支えながら自分も仏法を学び、功徳を積む在家信者集団の二本立てです。大乗仏教は、その流れに五百年後から付け加えられたものです。出家とそれを支える在家の両方がそろわないと仏教が成り立たないのは、大乗仏教が出る前から当たり前のことなのです。
その初期仏教以来の在家仏教徒の生き方に、浄土真宗はぴったり合うのです。
浄土真宗にも後発の大乗経典特有の教義や浄土真宗独自の教説が説かれますが、それは時代とともに発展した仏教哲学の一部ですから、「お釈迦様はそんなことは言っていない」などと目くじらを立てることなく、ありのままに味わい、学べばよいでしょう。
そして、「では、大乗仏教の浄土真宗はそもそも仏教ですか?新興宗教ですか?」と問われる根幹のところは、「まぎれもなく、在家信者のための仏教です」と答えることができます。
浄土真宗が拠りどころとする『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経典」は、他の大乗経典と同じく、お釈迦様にまで遡れない偽経です。それにもかかわらず、そこに説かれた仏教のエッセンスを抽出し、先達の論考を参照しながら見事に在家仏教の本質を解き明かしたのは、初期仏教経典も大乗経典も一切を学び尽くし、善き師友に出会って、その上で自分の生きる道を模索した親鸞聖人の求道の賜です。
浄土真宗の要となっている教えがいかに初期仏教以来の伝統に基づくものであるかを、これから一つずつお話ししていきましょう。
そのように注意していても、やはり世に出てきたからには人目にもつき、読む人も現れ、大乗経典はやがて人口に檜灸していくのです。
仏教の歴史の中では、大乗仏教は、インドですでに、じわじわと仏教徒の中に溶け込んでいきました。しかし日本では、明治になってはじめて、大乗経典はどれもお釈迦様にまで遡れない「創作」経典だと分かりました。そのショックはやはり大きかったようで、識者の間から「大乗は仏説にあらず(大乗非仏説)」と、日本伝統の大乗仏教各宗派を丸ごと批判する動きも出ました。
しかし明治時代は、新政府が江戸時代までの仏教中心の政治を改めて国家神道を国教にしようとしていた時代でしたので、日本仏教の各宗派が一致団結して、これに対処しなければならないときでした。そして、その仏教復興運動の中で、大乗非仏説の問題はなんとなくうやむやのまま、沙汰やみになりました。「大乗経典は『偽物』でも、大乗経典に説かれている内容はお釈迦様以来の仏教に基づくものであるから、これはこれで、仏教ということでよいではないか」という好意的な見方が大勢を占めたおかげでもありました。本当は、悟りを真っ向から説く「般若経」などの大乗経典は、「従来の阿羅漢果を目指す悟りは不充分で、ブッダになる成仏の教えこそが本当の大乗の悟りである」などと、ブッダ・お釈迦様も到達した最高の阿羅漢果とは別に第五の「仏果?」を立てようとするなどトンデモな内容なのですが、そういう細かい議論に至る前に、「大乗も小乗も仏教でよいではないか」という日本人特有の曖昧な態度が効を奏したというべきでしょう。
それよりむしろ、浄土教が大変でした。浄土教は一見すると神話めいていて、大乗どころか仏教にさえ見えない面もありますが、在家信者に対する悟りの道への導入となる「施論、戒論、生天論」という、お釈迦様の順次の説法にピッタリの内容なのです。
その浄土教の神話的な表現が受け入れられなくて、「阿弥陀仏や浄土があるから私がそれを信じるのではなく、私がそれを信じるから阿弥陀仏や浄土が存在するのだ」などと、当時はやった観念的な哲学のように、あるいはまるっきり主観的に、いわば脳内浄土とか脳内阿弥陀みたいに、浄土教を空想・観念として受け入れようとする動きもありました。
しかし、その必要はありません。西洋哲学などを援用しなくても、初期仏教以来の仏教の尺度で、受け入れられるかどうかを測ればよいのです。浄土教も仏教なら、その検証に耐えられるはずです。
明治以後の百数十年は、波風は立ちましたが、大乗や浄土教が正当な仏教であるのかどうか、なんとなく真偽をはっきりさせない、情報を明確にしない、うやむや状態のまま過ぎてきました。しかし現代日本では、もはやそうはいきません。
世間一般の動向を見ても、この変化はよく分かります。明治維新から現代まで、戦争に突き進み、第二次世界大戦の困窮を経て、人々は、政府や企業が人々のためになるように活動しているのかどうか、真偽を見極める目を養うようになりました。公害物質や放射能の問題、政府の予算の使い方や議員の収支の問題など、そしてそのような情報を隠し立てせず公開しているかどうかなど、事実と、それを知る権利について、人々の意識は格段に高まりました。
