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明るい観念論と暗い観念論、そして独我論

『観念論の教室』より 魅力 観念の現象学 ⇒ 私は暗い観念論。暗くて、悪かったね。そうとしか思えないからね。

明るい観念論と暗い観念論

 このように、ヒベルニア観念論には、ロック的二重存在肯定論からの「ずれ」と「忘却」によって成立したという問題があるものの、別の視点から見るなら、「観念の現象学」の試みという、肯定的・積極的役割を担う知的魅力を持つ営みと見ることが可能です。ですが、観念論の魅力は、これに尽きるものではありません。観念論の「魅力」と言えるものには、もう一つ別のものがあると、私は考えています。そのことを見るために、ヒベルニア観念論と先ほど言及したデカルトタイプの観念論とを比較し、両者の間に大きな差異があることを、見ておきたいと思います。

 ヒベルニア観念論は、私の見るところ、「明るい」観念論です。物質の存在は断固否定するものの、他人も神も、みなその存在が認められています。心以外はすべて観念でしかないとしても、心としての私は決して一人ではありません。しかも、すべて観念として扱うという条件つきではありますが、粒子仮説に言うような物の微細構造もみな、(観念として)扱うことができるのです。私もあなたもみんないて、マイクロレべルの科学的営みもOK。実に明るい観念論ではありませんか。そして、そこには、(先に挙げたような問題があるにもせよ、)非常に興味深い、知的魅力があります。

 これに対して、デカルトの第一哲学のある段階に現れる観念論は、「暗い」観念論です。大地も星も、他の人々も、すべてその存在は認められない。このような状態で、存在するのは心としての私と、その私の中に現れる観念だけ。この状況が、明るいはずがありません。そこでの私は、差し当たっては、たった一人の私です。何も信じられない、しかしさまざまなものが心の中を去来する、孤独な私です。

 私は、「明るい」観念論には、いつも「暗い」観念論が影を落とす可能性があると考えています。「明るい」ヒペルニア観念論は、世界を記号的観点から見ています。バークリが何度も注意するように、記号的関係は、「必然的結合」の関係ではありません。これまでの経験からすれば、ある事象には別の事象がたいてい伴われていたという関係がその基本です。とすると、記号的観点から知られる他人の存在というのも、「絶対そうだ」とは言えないという可能性が常にあります。大事なことについては「絶対そうだ」でなければ困る、そうでなければどうしようという不安を「デカルト的不安」と言いますが、このような不安を持つ人からすれば、他人の存在のそうした不確かさは、そこに安住できない不確かさです。確かなのは、今不安を抱えている私と、私の心に去来する観念だけ。ですから、絶対的確実性を求める人々は、はじめヒベルニア観念論を受け入れたとしても、その絶対主義のため、ヒべルニア観念論のある部分を切り捨てて、デカルトの「暗い」観念論的「独我論」、存在するのは独り私だけという独我論に移行する可能性を、常に持っているのです。

 こうした独我論的暗さに魅力を感じるとすれば、それは先ほどの明るい観念論に感じられる知的魅力とは、ずいぷんと性格の異なる魅力です。それはある種の実存的魅力と言っていいようなものです。こうした、「デカルト的不安」に裏打ちされた独我論的性格を色濃く持つデカルトの観念論こそ、先ほど言及した「明るい」観念論の知的魅力を超えてさらに人を惹きつける観念論の、原型的存在なのではないかと私は考えています。

独我論と「ともにあること」

 人はなぜ「暗い」観念論に魅力を感じるのでしょうか。私はそれを、何を大切に思うかの問題だと考えています。

 この世界があって、私の死後もそれはなんらかの形で存在し続ける。人々もまたしかり。私がいなくても、この世界は存在し続ける。--普通私たちはこんなふうに思って生きていますよね。それでいいと思えば、どうってことはありません。でも、私がいなくなるときには、この世界のことも、一緒に生きてきた人々のことも、私自身にとってはもう何の関係もなくなる。死とは、そうした、みんなや世界との関係の断絶だというふうにも考えられます。もちろん、これら二つの考えは両立可能なもので、どちらをもそう思って生きているというのが、多くの現代人のものの見方かもしれません。けれども、私がいなくなれば、そのときにはあらゆるものが私とともに終わるという思いと、私がいなくなってもこの世は続くという思いとを比べてみますと、「私」というものの「重さ」に、どこか違いが感じられるのではないかと思います。

 この違いの感じは、人によって異なります。私がいなくなったあともまだ世界が続くことも、私がいなくなるとともにある意味で世界が終わるということも、どちらも同じように受け入れられる人は多いと思います。しかし、前者の思いの中では、私は世界の一要素であると感じられるのに対し、後者の思いの中では、ある意味で私がまさしくすべてであるかのように感じられるのではないでしょうか。「暗い」観念論の魅力は、この後者の思いのこの特徴にあるように、私には思われるのです。デカルト的観念論では、存在するのは私の心とその心の中に現れる観念だけ。つまり、私がすべてであり、私にすべてがかかっています。このことが、「暗い」観念論が持つ、人を惹きつける力の源泉ではないかと私は思います。

 『省察』でデカルトは一人称で語り続けます。ごく普通に考えれば、彼は読者に語りかけているのです。言葉がアリストテレスやクワインの言うように「社会的な業」だとすれば、言葉を使っているということがすでに、デカルトの観念論的立ち位置には立てないことを示しています。語りを聞く「あなた」が、常に想定されているはずだからです。にもかかわらず、デカルトは、第一哲学の途上で、デカルト的観念論に立ってしまいます。普通に考えれば、これ自体大きな矛盾です。

 にもかかわらず、デカルト的観念論には、(錯覚にもせよ)そうした世間的矛盾を超える力があります。それは、言葉の使用が使用者の社会性を前提としたものであり、言語を習得している以上、言語を教えた者、言語を使用する相手についてもまた、その存在を認めるべきだというこのことを、すべて疑いうるとして、きっぱりと拒否する力です。言い換えれば、絶対的確実性を持たないものの受け入れを拒否しようとする姿勢です。デカルト的不安と表裏をなすこの絶対確実でないものの拒否という態度は、言語の使用相手としての他者の存在をも否定する、そういう道を開くことが事実上可能な態度です。

 こうした「私がすべて」という道を採るか、それとも、「私もまたともに生きていくものたちのうちの一人である」という道を採るか。それぞれの道は、かなり違った魅力を私たちに感じさせます。実のところ、「言語的観念論」と言われる立場も、ヴィトゲンシュタインはともかくローティの場合には、もともと出発点が「私もまたともに生きていくものたちのうちの一人である」というものなので、その意味ではヒべルニア観念論同様「明るい」性格を持っています。ローティのように他者とともに生きることの魅力を優先させるか、それともデカルト的観念論が示唆する「私がすべて」という感覚を魅力に思うか。もし私の右の診断が当たっているとすれば、問題はもはや観念論か否かではなく、「私がすべて」か「ともに生きていくか」が問題なのだということに、お気づきいただいたのではないでしょうか。

 人生は、謎に包まれています。私はこうして存在している。私は家族や友人とともにいる。私たちは地球の上にいる。地球は宇宙のこの辺りにある……。一つ外の枠、一つ外にあるものたちの存在に疑問がなければ、日々はそれなりにしっかりとしています。けれど、どうしてこうなっているのだろう、そもそも、そんなものが本当にあるのだろうかと考え始めると、底のない闇が広がるばかりです。私たちはそこまで暗くはなりたくないので、ついつい、いつものようにみんないるし、これが当たり前というところに戻ります。けれども、立ち位置が一つ違えば、いつでも謎の闇は待っています。すべてが私の考え、すべてが私の観念。ロックが二度だけ口にし、バークリがマスター・アーギュメントで一つの形を示してみせたこの観念論は、いつも私たちが背負っているものです。そして、観念論は、その論理の妥当性はともかく、もしかしたら私の意識だけがあるのだろうかという、独我論的思考へと私たちをいざなう力をもっています。観念論が、奇妙だけれど魅力的だというのは、一つには、それがこの生きていることの不可解さという実存の謎にある仕方で直結しており、すべてを私が抱え込んでいるという幻想が実は幻想ではないという可能性を開いているかのように見えるからではないかと、私は思います。このタイプの観念論を打破できるのは、「私もまたともに生きていくものたちのうちの一人である」という思いです。この思いが持てるかどうかは、互いの生き方にかかっています。人は一人ではないと互いに思えるように、互いが努められるかどうかです。
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