『第三帝国の到来 下』より 「非独逸的精神に反対する」
「非独逸的精神に反対する」
ヴァイマール共和国最後の数年間において、ドイツでもっとも知られた哲学者だったマルティン・ハイデガーは、とくに一九二七年に刊行した大作『存在と時間』により、思想家として、とほうもない名声を得た。この著作は、存在の意味や人間性の本質など、哲学の基本的な問題を扱った学術論文であった。難解で、しばしば不快の念をもよおすほどに抽象的な言葉遣いで表現されている本書は、フライブルク大学の哲学講座の師にして、前任者であったエドムント・フッサールの「現象学」の手法を、古代ギリシア以来、哲学者を悩ませてきた諸問題に適用したのである。『存在と時間』は、たちまち古典として迎えられるようになった。ずっとあとになって、ハイデガーの思想は、フランス実存主義者とその信奉者たちに顕著な影響を与えることになる。もっとも、より近いところでは、その悲観主義的な性向は、この哲学者がしだいにカトリシズム(ハイデガーは、一八八九年にカトリックの家庭に生まれた)から解放され、プロテスタントの考え方にいっそうの影響を受けた思考様式に向かっていたことを反映していた。ハイデガーは、とりわけヴァイマール時代の末になると、ドイツ人の生活と思想の再生が必要であり、精神的結合と国民の救済をもたらす新時代が到来するものと信じるようになっていた。さらに、一九三〇年代初頭までには、自分の希求していたものへの回答は、ナチズムにおいて見出されたと考えはじめていたのである。
ハイデガーは早くも一九三二年に、フラィブルクのナチ・ドィツ学生同盟の指導者だちと接触していた。彼には、大学行政の経験はまったくなかったのであるが、教授連のなかでは少数派だったナチスにとっては、自分たちが権力を得たときに、学長にふさわしい人物といえば、ハイデガーしかいなかった。彼は、一九三三年四月に学長に就任する予定だった自由主義的なヴィルヘルム・フォン・メレンドルフ教授に取って代わることができるだけの学問的勢威と政治的信念を備えていたのだ。学長職に就くことを切望したハイデガーは、あらたにナチ化されたバーデン州の教育省と折衝を開始した。一方、メレンドルフは、地元やバーデン州の新聞で個人的な中傷を受げ、脇にしりぞくように勧奨されていたのである。ナチの教授たちも、ハイデガーを前面に押し出した。一九三三年四月二十一日、大学内外からの圧力のもと、教授会で、ほぼ満場一致の票を得たハイデガーは、順当に学長に選出された。実際、教授団のうち、彼を支持しないとの意見を表明した者の主体は、フライブルク大学で講座を持つ九十三名のうち、わずか十二名で構成されているだけにすぎなかった。彼らはユダヤ人だったのである。しかし、そうした教授たちも、四月七日の法令のもと、ナチのバーデン州国家地方長官・大管区指導者たったロベルト・ヴァーグナーにより、「非アーリア人」として職務を停止されており、投票を許されなかったのだ。
五月二十七日、ハイデガーは学長就任演説を行った。集まった教授だちと褐色のシャツを着たナチのお偉方に語りかけ、以下のように宣言した。「『学問の自由』は、もはやドイツの大学における営為の基礎ではなくなるであろう。その自由とは、ただ消極的なものでしかない。ゆえに、真正の存在ではないからである。それは、関係性の欠落、視野と性向の放埓、物事をなすかなさぬかについての拠り所の欠如を意味しているのだ」。ハイデガーは言う。今こそ、大学がドイツ国民のなかに拠って立つ場所を見つけ、まさに達成されんとしている歴史的使命において、自らの役割を果たすべきときである、と。ドイツの学生は、その道を指し示しつつある。ハイデガーの演説は、指導者原理の新しい語法をふんだんに用いていた。彼は、最初の一文でもう、「この大学の精神的指導」を引き継いだと聴衆に告げ、当時、ナチ指導者たちが、労使関係の分野を表す際、一般にそうしていたのとまったく同様に、学生や大学スタッフに言及するときには、「従者」という擬似封建的な術語を使ったのだ。フライブルク大学の新学長ともあろう者が、かくのごとき概念を使ったからには、たとえ、どのように定義されようと、学問の自由などということは過去の遺物となったのは明々白々であった。それを象徴的に強調するため、出席していた教授や賓客たちは、式典の終わりに、ホルスト・ヴエッセルの歌を合唱した。ご親切なことに、その歌詞は、第四連では右手を上げ、式次第すべての最後は「勝利万歳!」(「ジーク・ハイル!」)の歓呼で終えるべしとの指示とともに、プログラムの裏に印刷されていたのである。
ハイデガーはすぐに、その大学に隊伍を組ませはじめた。五月一日、「国民労働の日」には、華々しく宣伝されながら、正式にナチ党に入った。いまやハイデガーは、指導者原理を大学行政に導入し、民主的代議制を取る大学評議会を迂回、あるいは沈黙させ、フラィブルク大学学長は、選挙にょらずに無期限で勤務する大学の「指導者」であるとするバーデン州の新法起案にも関与していた。まもなく、彼は、バーデン州教育省に通告した。「われわれは、今、新しい国民の政治精神のために、教養層と学者たちの世界を征服することに、全力を傾注しなければならない。ここで騎士の武勲を得るのは、容易なことではあるまい。勝利万歳(ジーク・ハイル)!」
ハイデガーは、同僚の化学者ヘルマン・シュタウディンガーを、無実の罪で州当局に告発し、政治警察による彼の尋問を幇助した。ところが、結局のところ、警察も確信が持てなかったし、シュタウディンガーも、自分の仕事の国家的重要性を申し立て、職にとどまったのであった。ハイデガーはまた、国際的な名声を博していた文献学者エドゥアルト・フレンケルのみを例外とすることを要請しただけで、進んでユダヤ人大学教職員の解雇を強制した。ただし、フレンケルも、とどのつまりは職を解かれたのであるが。一方、国際的な縁故が強く、口ックフェラー財団から多額の研究資金を受けていた、化学専攻のゲオルク・フォン・ヘヴェシー教授は、翌年、デンマークに去るまで、その職にとどまった。こうして、大学との関係を絶つことを余儀なくされたユダヤ人のなかには、ハイデガー自身の助手であるヴェルナー・ブロックや恩師のフッサールも含まれていたのである。もっとも、ハイデガーその人が、大学図書館にあったフッサールの著作を禁書にしたという、よくいわれる話を証明する根拠はない。第一次世界大戦の戦場で息子を亡くした愛国者・国家主義者であったフッサールは、自らのことをハイデガーの個人的友人と考えていたから、そのやりように、非常に動揺した。彼は、五月四日に、こう書いている。「そして、一九三三年にどちらが本物のドイツであったが、また、誰が真のドイツ人であったかは、後世においてのみ、審判されることとなろう。多かれ少なかれ、唯物主義的・神秘的な今日の人種偏見に与した者が、純粋な心性のドイツ人、すなわち、崇敬され、不朽のものとされてきた伝統を有する、過去の偉大なドイツ人の末裔が、ということなのである」。一九三八年にフッサールが亡くなったときも、ハイデガーは葬儀に参列しなかった。
広範かつ急速に増大していたヒトラー崇拝の列に加わったハイデガーは、学生たちに語りかけた。「総統その人、彼だけがドイツの現在、現状、そして、未来であり、法なのだ。知を得るために研究せよ。今より先は、万事が決断を、あらゆる行動が責任を要求する。ハイル・ヒトラー!」
彼の野心は、志を同じくする他大学の学長たちと協力し、全国の大学組織のなかで指導的な役割を果たそうとするところまで膨らんでいたのだ。一九三三年六月三十日に行った演説で、ハイデガーは、「国民革命」はいまだほとんどの大学に及んでいないと不満を述べ、ハイデルベルク大学のナチ学生たちに、その学長で、保守主義者の歴史家ヴィリー・アンドレアスを追放すべく、情熱をこめた運動に着手するようにうながした。一週間後の七月八日、アンドレアスは、ナチの学長候補ヴィルヘルム・グローに取って代わられたのである。ところが、ハイデガーには、政治的な経験がまったく欠けていた。まもなく彼は、大学では日常茶飯事である人事をめぐる内紛に巻き込まれ、抜き差しならなくなってしまった。バーデン教育省の官僚たちに裏をかかれ、ハイデガーのことを、単なる夢想家にすぎないとみなしている褐色シャツの学生たちに小馬鹿にされたのだ。
一九三四年初頭までに、ハイデガーは「ナチズムの哲学者」としての立場を固めたとの、複数の報告がベルリンではなされていた。しかし、ハイデガーの哲学は、ほかのナチ思想家にとっては、あまりに抽象的で難解に過ぎ、おおいに利用できるというわけにはいかなかった。彼は、あらためて知と真実の根源的価値に集中することによって、ドイツの大学における営為を自発的に国民生活に再結合させるべしと提唱し、研究者たちのあいだに広い影響力を獲得していた。これらすべてが、きわめて壮大なことであると思われたのだ。だが、ハイデガーの介入は、多くのナチスに歓迎されたけれども、そうした理念を子細に検討していくと、実際の党の路線とは調和していないものと思われた。よって、彼の敵たちが、アルフレート・ローゼンベルクの支持を確保し得たのも、驚くにはあたらない。ローゼンベルクもまた、自分がナチズムの哲学者になるとの野望を抱いていたのである。全国レベルの役目を果たすことを拒否されたハイデガーは、学界政治の些事にねずらわされて、しだいに欲求不満になっていき、一九三四年四月に学長職を辞した。そのような雑事は、彼が大学に普及させようと望んだ新精神が、哀しいほどに欠如していることを暴露しているものと思われたのだ。それでも、ハイデガーは第三帝国を支持しつづけ、一九七六年に亡くなるまで、一九三三年から一九三四年にかけての自分の行動を再考、あるいは謝罪することを、一貫して拒否したのである。
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