同じような真偽を見極める目を、人々は宗教、仏教に対しても向けるようになりました。僧侶の言動が人々を導く者としてふさわしいかどうかをチェックすることは、当たり前のことです。布施や葬儀や供養がどういうものか、する意味があるのかどうかも、僧侶に聞かなくても、書物やインターネットのおかげで欲しい情報はいくらでも手軽に手に入れることができるようになりました。
明治以来くすぶり続けてきた「大乗非仏説」の問題も、個々の僧侶の資質の問題と相侯って、日本仏教の根幹に関わる大問題だと人々は考え始めています。「大乗仏教はお釈迦様の教えと違う偽物ではないのか。こんなものを信じて大丈夫なのか」という根本的な疑いが、仏教をある程度知る人々の心の中にあります。
仏教に関心を持てば持つほど、人は日本仏教に疑問を持ち、「阿弥陀如来とか浄土って、フィクションでしょ? そんなものを本気で信じてるんですか?」と根本的な疑問を突き付けるのです。その中で百年一日のごとく、「浄土真宗の教えは、阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ……」などと同じ言葉を繰り返すだけでは、誰も見向いてくれなくなるでしょう。
仏教で最も重い罪は、殺生でも盗みでも不倫でもなく、嘘です。嘘・ごまかし・編しが横行する世の中で、仏教の現場にだけは嘘・偽りがあってはなりません。日本の大乗仏教、その中でも、少なくとも私にも責任がある浄土真宗は、嘘・偽りのない堂々とした教えで生きたいものです。
私たちがこれまで確かなものだと思って帰属していた浄土真宗が、信頼できる本物の仏教なのか、仏教とは名ばかりの、わけの分からない新興宗教なのか、きちんと検証しなくてはいけない時代が来ました。「真実なんかどうでもいいから、これまでのように、ただ念仏だけ唱えてお浄土に往けると信じて死んでいければよかったのに」という時代は、とっくに過ぎ去ってしまいました。
検証の結果、浄土真宗が偽物で、ただの新興宗教だと分かったなら、未練もなくただ捨てればいいのです。私たちの正しい安楽な生き方のために仏教があるのであって、各宗派の利益のために私たちがいるのではないのです。
しかし、どうぞご安心ください。検証結果を先に申しますと、「浄土真宗は、初期仏教以来の在家信者が生きるべき道をしっかり踏まえた立派な仏教」だと言えます。大乗経典を拠りどころにしているのですが、仏教の本質をきちんと読み取っているのです。
念のため補足しますと、「初期仏教=小乗仏教=自分の悟りだけを目指す出家至上主義の厳しい修行の教え」、そして「大乗仏教=一切衆生の救済を目指す素晴らしい教え」という図式は、日本仏教の僧侶の中には今もそう考えている人がいますが、まったくのデタラメです。
仏教は、お釈迦様の最初期の時代からずっと、出家して今生での悟りを目指し、同時に在家の人々を教え導く比丘サンガと、比丘サンガをお布施で支えながら自分も仏法を学び、功徳を積む在家信者集団の二本立てです。大乗仏教は、その流れに五百年後から付け加えられたものです。出家とそれを支える在家の両方がそろわないと仏教が成り立たないのは、大乗仏教が出る前から当たり前のことなのです。
その初期仏教以来の在家仏教徒の生き方に、浄土真宗はぴったり合うのです。
浄土真宗にも後発の大乗経典特有の教義や浄土真宗独自の教説が説かれますが、それは時代とともに発展した仏教哲学の一部ですから、「お釈迦様はそんなことは言っていない」などと目くじらを立てることなく、ありのままに味わい、学べばよいでしょう。
そして、「では、大乗仏教の浄土真宗はそもそも仏教ですか?新興宗教ですか?」と問われる根幹のところは、「まぎれもなく、在家信者のための仏教です」と答えることができます。
浄土真宗が拠りどころとする『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経典」は、他の大乗経典と同じく、お釈迦様にまで遡れない偽経です。それにもかかわらず、そこに説かれた仏教のエッセンスを抽出し、先達の論考を参照しながら見事に在家仏教の本質を解き明かしたのは、初期仏教経典も大乗経典も一切を学び尽くし、善き師友に出会って、その上で自分の生きる道を模索した親鸞聖人の求道の賜です。
浄土真宗の要となっている教えがいかに初期仏教以来の伝統に基づくものであるかを、これから一つずつお話ししていきましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます